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縄文時代の区分

縄文時代は、数字の上では、13,500年も続いたことになりますが、縄文文化には、時期による違いや地域差が、かなりあります。
本来、それを一つの時代、一つの文化として、取り扱うことは、必ずしも適切ではないのです。
専門家も、縄文時代、縄文文化を、一括して、叙述するようなことはせず、いくつかの時期や地域に分割して研究を行うことが多いようです。
そこで
この記事では、縄文時代の時代区分に焦点をあて、雑感を書いてみることにします。
記事内容は次の通りです。
1.考古学上の時代区分
2.縄文時代への移行期と定着期

1.考古学上の時代区分
考古学では、縄文時代を、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6つの時期に区分しています。
草創期の時間幅は、16,500年前から11,500年前頃までの約5,000年間。
縄文時代に先行する後期旧石器時代の文化から、本格的な縄文時代の文化へと次第に移り変わっていく移行期です。  
早期は、11,500年前から7,000年前頃までの約4,500年間。
この時期には、気候が急激に暖かくなったため海水面が上昇し、日本列島域における沿岸部の地形や自然環境が大きく変化しました。
日本列島の各地では、新しい環境に適応して、次第に定住生活が始まります。
また、
試行錯誤の結果、新しい自然環境における動植物の中から食べられるものが見つけ出され、食料の種類は、以前よりも豊富になり、
特に、
魚介類は、新たな食料の中に加えられたものも多く、それにより各地で、貝塚が形成されるようになります。
縄文文化の基礎が、つくられた時期です。
前期は、7,000年前から5,500年前頃までの約1,500年間。
気候が、最も温暖化し、関東地方では、海が現在の栃木県あたりまで大きく入り込んでいた時期です。
この時期の海水面の上昇を縄文海進と呼んでいます。
台地の上を居住地点として、規模の大きな集落がつくられ、
一方で、
台地に隣接する低地の開発が進み、水場として利用されることも多くなります。
ウルシの利用も本格化するなど、さまざまな植物利用が行われるようになります。
遺跡数、ひいては、人口も増加し、早期の文化を発展継承して、縄文文化が大きく花開いた時期でもあります。  
中期は、5,500年前から4,500年前頃までの約1,000年間。
地域によっては、100棟以上の住居からなる大型の集落が形成され、人口数も、全体で26万人を超え、最も多くなった時期です。
前期までの発展を、さらに拡大させていく時期でもあり、縄文文化の高揚期と言えるでしょう。
一般に、縄文土器として紹介されることが多い、大ぶりな文様が付けられた土器や、国宝の縄文のビーナスのような妊婦を模した土偶の多くは、この時期につくられています。
後期は、4,500年前から3,300年前頃までの約1,200年間。
中期の終末から後期の最初の頃に、気候的に冷涼となる時期があり、これによって中期までの集落のあり方や墓のあり方、社会構造や精神文化などが変化を起こします。
そのために、
縄文文化の変容期とされる時期です。
後期後半には、北海道や東北地方北部などで、特別な墓がつくられるなど、従来のイメージにあるような単純な平等社会とは、やや異なった状況がみられるようになってきます。  
晩期は、東北地方を基準にしますと、3,300年前から2,400年前頃までの約900年間。
東北地方において、精巧な亀ヶ岡式土器や遮光器土偶を生み出した亀ヶ岡文化が発達した時期のことを、日本列島一律に、縄文晩期と呼んでいます。
ただし、
九州においては、3,000年くらい前から水田稲作が開始されるため、実際には、晩期の期間は、300年程度しかないことになります。

2.縄文時代への移行期と定着期
縄文時代の時間幅の約3分の2は、草創期と早期が占め、前期以降の期間は、全体の3分の1ほどの時間幅しかありません。
つまり、
縄文文化の代表例として取り上げられることが多い、中期の火焰型土器や、晩期の遮光器土偶は、縄文時代の後半の3分の1の時間における、一時的なものに過ぎないことになります。           
草創期という長い助走期間があったあと、早期で次第にピッチをあげていき、前期・中期・後期・晩期と一気に加速して駆け抜けていくようなイメージになります。
こうした時間幅の在り方を念頭に置いて考えると、より深く縄文時代を理解することができるかと思います。

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