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異世界探索記18

旧ser.18(2021年4月13日公開)ser.19(2021年4月24日)より抜粋

② 2021年3月15日「フォーカス27」「仏陀」


・体外離脱「フォーカス27」
 私は接触しようと思っていた対象のことをすっかり忘れてしまっており、たまにはやったことのないことをしようと思い、「フォーカス27」と言ってみた。すると自動的に体が浮遊していき、暗闇のトンネルの中を上昇していった。このトンネルは、よく体験するものに比べて短めで、上に突き抜けると、私はそのまま下に下降し、トンネルを逆行しそうになった。私は、落ちるわけにはいかないと思い、自分の力で再浮上し、天井にあった豪華なシャンデリアにつかまり、そのまま着地した。そして「最後に、自分で立つことを決定しなくてはならないのだな」と思った。選択しなければ、着地できないのだ。着地すると、重力的なものをしっかりと感じ、両脚をしっかり地面につけている印象が強く残った。
 見渡すと、そこは壁も天井も色の濃い水色であり、遊園地のようにメリーゴーランドなどの遊具がたくさんあり、大勢の子どもたちでにぎわっていた。ほとんどが子どもたちだったが、若い男女もいたと思う。中年や年寄りが全くいなかったが、私は別の部屋にいるのだろうか、と思った。
 この空間に対して、私は狭くて人も多く、窮屈という印象を受けた。もっと広い場所か、中央的な場所はないのかと思って少し歩くと、あっちには何々、こっちには何々という案内標識があり、今いる場所の表示として「中央公園」みたいなことが書かれていた。広い場所を探そうと思い、歩き出したところで気を失った。
・体外離脱「仏陀」
 目が覚めると、また実家2Fの中央の部屋にいた。私は、これまで呼んだことがないものを呼ぼうと思い、ふと先日、イラスト風のキリストが夢に出てきたことを思い出し、今日は仏陀を呼んでみようと思った。私は少し恐縮した気持ちで、「仏陀に会いに行く」と言った。
 すると体が上昇しながら引っくり返り、足を天に向けて上昇していった。上昇していくうちに、どうも私は体が無くなり、意識の点になっていたような気がする。というのは、天に向かっている両脚を認識することができなかったからだ。
 真っ暗闇の中にいて、すでに上に向かって進んでいるのか、制止しているのか分からなかった。すると意識の左上と感じる辺りに、カジノのルーレットにある赤と黒のたくさんの番号が振られている「輪っか」が、3層(もっとあったかもしれない)に重なっており、それらがそれぞれスロットマシンのようにグルグルと回転しているのが見えた。「これが同じ数字に揃えばよいということかな?」と思っていると、そのルーレットの層の左に、書類のようなものが見えた。そこでブラックアウトした。

⑨ 2021年4月7日朝 「シヴァ」「パールバティー」「ラクシュミ」


 この体験は、「タロット探索記Ⅱ」に記載された「吊られた男」への接触の後のものである。その体験の後、タロットの1枚引きで「愚者」が出たので、「愚者」に接触するつもりだったのだが、接触することは無かった。何度も体脱を繰り返した。繰り返したというのは、目が覚めたのではなく、気を失っては実家2Fの中央の部屋のベッドに戻ってきたということだ。
最初は部屋に「歌舞伎揚げ」と「カレーせんべい」があり、私はそれをムシャムシャと食べていた。誰かと話をしていたと思う。
 気を失い、気がつくとベッドで金縛りになっており(体脱中のボディーが金縛りになっている)、松村先生の何かの説明があった。私には珍しく、金縛りに不安を感じていて、それは1Fから階段を得体の知れない何者かが上がってくるような予感がしたからだった。
 気を失い、気がつくと、海水浴で浜辺にいた。息子がいて、何かの写真を撮ろうとしたが、上手に取れなかったみたいな内容だったが、ほとんど記憶に残っていない。
 気を失い、気がつくと、やはり実家2Fの中央の部屋にいた。私はベッドから立ち上がり、何を呼ぼうかと少し考えて、突発的に「シヴァ」を思いついた。両腕を天に捧げ「シヴァ」というと、その声が勢いのある若いイケメンボイスで響いた。すると体が十字型のまま俯せに倒れていき、床下に沈んでいった。暗い斑空間だ。鼠径部にギューンとエネルギーが集まってくるのを感じた。
 気を失い、また同じベッドに横たわっていた。私は立ち上がり、再び何を呼ぼうか考えた。ふと「シヴァ」を呼んだのだから「シャクティー」を呼ぼうと思ったが、それは何かおかしい考え方かな?と疑問に感じ、インドの神々で女神といえばと思い「パールバティー」と言った。この時の声が、早口で二重の声になり、私の声と、女性の美しい声が重なっていて、「パールバティー」というより「パーバティー」みたいな感じになった。どうもこれが正式な呼び方なのでは、とそのときに感じた。この後の体験は「シヴァ」とほぼ同じで、十字型のまま俯せになり、床下に沈んでいった。鼠径部へのエネルギーの感覚は、無かったような気がする。
 気を失い、気がつくと、ベッドの上で横たわっていた。ただ、このときだけは、今現在過ごしている部屋だったような気がする。真っ暗で何も見えなかったので、はっきりとは分からない。ベッドから立ち上がり、同じように考えた結果、私は「ラクシュミ」と言った。呼んだ後、3秒くらい沈黙があった。私は「これは来ないのかも」と思った瞬間、ゆっくりと十字型のまま俯せになり、床下に沈んでいった。この一連の動作が、さきほどよりもスローだった。暗い斑空間をゆっくりと沈んでいき、フェイドアウトして、肉体的に目を覚ました。
・コメント
 この記事を書きながら気づいたのですが、カレーせんべいを食べていたことと、インドの神様を呼んだことが繋がっていますね(笑)思い出すに、カレーせんべいのほうが歌舞伎揚げよりサイズが小さかったですが、その代わりたくさん入っていました。どちらも透明の瓶に入っていました。歌舞伎揚げも食べましたが、私はカレーせんべいのほうを、大量に食べていました。
 何度も言いますが、私は座学をほとんどしてないので、神話とかもあまり知りません。インド神話となると、ほんとにからっきしで、少し名前を知っている程度で、何をした神様かは全く知りません。何故呼んだのか?あるいは呼ばれたのか?
 三神とも、動きが同じだったことが気になります。しかも事前の「吊られた男」とも同じでした。

① 2021年4月10日② 自由に体外離脱あるいは明晰夢体験をすることについて


 少し、上記のテーマについて話します。複雑な話なので、スマートに語る自信はないのですが、おもしろいテーマだと思います。分かりやすくするために、やや極端に話しています。
 今日、珍しく、体外離脱や明晰夢について肉体次元で会話する時間があり、いくらか質問を受けました。その質問の中で、「したいときにできるのですか?」という質問がありました。
 私は、どうしてもしたいと思うときには、ほぼできると思っているので、「まあ、そうですね」と答えたのですが、もしかしたら、この質問者の方のとらえ方と私のとらえ方は、かなり違うのではないかと思いました。細かく説明しようと思えばできたと思うのですが、複雑な内容になり、伝わりにくいので、「まあいいか」と瞬時に判断し、「そうですね」と答えたわけです。
 私がこのようなメソッドを使っているのを知っているのは、限られた人たちだけなので、滅多にこのような会話が発生することはないのですが、まれに「では、夢で会いに来て下さい」と言われることもあります。
 私はそれに対しては、ほとんど気が進まず、「それはできないだろうと思います」と答えます。相手は「自由にできるのならば、すぐにできるだろう?」と感じており、不満そうですが、事態はそのように単純では無いと、私自身で感じています。
 私の感覚では、重要なのは、「そのことに関心を持てるかどうか」ということなのです。自由に行けることは行けるのですが、その時に、純粋に「行きたい」と思っている、あるいは「行く」と決断できていることが、事態を左右することになると感じています。それがないと、完全にとは言いませんが、ほぼできないのです。しかももっと事は複雑で、個体としての私が「行きたい」と思っていても、「大きな私」がそれを望んでいないときも、それは実行不可能になるということがあります。体脱した瞬間に、私はその「行く」ということを、すっかり忘れているのです。
 身体あるいは物質に依存している部分、あるいは地上社会や常識的価値観に同一化している部分、つまり小さな自分が判断したことは、体脱すると小さくなってしまいます。全くなくなるかというと、そうでもないです。おそらくエーテル体と肉体が繋がっているので、物質次元の記憶が、少し混ざってくるという感じです。どうやっても「全面的に覚えている」というわけにはいきません。私は実家2Fで覚醒すると、地上で眠っている自分の部屋を思い出すことができません。
 さらに「体脱世界で自由自在に動けますか?」という疑問に対しても、同じようなことが言えます。「私が心から望んだことであればできます。つまりできるのです。しかし、地上で、「ああしよう、こうしよう」と思っていたこと全てが、できるわけではありません。それはつまり、本気でそうしたいと思ったことではなかったからです。」という答えになります。
 私の感想としては、「自由に体脱できる」とか「自由に体脱世界で動ける」という感覚を、地上世界と同じように考えることは難しいです。地上では、歩けば、あるいは別の言い方をすれば肉体を動かすと、そこに移動することができます。おそらくそのようなことを、地上では「自由」と言います。しかし体脱世界では事情は異なります。行こうと思えば、いくらでも行きたい場所に行けます。しかし「どれだけ本気で行きたいと思っているのか」ということが、距離になるのです。物理的な距離や理由ではなく、心魂的な距離や理由が、重要になってくると思います。
 ですから、地上的尺度から見れば、「それでは自由自在にできる状態とは言えない」と判断されると思われます。しかしそのような地上的価値観にしばられている間は、体脱することは難しくなるわけですから、私としては、やはりそれでも「望めばできます」と答えるより他ないのです。私が感じている、体脱や明晰夢において重要なのは、「それを望むことができるかどうか」です。

② 2021年4月11日朝 夢「ワープできる段階」(体脱と明晰夢時の移動について)


 上記のような記事を書いたためか、それをさらに修正するというか、より詳しく説明される夢を見たので、報告します。
 夢。神殿と遠く続く階段が合体したような場所にいた。階段とはいっても、横幅が長く、緩やかなもので、美しく石で整備されていた。私はここで、競争することになっており、最上階まで移動する早さを競うという内容だった。そして特徴的だったのは、瞬間移動したければしてもよいというルールだった。
 横一列に参加者が並び、用意スタートで、全員が走り始めた。私は「この距離ならば、ワープを試みるよりも、ダッシュした方が早い。ワープは失敗する可能性が高い」と思い、ゆるやかな階段を、マックススピードで走って行った。私は先頭を走り、一着で到着した。結局、ワープは使わなかった。
到着すると、ゴールした先に、四角い床が空中に浮かんでいるのが見えた。そして非言語のメッセージで「ここにワープしてみなさい」と伝わってきた。私は自ら自転するようにクルっと回転してワープしようとしたが、1回目は失敗した。もう一度、同じ行動をすると、瞬時に移動し、その空中に浮かんでいる床にワープした。
 寝起きの際に、私のことを小馬鹿にするように笑う男性の映像がはっきりと見えた。私が淡々とその様子を見ていると、その男の目玉がギョロっと動き、極端に上を見るような視線になった。
・コメント
 瞬間移動できる振動レベルと、瞬間移動できない振動レベルが、ゆるやかに繋がっていることを知らせる内容でした。一番下の階層から、四角い床にワープすることは、ほぼ不可能であり、かなり挑戦しなくてはできないと思われました。一番上でも、一回失敗することになりました。
 この階段は緩やかなものであり、階層としてはっきりと区切られるほどのものではないと思います。一番下が、より肉体次元に近いエーテル振動、一番上でも、それほど肉体次元から離れていないエーテル振動です。
 おそらく完全に、自由自在に瞬間移動できるためには、肉体の重しが無くなる必要がある(つまり死ぬということ)のでは、と思います。肉体を持って地上で生きている間は、引きずられ成分が、どこまでもついてくるのではないでしょうか。
 濃く体脱したときには、体が本当に重くて、肉体に重力があるようで、一歩進むにもすごく時間がかかることもあります。私は最近はそのようなことはあまりありませんが、体脱し始めた頃にはよくありました。体に近い成分を脱ぎ捨てて(あるいは少なくして)体脱した場合には、エネルギーボディーは非常に軽く、空を飛ぶのも自由自在であり、行きたい場所に行きやすくなり、星を呼べば、接触することもできます。あちらからやってきてくれます。ワープするというより、「こちらに引き寄せる」という感覚に近いと思います。結局、ワープというのは、「距離」という概念を無視するということですから、こちらが行くのとあちらが来るのとでは、同じようなことになってしまうような感じがします。
 しかしここでさらに説明がいるのは、薄く出る=振動の高い層に出るということは、それだけ、見える世界が、地上世界と全く様相が変わってしまうということです。もはや別世界になるのです。そういう訳で、この夢で知らせているのは、体脱して地上世界ギリギリの低次エーテル界を移動する場合に、歩いたり走ったりして移動する、少し飛べる、少しならワープできる可能性がある、という感じで、同じ階層の中でも、より細かな階層があるということに見えます。
 ゴールした先でワープ先に移動した場所は、空中に浮かぶ床であり、すでに物理法則を無視する層ということを暗示していたと思われますので、見た目は同じようでも、やや世界観や見え方が、階段の下の階層に比べて違ってくるということだと思います。
 話が長くなりましたが、一言で言うと、地上次元に近いほど、瞬間移動は不可能になると考えられるということです。逆に言うと、瞬間移動できる階層になると、それはもはや地上とはほとんど関わりが無い世界になってしまうということです。
 起きがけに見えた意地悪そうな男性は、肉体次元に捕らわれている人物、個別性の中に閉じこもっている人物を象徴していたと思います。そのような人物から見た場合、地上世界的判断が全てになりますので、私の考えに対して、「そのようなものは認められない。この地上世界ギリギリのエーテル界で、自由自在に動けることこそ価値がある」という反論をしているかのように思えました。私が、彼の冷やかしに乗っかって、低次エーテル世界で自在に動けるということに躍起になってしまうということは、彼の仕掛けたゲームに乗ってしまうということになり、地上世界的価値観に引きずられる結果になるように思えました。彼は私と視点を交わすことができなくなり、両目が異様に上に偏り、何も見えなくなってしまったのは、彼の目には、私を捉えることができなくなってしまったということを示しているように思えました。
 先日の体脱で、「このような場所を探索しても意味がない」と、私が感じたことと繋がる夢だったように思えます。
 死んで肉体を脱ぎ捨てたあとのことを考えた場合に、もはや肉体がないのだから、地上に引きずられるほどの低次エーテル界には接触できなくなると思えますので、普通にワープできる階層ということになるのでは、と思います。つまりどこかの巻で記載した「こんな場所を探索しても意味がいない」というのは、肉体に近い低次エーテル世界のことを指していたのだろうと考えられます。
個別性に引っかかるというのは、自分の中の個別性と、相手の中の個別性が共鳴するということであり、相手をきっかけとして自分の弱い部分に引きずられるということでもあります。肉体を持つ以上、そのようなパーツは、地上に滞在するための「錨」として存在するわけですが、それを自分だと思い込むことで、本来の場所を見失います。錨があることは認めつつ、それを重要視しないことがコツだと思います。「錨(個別性の側面)など、私にはない」と言い張るのは、逆に個別性に捕らわれている状態に思えます。
別の言い方をすると、「H48をないことにすることはできない」ということです。H24を獲得したときに、H48にとって相応しい場所・納めどころを見つけることができます。この状態になったとき、肉体や地上的側面への引きずられ感が減り、体脱や明晰夢の成功率が高まることにも繋がります。自己想起が、体脱や明晰夢の成功率を高めるという言い方もできます。

⑦ 2021年4月18日②朝 「釈迦」「キリスト」


 上記の体験の後、何を呼ぶか決まっていなかったので、何にしようかと思った結果、両腕を天に捧げ、「釈迦」を呼んだ。体が自動運動し始め、十字形のままうつ伏せになり、そのまま床下に下降していった。そして今までにない特徴的な体験として、俯せを超えてさらに頭から沈んでいき、着地から見て180度反対の体勢になった。いつものような暗い斑空間だ。
そのあとの記憶が定かでない。あちこち浮遊したような気もするし、そのまま回転が進み、360度回転して、もとの場所に帰ってきたような気もする。体勢は十字形のままだった。気を失うことなく、実家2F中央の部屋に戻ってきた。
 私は立て続けに、両腕を天に捧げて「キリスト」と言った。すると十字形のまま体が仰向けになっていき、仰向けのまま床下に沈んでいった。斑空間を進みながらフェイドアウトし、そのまま肉体次元で目を覚ました。

⑧ 2021年4月20日朝 「老子」


 この日は、変成意識において、「老子に接触」、「F10で長い快感体験」、「悪魔のカードへの接触」、「F10で長めの快感体験」「太陽のカードへの接触」、「安倍晴明への接触」を連続して経験した。
タロットの報告は「タロット探索記」に記載しているので、ここでは「老子への接触」と「快感体験」についてのみ記載する。「安倍晴明への接触」は、おそらく「太陽への接触」と関係があるので、「タロット探索記Ⅱ」に記載する。
 変成意識に入ると、実家2Fの中央か玄関側の部屋に出た。私は接触するべきターゲットを思い出せず、何にしようか考えていた。なぜか「老子」を呼ぼうと思った。先日、「神道も茶道も、全て道教が根本なのだ」と主張する老人と話したので、そのことが記憶に残っていたのかもしれない。
私は実家前の小道に立ち、両腕を天に捧げ、「老子」と言った。すると十字形のままうつ伏せになり、そのまま地面の下に沈み込んでいった。斑空間を下へ下へと下降していくうちにフェイドアウトし、F10の状態になっていた。
 すると、会陰を中心として鼠径部全体に快感が走り始めた。会陰には押されるタイプの快感が走り、それに伴って、キューンとするタイプが鼠径部全体に広がった。会陰への押す感覚は何度も繰り返された。たいへん気持ちがよく、この快感を与える存在の意志のようなものが感じられた。私はいつまでもこの快感を味わいたく、いろいろと姿勢を変えたりしていた。これまでで最長記録と思われる時間の長さだったが、恒星との接触に比べると、エネルギーの質が少し荒い感じがした。
 快感体験が終わると、実家2Fの中央の部屋に出て、「悪魔のカード」との接触を体験した。その経験の後、またF10の状態になっており、上記と同じような快感をさらに体験した。その体験後、実家2Fに出て、「太陽のカード」、「安倍晴明」との接触へと続いた。

⑩ 2021年4月22日② 思索「いつの世も社会は殺伐としていたのかもしれませんよ」


 上記の話(編集後記:上記の話は略)の延長になりますが、恒星を見出した時、生き方が一転するのを感じます。松村先生も「恒星に成りきるための道」を提示し続けて下さっていますし、いつもお世話になっているエネルギー使いのY先生も、私へのメールで「星につながることが何よりも重要です」と語ってくれました。
私は今、この地上を、創造するための素材置き場のような見え方がしてきました。そのように見えてきたとき、昔の愛読漫画「家栽の人」で、主役の桑田判事が言った言葉を思い出しました。「いつの世も社会は殺伐としていたのかもしれませんよ」という言葉です。
「世の中が悪くなってきたと言う見方は、いつの世にもあったのかも」ということです。そしてそのことに対抗するための「世直し」がまた生まれます。それは循環のように見えます。それならば、我々はただの循環の中で生きている力のない存在なのでしょうか。シェイクスピアの言葉にあるように、「世界は舞台であり、男も女もみな役者にすぎ」ず、善も悪も、それぞれが役割を演じては去っているに過ぎないのかもしれません。
 桑田判事が目指したのは、犯罪のない世界ではなく、「いつの時代にも殺伐としているであろう社会の中」で、法律という手段を使って、子どもたちの笑顔を見ることでした。完璧なる世界を目指すことではありませんでした。それを目指してしまっては、いつまでも満たされることはないのです。役者たちによって、殺伐とした演劇は続けられるからです。
 それなら、我々にできることは何か?星とつながったときに、それが見えてきます。「この殺伐として見える地上の中で、何を作ろうか?」という発想です。
 地上社会に様々な法則・循環が働きます。それらの法則・循環は、おそらく「地球にとっての人類の必要性」に従って運行されます。太陽の光を地球にもたらすための受信装置、いわゆる「苔」としての役割です。
 私はふと思うのですが、「果たして人類が自らを滅ぼす決定権を持っているのか」、疑問に思えてくるのです。「このままいくと、人類は滅びる」みたいなことが言われたりしますが、そのような権限を、人類そのものに与えられているのだろうか?と思ったりします。「地球が人類を必要としている限り、絶滅はないのでは」と思えます。逆に言うと、「絶滅は許されない」とも言えると思います。ただし、個人レベルでみた幸・不幸にまで、地球が関与するとは思えないので、その辺りは別の問題となるとは思います。
 この辺りはたいへん微妙な内容で、私が感じていることが、すんなりと伝わらないのかもしれません。「だから世直しはいらない」ということではないのです。「世直しもまた、法則として、循環として、必要分だけ行われることになる」ということです。それは地上側に働いている法則であり、循環であるということです。
 星の側に立った時、つまり下降型になった時、「そのような循環や法則が働く地上の中で、何を創造したいのか」という視点に変わります。その活動が、「世直し的活動」として表現される可能性もあります。しかしおそらくその存在は、「私の思想によって、地上を一色に染め、永遠のパラダイスを作りたい」などという過激な発想は持たないだろうと思います。「今、ここにある材料で何を作るのか」が、いつまでも重要であり続けるからです。

⑪ 2021年4月22日② 思索「望み方」


 Y先生は、「エネルギーによる調整で、それぞれの望みが叶うような流れを作っている。しかし、すぐにそれぞれの癖が戻ってきてしまい、自らそれを打ち消してしまうことがある」のようなことをおっしゃっていました。さらに「例えばお金持ちになることもそうだが、本気で思えば、どのようなことも叶えることができる。結局、どこかでそれを望んでいないから叶わないのだ」のようなことも仰っていました。このような癖が無くならない状態は、肉体あるいは個体に閉鎖された「H48を中心とした存在形態」を取っている状態ということで言い換えることができると思います。つまり「H12‐H48-‐H192」です。「やや頭の良い哺乳類」という立ち位置を選択している限り、何かを生み出すという感覚を自分の内に見出すことはできず、「役者」として、地上という「舞台」に賑わいを与えるだけの立場であり続けることになります。地上が提示した法則・循環という台本に従ってしか動けない状態です。それを超える望みを、心魂に保つことができない状態です。
 私はこの巻の最初辺りに「本気で望むことができるかどうかが重要」と書きました。これは私の感想ですが、「望み方」というのは、簡単なようでいて、とても難しい感じもします。特に地上においての望み方です。その望みが、自分の偏りによってもたらされているのか、あるいは偏らない自分からもたらされたものなのか、ということです。偏った自分、小さな自分からの望みには、どこか空虚で嘘くささがあり、おそらく実現しても大きな充足感がありません。むしろ虚しさがあるかもしれません。それはインスタントラーメンのように、すぐに分かるのです。「これが欲しい」と。
 地上において、より大きな自分からもたらされる望みは、小さな自分を超えたところからやってくるわけで、「速攻で分かる」という感じはありません。大きな自分に問い合わせるような感覚があり、「どうやら私は、このようなことを望んでいるらしい」という感覚があります。それはシンクロニシティーや出会いによって、ふわ~っと、次第に見えてくるような感覚です。集団意識的と言ってもいいかもしれません。それはつまり、全惑星意識というのは、集団意識に関わってくるわけですから、自分の望みと集団の望みの共振が必要になるということだと思います。もちろんその集団というのは、地上的集団ではなく、クラスター的なものです。
 体脱中は事情がことなります。肉体を置いていているので、すでにより大きな自分との距離がぐっと近くなっているわけで、パッと望み、サッと叶うという傾向が高くなるのです。
 話は少しズレますが、集団意識にも階層というものを設けるといいのかもと思いました。その階層は、クラスター、クラスターのクラスター、クラスターのクラスターのクラスターというふうに、より巨大になっていきますが、肉体次元・地上世界より振動の高い次元においては、歪み成分があまりなく、型共鳴が分かりやすいのではないかと思います。興味がそそられるのは、肉体次元・地上次元における集団意識との接続です。ここにもアンタリオン変換のようなものを働かせることができるのか、ということです。
 クラスターに開かれていない状態では、もちろん、地上世界における集団意識と、上位世界における集団意識というのは、分離してしまうのではないかと思います。開かれていない状態で、上昇型として進化して行きH24に至った時、その集団意識は地上的なもののはずです。所属するコミュニティーとの共振、あるいは会社内部での集団意識ということです。ベースは地上にあります。
この進化した存在が恒星意識に至った時、所属している集団意識がクラスターへと変化します。この時、何が起こるのでしょうか。おそらく、地上的に所属している集団、つまりコミュニティーや会社、アソシエーションに対して、見えない世界からの介入が始まるのではないでしょうか。集団が変質していくということです。その集団は、その存在が所属している恒星色に変容していくのではないでしょうか。そしておそらくそれは、ジワジワと支配権を広げていくような感じで、会社で例えると小さな部署から徐々に浸食し、会社全体に及んでいくみたいな感じになっていくのではないかと思われます。

⑬ 2021年4月23日 思索「アンタレスの道」


 私は、2018年くらいから松村先生のネット学習をきっかけとして恒星探索を開始し、この一年は、なかなかなスピードで探索を続けてきたと思います。きっかけとなる心情としては、やはり社会や通常の人生の窮屈さ、真実味の無さ、味気無さ、虚しさのようなものがあり、そこから逃れたいという思いがあったと思います。多くの人が飲酒やギャンブルなどに依存し、時にはドラッグに手を出してしまうケースがあるように、誰もがその陰鬱さを人生の中で感じているに違いありません。その陰鬱さは、真実でない状態、真実を正確に表現していない状態にあるから感じるのだと思います。人は肉の塊ではなく、常識が真実なのではなく、人には霊魂があり、真実は常識や科学的知識から果てしなくはみ出ているものだからです。
 私は閉鎖状態から逃れ、水中で息を止め続けることから解放されたいような思いで、息継ぎするために、振動の高い世界に接触していきました。積極的な目的ではなく、消極的な目的であったと言えるでしょう。
 今、私は、その感覚が変化してきているのを感じます。逃れるためではなく、生み出すために、変成意識の世界の旅人に、積極的になろうとしている状態にあると自覚しています。
 なぜそのように感じるようになったのかと言えば、振動を高め、恒星に接触し、あるいは神話の神々や伝説的人物や歴史的人物とエネルギー的交流を持つ中で、その交流の結果が地上世界に反映されることに気づいてきたからです。それは私個人の中に現れる現象なのではなく、出会いの中に反映されると、最初に私は感じました。その接触に対応するような出会いが、反映として、シンクロニシティー的にもたらされるのです。
そしてさらに私はそれを超えた発想を持ちました。変成意識の中で私が恒星やその他の高振動な存在たちに接触するというのは、私の個人レベルの体験ではなく、集団意識レベルの体験のはずです。H24というのは、集団意識だからです。
 つまり私が言いたいのは、私が恒星やその他の高振動な存在たちに、変成意識において接触を繰り返すということは、私と同じクラスターにいる人たち、あるいは他の何らかの形で、見えない形で関わっている人たちの中に、恒星の光をもたらしたり、インスピレーションを与えたりすることにつながるのではないか、と思ったのです。
 私は「アンタレス」を、私の恒星自我だと考えています。アンタレスとはつまり、そういうことではないかと思ったのです。道の神、猿田彦大神が、神々を案内し、神の道を作ったように、私がアンタレスに成りきり、多くの恒星接触体験を増やせば増やすほどに、地上に神が降りてくるということになるのではないかと思いました。上記の記事で言うと、マスターを増やしていく、王を増やしていくことになるという言い方もできます。
 その接触がシンクロニシティーとして地上に反映される具体的なコンテンツは、私には分かりません。だからこそ、それが面白そうだと感じるのです。「次は何が出てくるのだろう?」というワクワクした感じです。

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