見出し画像

リリスと夢魔


はじめに~探索の経緯~

異世界探索で恒星や神々に接触しはじめたころ、上昇する体験が多かったです。その体験には、未知の世界に触れていくという解放感や喜びが伴いました。やがて平面的に回転することが多くなり、その後には、下降することが多くなりました。それに伴って、快感を覚える場所が、スワジスターナやムラダーラから、マルクトに移動していきました。最近アンタレスに接触したときには、やはり足裏に強く押される快感が走りました。(ただこれは仰向けなのか俯せなのかよく分からない、上下左右前後が分からないような状態で、奇妙な回転をしていました。)
やがて、私は上昇することがほとんどなくなり、そのことに焦りを感じるようになってきました。ひょっとして、このまま遠くに飛べなくなってしまうのではないのかと。そして次第に、遠くに飛ぶこと自体への興味が薄れていくのを感じ、それと同時に「こんなことでよいのだろうか?」とも思っていました。今では、よっぽど興味があるテーマやターゲットがなければ、変成意識に入ることがありません。最近では、天津𤭖星やリリスがそうです。それよりも、この肉体次元において、いかに喜びを感じていられるのかということに興味が向かっているのを感じます。
ちょっと開き直ってみて、これでいいのではないかと思いました。そしてそれと同時に、「上昇しきったものは下降し、下降しきったものは上昇する」ということがいかなることなのかを理解しました。私の焦りは、無用の長物だったように感じました。それは単なるリズムなのだろうと。
考えてみると、最近のテーマが、日本神話、金星(天津𤭖星)、月(リリス)という流れにあったわけですから、恒星界から徐々に下降してきたことを、そのまま描いているように見えます。これは無自覚なことだったので、ああ、そういうことだったんだなと、感心させられました。
最近、時間を割いているのは、エネルギーを使って遠隔透視したり、誰かのエネルギーのコンディションを整えたりするということで、肉体次元にいながら、不可視のものを感じて動かすというテーマをもっています。さほどは上達しない感じですが、それでも手ごたえがないわけではありません。きっとこの先に、何かあるだろうと思っています。複数次元をレイヤー的に見るための訓練の1つです。これは松村先生のNOTEのメンバーシップで、実体をみないでオーラを見る練習という板でやっていたことに似ていることだと思います。
先日、リリスの記事を書いていて、もっとこのことについて考えてみたくなりました。それが肉体次元とエーテル次元について整理して理解し、次に進むための手がかりになるような気がしたのです。そしてリリスについてちょっとwikiなどで調べてみたりしました。

リリスは夢魔の王

リリスにはいろいろな説がありましたが、夢魔(サキュバス)の王様だという考え方があるのを知りました。夢魔の女性バージョンがサキュバスで、男性バージョンがインキュバスということで、それぞれ異性のターゲットを夢で襲い、エネルギーを吸い取ってしまう悪魔とされ、場合によっては襲われた人が死んでしまうということも。夢魔との接触はキリスト教において罪とされていたようです。
リリス自体は、肉体を持たず、地上に転落していないわけなので、男性性と女性性に分裂しているわけではありません。リリスは中性です。神学大全でトマス・アクィナスは、サキュバスは両性具有だと言っていたそうなので、サキュバスとインキュバスは同じということを言っていると思われます。
私の感想としては、リリスは中性であるが、場合によってはサキュバスに見えるし、場合によってはインキュバスに見えるということになると思います。そういう意味では両性具有的でありつつ、夢魔の王にも見えるわけですが、実態は中性であり、いろいろな姿をとることができるということだと思います。
リリスは、地上世界を嫌がり、関わった相手を地上から解放しようとするわけなので、「関わったら死んでしまうこともある」というのは、ありうることに思えます。地上への興味を失わせてしまうからです。異世界に移動したいものから見れば、親切なガイドさんといことになります。
物質主義的に生きるということは、振動を低くしていく=分裂していく力に振動を合わせて生きるということですから、結果として、男性と女性という二極的な在り方に封じ込められることになります。男性性を高めるということは、女性性を見失うことによって分裂するということであり、逆もまたそうなります。
偏った性の状態からリリスと融合して中性になるということは、男性は女性性を取り戻し、女性は男性性を取り戻すということになりますから、男性にとっては女性の姿としてとらえられ、女性にとっては男性の姿となってとらえられるということになるのだと考えられます。
現代ですと、いろいろな性のバリエーションが想定されているようですが、結局、自分が捨ててしまった半分に向き合うという体験になるわけですから、見えるものの本質は同じものです。そのように考えると、リリスの中に、ペルソナに対立するシャドーの側面を見ると言ってもいいと思います。いくらか占星術の感受点としてのリリスについての研究発表のような動画を見ましたが、私がそれを見て感じたことは、その解釈の中に、その人のシャドーが入り込みやすいのではないだろうかということでした。ある人は支配力を強調し、ある人は母性を強調するといったふうでした。
だから、サキュバスやインキュバスは、美女や美男子に見えたり、醜悪な姿に見えたりすることになるのだと考えられます。人によって見え方が異なるだろうということです。

地上社会へのコミットとリリス

地上生活を送るにあたって、どこまで深く社会にコミットするのかという問題があります。地上世界、あるいは現行の社会にどっしりと腰を据えて生きようとするほどに、自分自身を適度に重くしなくてはなりません。地上世界において生産的になるということは、期待される社会的な役割をしっかり果たすことということになります。社会の目的は、人間社会が豊かになり、子孫が続いていくということでしょうから、概ねの考え方として、男性が男性として生きて、女性が女性として生きて、交わり出産していくことが基本となる方針となるはずです。
男性性と女性性が入り混じるようになり、期待される社会的役割に差がなくなっていったとしたら、男性が女性に引き付けられること、女性が男性に引き付けられることが減るわけなので、それだけ子孫を残すこと、社会を継続していくことからは遠ざかっていくベクトルに力が働くことになります。これは良いとか悪いとか言っているのではなくて、そのように見ることができるだろうと言っているだけです。リリスから見ると、それは歓迎される状況に見えるだろうと思えます。
一方で、エネルギーの流れが分裂に進めば進むほどに、振動が低く、重力が重くなるような状況になります。物質に肩入れするということは、全体性が見られなくなるということでもあります。物質世界は、創造の光線の下降が直接的に働きかけることができない領域にまで、振動を落としてしまっているからです。
振動が落ちれば落ちるほどに、硬直化し、単純な存在となり、望むものも単純化します。目の前の「今の自分に足りないもの」だけを追いかけるようになります。それは言い換えると、下品になっていくということであり、とても短い周期でしか物事を判断することができなくなるということです。
よって社会には、地上的生産性に巻き込まれない存在が一定数必要になるということになりそうです。男女の分割が進んでいない存在は、リリスの世界に近い存在であり、月の世界にまで行けば、創造の光線の下降を直に体験できることになるからです。世界と自分が別物のように感じるのではなく、つながっていることが普通に感じられる世界です。そのような存在が、天と地をつないでくれる貴重な存在になります。
そのような存在は、性が未分化であればいいわけですから、何も中性的な人たちでなくても、赤ちゃん、あるいは年寄りでも構わないということになります。私は他の場所でも書きましたが、赤ちゃんやお年寄りには、社会に参加してない立場から、間接的に、社会によい影響を与えることができるのです。赤ちゃんはやってきた生前の世界からの影響を、年寄りはこれから向かう死後の世界からの影響をもたらすことができます。彼らがリリスを見た場合は、中性的な存在を見るでしょう。
地上世界にいながらその生産活動に参加しない場合にも、リリスは中性的な存在に見えるでしょう。それは例えば、家族を持たないとか、子どもをもたないとか、恋愛には全く興味がないとか、仕事は最低限とかあるいは働く必要がないとか、いろいろなケースがありえます。地上社会への関心が薄いほどに、男性性や女性性、あるいはペルソナに閉じ込められる強度は少なくなります。
地上世界に強い興味を持ち異世界には興味がない状態で、リリスに魅入られてしまった場合は、夢魔の虜になってしまう可能性が高いわけですから、地上生活が破綻してなお、何も成就することはできないという悲惨な状態になりそうです。しかしそもそも夢魔に接触し続けるという時点で、異世界への扉のノブに手をかけているといえるわけですから、別に絶望的な状況とも言えないと思います。
それでは、地上世界にも興味があり、異世界にも興味があるという場合にはどうでしょうか。もちろん、その場合でも、程度という問題があります。割合としてどの程度なのかということですが、それを言い出すときりがないので、ここではざっくりとです。
この場合は、リリスは夢魔的な表現で現れますが、その交流を利用して、地上生活と月の世界をつなぐということになると思います。つまりサキュバスやインキュバスのようなスタイルやイメージで現れるが、その交流を通して、月以上の振動の世界に繋がっていく機会にすることです。

私の体験

振り返ってみると、私は先日の接触だけではなく、これまでたくさんのリリスとの接触を経験してきたと思います。リリスだと気づいていなかっただけです。
恒星を呼んでたくさんの快感を覚えることから探索は始まりましたが、変成意識の中で直に恒星が下りてくるような感覚の時には、生々しい実感はあるものの、生き物のような感触はありませんでした。純粋なエネルギーが下りてくる感じでした。そのような快感は、性的な快感とは全然違いました。場所は性的なことに関係するポイントだったので、そう思ってしまいそうなところもありますが、思い出してみると、まったく違います。
それとは別に、生命的な存在と交わっているような形で快感を覚えることもありました。これはリリスとの接触だったのだと思います。思い返してみると、次のようなパターンがありました(ひょっとするともっとさくさんおバリエーションがあったかもしれないです)
・透明な存在と交わり、人型のような気がする。
・透明な存在と交わるが、実体が想像もつかない。
・人型と交わる
・人型と交わっているうちに、相手が人型でなくなる(例えば蛇のようになる)
・人型ではない存在と交わる
いろいろなパターンがありますが、概ねの特徴として、最初は性的っぽい快感や高揚があっとしても、次第にそれらが変容していき、恒星と交わった時のような快感に変化していくということがあります。
(なので、先日体験したような、変成意識の中で女性と私が浸透するように体が混ざって快感なしで一体化し、別の場所に瞬間移動するというのは、私にとっては目新しいものだったと言えます)
リリスの元型と言われる存在リリートゥは、鳥と人型のブレンドで表現されていて、リリスは大木の中腹にいて降りてこない存在というわけですから、より振動の高い世界の住人であることを示しています。また私は先日、リリスと接触することで、人魚のような存在になっていました。つまりリリスというのは、男性性と女性性を超越した中性的な存在でありつつ、人型からはみ出している存在でもあると言えると思います。リリスに接触し続けると、通常の人の姿ではなくなっていくことが多いのではないでしょうか。(後で知ったのですが、リリスは下半身を蛇にされたという伝承もあり、人魚ではなく、ナーガとかナーギニーのような形態だったかもしれないです)
だからこそ、キリスト教ではリリスは悪魔として表現されることになり、時には醜い姿をしているというふうに言われることになったのでしょう。キリスト教では、人型は神に似せられて作られたと考えられており、最も崇高なカタドリだと考えているからです。つまり、自分の片割れ(最もほしいもの)の姿でリリスが現れ、交わり続けることで至高とも思えるような快感を覚えるが、それを繰り返すと、人の姿を失ってしまうということになり、そこに得体のしれない恐怖を感じることになるであろうということです。
もちろん、肉体が人の姿でなくなってしまうということではなく、夢の中や変成意識での自分の姿がということです。

恒星がリリスを遣わす

前作で、シェアトとマルカブを呼んだ時、神の覗き窓からリリスが現れて私を呼びに来たという話を書きました。このように、恒星を呼んだ時に(あるいは正確には恒星に呼ばれた時、という言い方がいいのかもしれませんが)、リリスと思しき存在がやってくるということを私は何度も体験してきました。今となって、あれらの存在はリリスと説明していいのだろうと考えるようになったのです。さっき書いたように、毎度ということではありません。直に恒星のエネルギーと交わるということのほうが多かったです。
リリスとの交わりの中で、快感の性質が変わっていくと書きましたが、これが重要なのだと思います。目標は、恒星人間・真の人間になることであって、リリスと交わることそのものではないからです。リリスは外宇宙への入り口のようなものだと思います。
私の場合は、リリスと接触するようになったのは、探索の後のほうで、恒星のエネルギーを直に受け止めるほうが先でした。この通路を先に確保しておいたので、リリスと交わる中で、その快感が変容するということをスムーズに体験できるようになったと思われます。恒星接触なしに、ただリリスのみ召喚することから始めることもできるでしょうが、恒星接触の練習と同時進行がいいのではないだろうかと、なんとなく想像しています。

地上と関わる量についてもう一度考える

本来の人間になるということは、月のボディーを形成して、植物性大地の上にたって生きるようになるということですが、地上で生きている間は、肉体を持って生きるということになるので、二重生活になるということになります。地上生活をしつつ、変成意識の世界を生きるということになります。地上を去ると、地上にやり残したことがあればまたそこに向かい、やり残しがないならば、我々が異世界と思っている世界が、通常の世界になって、自分の意図に従って、相応しい場所に向かいます。
この二重生活の時に、どこまで地上社会に関わるのかということで、リリスの扱いに違いが出てくるということになりそうです。便宜上3つに分けると
1 できる限り地上社会に関わらない
2 ある程度地上社会に関わる
3 たっぷり地上世界に関わる
1は、仕事をしていないとか、物質次元に家族がいないとか、ほとんど人に関わらないでよい立場で生きている人で、社会的役割に縛られない分、分割的に生きる必要がなくなります。柔軟なペルソナの持ち主と言えるでしょう。それは同時に中性的に生きることが簡単になり、物質的なことにはあまり喜びを見出しません。結果として、リリスの本来の姿をそのまま知覚しやすくなります。このような人たちからすると、リリスは中性であるとともに、純粋な人の姿をしていないように見えるでしょう。変成意識に入ることはいとも簡単・・・・というどころか、そちらの世界の比重のほうが多い場合もあるでしょう。もはやリリスボディーを獲得していることも多いでしょうから、リリスと接触したとしても、快感を経験することもほとんどないでしょう。
3は、がっつりと社会的役割を果たす生き方ということになりますので、強固なペルソナに閉じ込められるような状態になります。それは同時に男女の分割がくっきりとすることになりますので、このタイプの人がリリスを見た場合は、異性の人間の姿に見えることが多くなるでしょう。変成意識に入るために、たくさんの手続きが必要となり、成功率も低くなります。場合によっては、地上生活に埋もれて、異世界のことをすっかり忘却してしまうこともあるでしょう。リリスとの接触によって得られる快感は、性的な快感と誤解しやすいでしょう。
2は、1と3の間の状態です。社会的な制約が少ないので、簡単な手続きで変成意識に入ります。リリスの姿が異性に見えたり、中性的に見えたり、人ではない姿に見えたりするでしょう。接触によって得られる快感は、性的な快感のそれとは違うように感じられるでしょう。

上昇型と下降型

先ほども書きましたが、私の場合は、リリスと生々しく接触する体験は、恒星接触の後になりました。ただ、私の恒星接触のやり方は、明晰夢や体外離脱をした先で、恒星の名前を呼び、エネルギーが下りてくるというやり方だったわけなので、すでに月のボディーを形成したうえで、恒星を呼んでいたということになります。
私が恒星接触を大量にしたのは新型コロナによって社会が動かなくなった時期で、仕事が少ないから異世界探索に集中して取り組むことができました。きちんと調べてはいませんが、リリス的な存在と接触するようになったのは、社会が動き始めたあとで、恒星接触をするには、より集中的な態度が必要になってきてからだったように思われます。日常の仕事に追われる分だけ、変成意識に入ることが難しくなります。
そうしますと、リリスが私にところにやってくる理由というのは、すでに形成されている月のボディーをスイッチオンして、改めて起動するためにやってきているように見えてきます。先日の体験で、リリスがまずディープにキスをしてきて、そのあと私の額を吸って脳のパイプに痛みが走った時、「寝るな」という無言のメッセージがあったように感じました。異世界の中で眠り込まず、意識が保てるようにしてくれたのです。
上昇型の人間が、下降型の自分を思い出すための水先案内人として、リリスが手助けしてくれるので、リリスをひたすら呼び続け、一体化していくという方法は有益だと思います。
一方で、ひとたび下降型の自分を思い出した人間が、それでもなお地上生活をがっつりと生きることも続けていこうとするときに、再び転落しきらないように、忘却しないように、リリスが働きかけてくれるということも言えると思います。たとえ夢魔の姿で現れたとしても、それは糸口となり、ああそうだったと、恒星との交流を思い出す、あるいは本来の人間としての自分を思い出すスイッチになると思います。さらに説明するならば、二重生活の中で上昇型の比重が高くなり過ぎたときに、下降型の比重を高い状態に戻そうというハタラキをしてくれるということです。

梯子の一番下

アルニラムを夢見した時だと思うのですが、高く伸びる梯子があり、その梯子は最初が壊れていて、私は「最初がもっとも難しい」と言いました。地面と梯子の一番下の関係の取り方、あるいは降り方や昇り方が、もっとも工夫のしどころがあるのだと思います。リリスと夢魔をテーマにすることは、そのアプローチの1つだと思いました。
上昇型と下降型は、循環するもので、上がり切ったものは下がり、下がり切ったものは上がるという法則があります。しかしその循環は、同じことの繰り返しではありません。登るたびに、降りるたびに、そこに変化が生じるのです。
上がり切って下りてきたとき、そこで形成される下の在り方、生活の在り方、あるいは地上での習慣は、前とは違ったものに変容しなくてはなりません。しかしそれは今回のことと少しテーマがずれてくるところがあり、リリスより下に降りた場所の話になりますので、それは次回以降に書こうかと思います。

おわりに

アップするのを躊躇していましたが、そのような態度が限界を自分で作っているようにも思えましたので、思い切ってアウトプットしました。アウトプットしたのだから、もっと正確な情報がやってくるはずです。


いいなと思ったら応援しよう!