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いつまでも変わらぬ愛を

 私はじっと息をひそめていた。
 奥の部屋で彼が原稿を書いているから。
 その邪魔をしないようにソファーに座り、身じろぎもせず、じっと待つ。
 音をたてるなんてもってのほか。動く気配でさえ、彼の集中をさまたげるかもしれない。
 だから私は、じっと待つ。
 ただ、じっと。
 ひたすら、じっと。
 部屋からはかすかな打鍵の音だけが伝わってくる。
 彼が使っているのは古風なメカニカルキーボード。今は思考入力が当然だ。脳波から考えていることを読み取り、文章の形に整えて表示する。
 だがAIによって補われるその入力方法を、彼はよしとしない。一言一句、一文字でさえも、自分の意思決定のもとにあることを望んでいる。それが彼のこだわりだ。
 ただ思考入力なんかなくても、彼の心の内をうかがい知ることはできる。
 かすかに伝わる打鍵の音。
 注意深くそのリズムに耳をかたむければ、そこに彼の気持ちが映されていることがわかる。
 リズムが良ければ乗れている。悪くなれば悩んでいる。
 私は彼の気持ちが知りたくて、かすかな音に耳をすます。
 タタタタ、タン、タタタタ、タン、タタ、タン、タタ、タン、タタタタ、タタ、タン。
 タタタタ、タン、タタタタ、タン、タ、タン、タ、タン、……カチャ……カチャ。
 タン……タン……タ……。
 ………………。
 その打鍵の音が止まった。
 しばらくすると、苦しげなひと言が伝わってきた。
「くそっ!」
 そして、ターンとリターンキーを押す打鍵音。また全消しをしたようだ。
 ガタンと椅子を引く音。
 ドカドカと大きな足音。
 バタンと扉を開ける音。
 壁にたたきつけるようにして扉を開けた戸口に、彼が現れた。やはりうまくいっていないようで、険しい顔をしている。ピリピリとした雰囲気をかくそうともしていない。
「おつかれさま。休憩する? ケーキあるよ。お茶いれようか?」
 声をかけた私をじっとにらんで、彼は無言で身をひるがえす。トイレに行ってもどってくると、またバタンと乱暴に扉を閉めて、部屋にこもる。
 今日の対応はまだマシな方だ。
 いつもなら、きつい言葉を浴びせられることの方が多いし、いきなり手が飛んでくることもある。この間はテーブルの上の皿を、料理ごと投げつけられた。かばった右腕をざっくりと切った。
 でもそんなことはへっちゃらだ。
 私は彼のお世話をするために、ここにいるのだ。その返礼がたびかさなる暴力でも構わない。私が彼に何をしてあげられるか。ただそれだけが、重要だ。

 だって私は彼を愛しているから。

 AIによる創作が世間に広まってずいぶんたつ。
 まずは絵画、そこから小説、そして音楽にも。最初は人間が指示を与えて作らせる創作補助的なツールだったが、マーケティング自体もAIがこなせるようになると、AIですべてが完結するようになった。
 古今東西、ありとあらゆる創作物を飲み込み、そこから学習。社会に流れるすべてのデータから、消費動向を推察。こうなると速さも質も、もう人間では太刀打ちできない。
 例えば新しい物語を読みたいとき、小説AIに指示を出せば。
 注文主の性格、趣味を押さえることはもちろん、ネットワーク化された家庭内の各種センサーや携帯機器から得られるデータで、読者の内心まで察知。その時の気分にぴったりの物語をジェネレートする。
 使用すればするほど、その精度が高まるのだから、もはや読者にとって人間の作家は必要なくなった。
 では人は創作をしなくなったのかと言えば、それはちがう。やはり面白いものを知れば、それに刺激を受けて自分でも作ってみたいと思う人は一定数いる。
 そういう人のためには、逆に読者AIが発達した。発表された作品に対し、読者のふりをして、ほどよく好意的なコメントをつける太鼓持ち。そうして人の承認欲求を満たしてくれる。
 それが現代の創作だ。
 しかしそれを知った彼は読者AIを切ってしまった。
 すると読者は誰か。
 人の書いた創作物を読もうとする人間の読者も、ごく少数ながら、まだ存在することはする。だがそういう人は、面白い物語を探しているのではない。
 注文すれば、どんなジャンル、どんなテイストの物語でも、その読者のパーソナリティまで計算に入れ、ハイクオリティで仕上げるAIがあるのだから、求めているのは別のこと。
 むしろつたない作品を見つけ、その作者をこき下ろす。
 他人がいかにだめかということを、歯に衣着せず辛辣に批評すると、相手が下がって自分が上がったような気分になる。
 求めているのは攻撃性の発露対象。他人に対してマウントを取りたいという、はるか昔、猿だったころから続く、人間の原初的な欲求ゆえだ。それをどうにもおさえられずこじらせて、わざわざ手間をかけて探す、希少な読者。逆に言えば、もうそんな人しか残っていない。
 だから通常は、そういうコメントは管理AIによって、密かに作者にはかくされている。
 こうして大多数の読者は自分向けにカスタマイズされた物語を楽しみ、ごく少数のまれな読者は気分よくこき下ろし、そして作者は気分よく書く。みんなが欲求に従って、いいところだけを取れるように、現在の創作空間は管理されている。
 ただ彼はその管理AIも切ってしまっている。
 手厳しいコメントに自ら身をさらす。作り上げた作品の評価は、それがよかろうが悪かろうが、すべて自分の糧だと信じている。
 だがその結果、書いても書いても報われない。
 そして、この場合では不幸なことに、彼は自分を客観視できる冷静さを持ち合わせていた。
 審美眼もあり、見比べたときに、AIの作った作品より自分の作品の方が出来が悪いのも、見えてしまっている。
 多く場合、人は自分の力を正確に測ることはできない。特に、まだ経験の浅い人であるほど、細かい瑕疵に気づかないので、自分はできる、自分はできていると思い込める。
 確かにものすごいすばらしい作品はあって、自分は「まだ」それにはおよんでいないが、自分の作品も「なかなか」いいところはあるし、がんばれば「いつか」追いつくことができるはず……。
 そのような錯覚が若さであり、情熱の原動力だ。目の前にぶら下げられた人参を追う馬のように、もう少しで届く、もう少しで届くと走り続けるのだ。でもそれで成長するのだから、悪いことではない。
 むしろ、もしすべてが冷静に見えていて、錯覚を錯覚とわかってしまったら。
 AIによってすべての過去作品から要素を抽出され、すべてのデータからみがき上げられ、そうして作られた頂点。それと、自分のおぼつかない才能のもと書かれた未熟な作品との差が、きちんと測れていたら。
 ほとんどの人は絶望して筆を折るだろう。
 それは届くわけがない、遠い遠い頂きなのだから。
 それでも彼は書き続ける。
 自分が報われないとわかっていながら。
 それでも彼は書き続ける。
 自分が至らないとわかっていながら。
 かわいそうな彼。こんなに聡明で真摯でなければ、こんなことを気にせずに、創作も創作物も楽しく消費して、心安らかに暮らすことができただろう。
 安全な場所で管理されることをよしとせず、己の力で道を切り開く。そんな苦難と向き合わずにすんだだろう。
 その苦悩を私にぶつけているのは、はたから見れば確かに、ほめられた行為ではない。
 けれど彼の苦しみがいかほどのものか、私には痛いほどわかっている。
 理想に向かって傷つきながら進む気高き魂と、それに耐えきれずほころび乱れる繊細な精神という二面性は、とても人間味があると思う。
 だから私は甘んじてそれを受ける。
 それで彼の役に立てるのであれば、むしろ喜びでさえある。

 だって私は彼を愛しているから。

 長い時間の果てに、また彼が部屋を出てきた。
 その間、打鍵の音は聞こえなかった。
 ただひたすら悩み続けていたのだろう。すっかりと憔悴しきった顔をしている。
 私は心配になって声をかける。
「おつかれさま。今日はもう終わりにしたら? 美味しいご飯用意するから、それを食べて、お風呂に入って、ぐっすり休んだらいいよ。疲れてたらいいもの書けないもんね……」
 その言葉を聞いた瞬間、彼ははっとこちらを振り向いた。一瞬にして怒りが彼の顔を染める。
 彼は私をソファーに突き飛ばした。体の上にのしかかる。その手が私の首をしめる。
 見下ろす瞳には憎しみの色。
「誰のせいだと……お前が……お前たちが……」
 首にかかる指に力がこもる。首がギシギシときしむ。
「いいよ」
 私は答えた。
 彼がそうしたいのであれば、そうすればいい。
 私を殺したいのであれば、私は喜んでこの身を捧げる。

 だって私は彼を愛しているから。

 私の返答を聞いて彼の顔がゆがんだ。
 一度指先に力が入り、そして抜けた。
 その瞳から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ出した。
「お前が……お前たちがいるから……」
 彼は私の胸に倒れ込み、嗚咽をもらした。私はそんな彼を抱きしめて、その頭を優しくなでる。
 彼にもわかっているのだ。これが不当な八つ当たりであるということを。
 彼にもわかっているのだ。これが無駄な復讐であるということを。
 首をしめても、私を殺すことはできない。

 私はアンドロイド。

 彼が私に強く当たるのは、私が彼を苦しめるAIの仲間だからだ。

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