ピアノがどうして家にあったのか
ピアノを置いてある家って今もそこそこあるのだろうか。昔は習い事としてピアノを選ぶ家庭って多分今より多かった。周りもピアノ習っている子だらけだった。
ピアノじゃなくても自分が楽しんだ楽器があるとしたら、いつやってきたかその頃やきっかけを覚えているだろうか。今後どうするか考えているだろうか。
両親が今年マンションに引っ越す段階で、ピアノを手放すと聞いた。
ヴァイオリンをずっとやってきた母が、もう飾りとなっていた幾つかのヴァイオリンを売った時、値段が格安すぎてみんなで泣き笑いしたものだ。
それがピアノにいたっては売れるどころか、こちらが支払わないといけないのだった。
「なにしろ、60年も我が家を見守ってくれたからね」
60年!
ほんとに?
そんなに!
長くてひっくり返りそうだ。
ずーっとあのピアノだったの? 今の家に来る前も? マンションでも? 私が生まれた時にはもうあったのね。
何がきっかけでやってきたの?
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母は幼少期、その父親の働く会社の社員寮で暮らしていた。
寮の中には広い部屋があり、友達とゴム跳びをしたり、置いてあるピアノを弾いて遊んだりしていた。
そこで教えている方もいらして、家にピアノがなくても習いに来たら良いと言われたため楽しんで通う。
ところが小学三年生の頃に引っ越し。
前みたいに遊んだりピアノを弾いたりする場所もなく、娘がつまらなさそうだと感じた親が、なにか楽器の習い事をしたらどうだろうと夫婦で話し合った。
ギターやマンドリンなど、せっかくだからみんながしないようなものが候補に挙がったけどなかなか決まらず、小学校の先生に相談した。
先生は東京芸大を出ていらして音楽に精通していたため、何かヒントになるものはないかとたずねてみたのだ。そこで「娘さんは体格も良いのだし、他の人に習わないとできないヴァイオリンなんかはどうですか?」と提案され、先生を紹介してくれた。
当時の本人の意志はどこに? と思うのだけど、母の育った家庭はそういう家族形態だったのだ。
確かに新しい学校になじめずにいた母は言われるがままヴァイオリンを始める。
当初は息をつめて弾いていたため無酸素運動ならぬ無酸素ヴァイオリンとなっていて、好きではなかった。
でも勉強とはちがうものも気分転換になって良いか。くらいの気持ちで続けていたら、はじめてから1年くらいで発表会があると言う。娘のためにと、母親が発表会用にとドレスを作り、気が付けば一生懸命練習するようになっていた。
運命に翻弄されるように続けていたけれど、ヴァイオリンを弾いている時は何故か学校であった面白かったことなど思い出す。
母にとって、ヴァイオリンはだんだん良いイメージとつながるようになっていった。
中学生の頃。
「将来したいこととか、行きたい大学とかないの?」とヴァイオリンの先生に聞かれる。
特に希望もなかった母に、「先生にもなれるしプロでもやっていける道があるよ」と、当時学芸大(現教育大)の特設音学科に行くのはどうかと提案してきたのだ。
母は認めたがらないけど、先生はどこかにその能力をかいま見たのではないだろうか。
中学から短大まであるその学校から出たいと思っていた母は、手段の一つとしてその方向で挑戦してみることになった。
ところがこれが想像以上に大変で、受験には基本の勉強のテスト、プラス声楽や理論などなど必要でその中にピアノもあったそうだ。
そして高校生の頃。
ピアノが、学校のちょっとした練習では間に合わないと知った母は、出会ったのだ。
マホガニー色のアップライト。
音色も気に入る。
多分私も一番なじみのある音。
澄んだ美しい音も強い音も他でたくさん聴いたけど、我が家のピアノの音は、正確ながら温かみがあった。低音から高音までキンと鋭く響くようなところがなく、穏やかで耳ざわりが良い。
母はその後、人に頼まれる度に何人かの生徒を持ちヴァイオリンやピアノを教えた。でも頼まれた時だけで、本当はそれほど積極的ではない。オーケストラやカルテットなども参加する度、早々にやめたがっていた。
私にも強制したことはなく、レッスンを始めると厳しいけど、やめたいと言えばいつでもやめさせてくれた。気まぐれに少しまたやりたいと言うと何も言わずに「あらそう。良いわよー」と教えてくれる。
音楽の世界がいかに素晴らしいかを説くこともなく、むしろ音楽の世界に入らなくて良いとさえ言っていた。
でも今でも私がヴォーカルレッスンを始めたと言えば「音楽に触れてくれてうれしい」とも言う。
ニュージャージーで暮らしていた時は、父がピアノを買ってくれたそうで、私にとってはそれも思い出深いピアノ。母にピアノをはじめて習い弾いていたもの。うまく弾けないイラ立ちや好きな曲が弾けた喜びを感じていた。
でもそれ以外は母が高校生の頃から使っていたあのピアノだそうだ。
私がよく練習したのは小学3年生の頃だろうか。一番好きだったのは、近年「お風呂が沸いた」CMでも使われていた「人形の夢とめざめ」。その後ショパンの曲に移行していったのだけど、だんだん難しくなり手は開かないし、本当にその道に進みたいのなら、一日何時間も練習しなければならないと知り、あきらめてしまった。気持ちをこめるのもどうしても自分を俯瞰してしまい、うまく入りこめなかった。
5年生の頃には進学塾に入り、まったくピアノを弾かなくなった。
中学の頃に少し思い出したように弾いてみて、1~2曲分進んだだろうか。
まだ手も開かないし、楽譜をサッと読めないからイヤになってしまってやめた。
大学生の頃には周りの影響で、やらなければの思いに駆られるも、そんな風に人のためにするもんじゃないから、またすぐやめた。
その後は母がヴァイオリンの生徒さんたちを他の方に託されて、教えながらピアノで音を調整したり少し伴奏を弾く程度。
数年前には定年退職した父が、80歳にして念願だったらしいピアノを始めた。
ドレミファソラシド……
それすらおぼつかない父が、エルトンジョンの曲を弾くようになった。
そしてこの夏に引っ越し。
次住むところはマンションで、今どき楽器の音を立ててはいけない。そもそも置き場所が決まらない。
父は「僕のレベルはあの辺までかなあ」と宙を見ている。
どうするか考えていて保留中だと言う両親。もし次買うなら電子ピアノだ。
引き取りに来た日。スタッフたちが音を出してみて「ああなるほど音が狂ってますね」「でも良い音ですからまだ使えますよ」と、修理してまた売ることを約束してくれた。
60年前に出会い、母が受験で練習のために買ったピアノ。
生徒さんたちがレッスンで弾き、私も弾いた。思い出されたように時々触れられ、上手く弾けない時には苛立って指をたたきつける日もあった。
そして父が弾き。
好みの音や、心地よく感じる鍵盤の重たさは、あのピアノで培われた。
弾き終わると毎回、必ず鍵盤を端から端まで柔らかい布で拭く。
トラックに積まれるのを、見えなくなるまでのぞくようにして母は名残惜しく見送り、ちょっと泣きそうになったと言っていた。
ピアノが何故ウチに来たかを聞くと、母の音楽との歴史も聞けて胸がいっぱいになった。