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完全にはやめられない新聞

 毎日配達される新聞を、次年度からやめようと思っている。

 新聞生活は40年以上に及ぶ。
 小学5年生のころには、小学生新聞を取っていた。兄も小学校高学年のころに小学生新聞を読んでいたので、厳密にどの時期に読んでいたかなどを覚えていない。
 当時は手塚治虫さんの「リボンの騎士」や、ちばてつやさんの「みそっかす」などの漫画が楽しみで、それ以外では大人が話題にしているニュースを簡単にでもわかることや、事件ではない辞書や図鑑に書いてあるような小さな情報が楽しみだった。すぐ忘れてしまうのだけどね。今もそう。記憶にとどめておけなくたって、「へー!」と思う体験が楽しくて。

 進学塾では大人の読む新聞のコラムを「まとめる」のが国語の宿題で、それに関してはとても嫌いだった。
 漢字練習かコラムのまとめか、どちらかを宿題にするからと多数決を取った時に、漢字は大好きだし、まとめるのが大嫌いだし、圧倒的に漢字練習の方が良い! と思って手を挙げたら、漢字練習を選んだのは私だけですごく恥ずかしかった。
 全部の言葉を大事に感じてしまって、まとめようとしても、ついつい全部そのままうつしてしまう。「〇字以内」にまとめるなんてできない! と思っていた。国語の先生にとっては、まさにそんな人にこそ、まとめる力をつけてほしかったのだろうけど。

 そんな私でも新聞は手に取り続けた。大人がする話題を少しでもわかりたかった。
 あと街頭インタビューみたいなシチュエーションで、人々が自分の考えを持っていてそれをある程度言葉にできていることに感心と憧れを抱いていた。


 そう言えばニュージャージーで暮らしていた1年半くらいは、新聞を読んでいなかった。世の中のニュースはテレビでのみ仕入れていた。そういう期間があったのもそれはそれで貴重だった。
 日本は、良くも悪くも人々の気持ちに一体感があって同じ情報を共有していて当たり前だという意識がある。私はそこをとても長所だと感じているけど、その意識が他者を理解しようとする気持ちを少し阻んでいる、と思うこともある。
 たとえば教養についてはできれば自分も身につけたいし、豊かな人には尊敬の念を抱く。でも知らないことに対して「何故知らないの?」と思うと同時に「知らないといけないの?」「何故知っておくべきなんだろう」も考えたい。しんどくなるから、いつもじゃなくてもね。ちょくちょく考えたい。

 ニュージャージーで暮らしていて当たり前に感じていたことを、日本の友人は知らなかったし、日本の友人は「これが話題だよ。そちらでも持ちきりでしょう?」と言ってきた内容について、特に報じられておらず、私は知らなかった。どちらも自分の日常に入りこんできた衝撃的なニュースだったし、でもお互いにお互いのニュースはそう大きく思えないのだった。
 帰国してまた新聞を取るようになると、もう少し広く物事を考えるようにはなった。

 いつから全体的に目を通すようになったのだろう。
 とは言え、何故それが起きているのか、その背景までは知らずに読んでいることも山のようにあるし、相変わらずなんとなく読んでいるだけ。

 それでも新聞は好きと言えるまでになっていった。


 毎朝目を通す。
 ネットで自分から読みに行かないようなニュースが、紙面を広げることで、目に入ってくる。
 知らなかったことや思いが及ばなかったことでもタイトルに目が行くと、そのまま読み始める。それはちゃんとその内容に沿った平凡なタイトルでも、気になる内容なら読み始めてしまうものなのだ。何が書かれてあるのかわかるタイトルは大事だ。そうかこんなことがあるんだな。紙面を見渡す時に脳内で取捨選択しながら気になる内容を読んでいく。ネットでは内容がどうあれ、人の目にとまるためのキャッチ―なものだってあるから、新聞のタイトルはありがたい。

 タイトルと関係なく、必ず読むコラムがある。著名な作家さんたちのエッセイやコラムを隔週や週に1回読めるってぜいたくだなと思う。一人や二人じゃないものね。時々明らかにニヤニヤした顔をしていたり、声を出して笑ったりするくらい楽しい時もある。

 あと偶然心に響く言葉に出会える瞬間は「新聞を取っておいて良かった」と思う。
 ほんの10行くらいのコラムもあって、そこでは日々、様々な人の言葉が取り上げられ、その言葉について簡単に説明が書かれている。
 最近では「ひどく傷つくことがあると、何故か人が自分からどんどん離れていってしまうように感じてしまう」といった内容の話だった。傷ついているからこそ、人に寄りそってほしいのに、孤独に感じていってしまう。自分のことなんか誰もわかってもらえないし、わかられる価値もないと思ってしまう。でもそれはわりと自然なことなんだな。だからもし大切な人が傷ついていると知ったら寄りそいたいと思えた。
 こんな言葉が、検索しなくてもふと視界に入ってくる環境がうれしい。

 ネットでは、「こんな時」に気持ちが軽くなる言葉や、どうすれば良いかの対処法などは書かれているから検索しにいける。それに知りたい情報を好みにアレンジしてくれていたりもする。そんな私好みにしようとしなくて良いよと、媚びられているようで時々気持ちが悪い。それに自分の好みなんて、意外と単純じゃない。好きな何かの全部を知りたいと思わないし、好きな傾向は「いくつか」だけじゃない。知りたいこともたくさんある。全部を検索しようとも思わない。
 自分の心のどこかにあるのに自覚していないようなことをふと目にして、心揺さぶられる瞬間てなかなかない。
 新聞にはそれがある。うまくすれば日々、そんな出会いがある。

 兄が昔、新聞記者をやっていたことがある。通信社に就職したものの、記者は体力的にも大変だと思い、経済に興味が強かった兄は、一度留学した。帰国後は次の会社が決まるまで、英字新聞の記者だった。記事を書くことについても大変さを耳にしたので、新聞代が値上がりしたとか、毎日あれだけの量をたくさんの人が書いたり販売したりなど関わっていると思えば、仕方のないことだと思う。
 今はネットの時代だから紙に載せる意味も考えちゃうよね。

 本来は紙での読み物が好き。
 すっかり読書家ではなくなってしまったけど、印刷物を開いてそれを目で追うのは、スマホやパソコンを見るのとはちがう。漫画だってそうだもの。
 あっち見て、こっち見て、パラパラと少し戻って確認しながら読んでいく。ざっと見渡せる感覚も両手で持って広げているから味わえる。なんとなく言葉や文字や画を選びながら読む。

 新聞だけでなく、いろいろとあったから100%メディアを信じるわけにはいかないともわかっている。でもそれはずっとかもしれない。新聞を読み続けてわかるのは、新聞社にはそれぞれの信念や傾向があるようだということ。話半分まではいかなくても、多少偏りがあると思いながら読んでもいるのはもうずっと習慣のようなもの。当たり前だと思っている。それぞれに特徴がある。
 ただ兄が働いていた時に耳にして、多くの人が真剣に世の中を伝えていかなければの思いでがんばっていることも知っている。だから新聞もテレビもネットも、情報には色々な可能性があると考えながら目にし、耳にしなければいけないものだろう。何かに全部、自分の判断をゆだねるのは、危険なのかもしれない。

 小学生からの私の朝の習慣。
 これをやめてしまうことができるのかどうかわからないけど、もう一つ大きな理由は節約のため。
 あらゆるものが値上げしているし、何しろ新聞を読むのは家族で私だけなので、もったいない気がして。

 ただ全部をやめてしまいたくないので、平日と週末に一回ずつで良いから、お小遣いで購入しに行って、楽しみ続けたい。



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かわせみ かせみ
読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。