身体も「痛い」とか「辛い」って訴えてほしい
人の心について少しでも知識が増えてくると、負の感情や辛い経験て、分かち合える人と分かち合った方が良いと思う。強く思う。
先日、「うつ病になってその後、少し回復している人」と話す機会があったけど、すごく謝るのが気になった。「こんな話をしてごめんね」「あっ、こんな風に人の悪口言うために話しに来たんじゃないから、やめるね」って。
違うんだよ。話して良いんだよ。ネガティブな感情を、自分の中におさめなくて良いんだよ。むしろおさめない方が良いんだよきっと。
分かち合える人の中にも、分かち合った方が良い人と、そうでない人がいて、その判断は気を付けないといけない。見極めないと自分の心は良い方にも悪い方にも変化する。
負の感情は、快く聞いてくれる人が良いに決まっている。共感してくれると嬉しい。それだけで苦しい気持ちは減る。
でもその真剣な思いを茶化したり小ばかにするような人には言わない方が良い。冗談もわからないの? って人には、こちらの気持ちもわからないの? ーで良い。人を尊重して扱える相手かどうか。よくわからない相手には言わない方が良い。二重に傷つく。
あおって増長させる人にも気を付けた方が良い。一緒に怒ってくれたり悲しんでくれたりの共感は必要だけど、それを「引きずらない」とか、「誰かを傷つける方に向けない」が大切。
自分自身の負の感情って、文章にするのも、とても難しい。
客観性が足りなくなるから。感情的過ぎる文章は、読んでいる側が傷ついたり、距離を置きたくなったりする。だから自分が自分を俯瞰して見る必要がある。その辺の、自分に対する客観性とか、距離感とか、解析の上手な人たちもたくさんいる。
苦しんでいる時はそんなこと考えていられないものだけど、文章にするのなら、表現を考えないと難しい。
それに多くの人が読むかもしれないと想像すると、大変な最中って、なかなか書く気がしない。この先どうなるかわからないから、つい悲観的になったり感情的になったりして、自分の気持ちにしか視点が行かなくなる。
だけど一定の期間を頑張れば、いつかは過去のものとなる。そして結局、それに関してはもう語らなくても良いか、ってなっちゃう。
でもフラットに伝えられるのであれば、伝えてほしい。伝えてほしいから自分も伝えたい。
いや元々仲良くしているような友達なら、フラットじゃなくて全然構わないけれど! それはもちろん愚痴や相談として、おおいに信頼し合いたい。
心のことだけでなく、身体のことも。
書いてほしい。
身体のどこかが以前と違う人。何か不自由を感じている人。どうか記録としてでも良いから、その状態を教えてほしい。
書くことで、気持ちの整理だってできる。その世界を知らない人にとって、誰かを助けることになるかもしれない。
私は自分が痛いとか辛い時には、息子に「こんな時にはどういう助けが必要か」と伝えている。どこかで似た症状の人や、今後出会う人が同じような症状になった時に、いたわれる人であってほしい。ただ、彼の母親でもあるから、心配させ過ぎないようにもとても気を配っている。
私も自分の知らない症状の人を知りたい。何か手伝えることがあったら、自分のできる範囲を知りたい。
そしてその渦中にいたら、救いがほしい。情報がほしくて、もう切実。ネットで調べて専門家の情報ももちろん知りたいけど、励みになるのは当事者たちの声。
なので読みたい。そこに「前向きな希望」がなくたって良い。日々の暮らしの中に、その人の意志、対処の仕方や工夫を知れたら良い。
読むことによって、自分だけなのかなって孤独感や、進行の仕方や具合を知れる。周りへの見え方も知れる。
例えば妊娠してお腹がふっくらしてきたら、街中に妊婦があふれたような気がしたことはないだろうか。
何かの病気になったら、急に周りでそういう話を聞くことはないだろうか。
知り合いがその地に住んでいたら、やたらにその地名が耳に入ることはないだろうか。
今の私は、街を出歩くと、大学生男子だらけだ(息子が大学生になりたて)。
そうやって、自分がその立場にならないと、そういう人が目に入ってこない場合がある。
そしてその立場になってやっと気づく。
身体に関しては、つわりや更年期症状についてもそうだったけど、50肩に関してもそう。
誰か教えといてよ!
なので。
まずは50肩について、今後も積極的に書いていきたい。更年期症状についても書いてきたけど、今の私は50肩がエライことになったので。
そして実はこれを書けるようになったのも、やっぱり少しマシになったから。
前置きだけで長くなっちゃったので、今回はこの辺で。