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1995年1月17日とその後~宝塚にいた私が感じた人々の温かさ~

 23歳になって何か月か。父は単身赴任中だけど、三連休で家に帰っていた。兄は海外にいた。
 三連休が明けての火曜日の朝に、勤務地名古屋に向かって父は出る予定だった。
 グラグラグラ……。
 最近、近くの猪名川を震源地とした地震が夜中にちょこちょこ起きる。ああまただ。嫌だな。布団をかぶったその瞬間。

 激しい揺れが、寝ている私を飛び起こさせ、部屋の机の下に潜り込みながら、今まで出したことのないような叫び声をあげていた。「なにこれ私の声?」と自分の耳を疑いながら、世界が終わるんだ!と思った。

 伊丹市に近い場所で、当時でいう震度7に入っていた。今で言うといくつなのだろう。

 テレビがコタツの上に飛んだ。コタツの足は当然折れた。私のタンスはベッドの上に倒れて完全にベッドが見えなくなっていた。両親の布団の上には鏡台が倒れてきていた。三人がかりで動かすのも大変なピアノも冷蔵庫も動いていた。
 電気は数時間で復帰。テレビをつけてみたら、倒れている阪神高速の様子が映った。ドライブでその下の道路をよく走ったものだった。通っていた中高一貫校の友人たちの多くが西宮から神戸の辺りに住んでいたので、その被害状況を見て、それからしばらく私は表情というものを失っていった。

 ガスは一週間くらいで復旧した。水がなかなか出なかった。

 ***

 大学四年生の夏休みに、昔住んでいたニュージャージーに一人で向かい、そこに既に住んでいた友人と現地で待ち合わせて、数々の懐かしい場所に連れて行ってもらった。
 7歳くらいで帰国してからずっと閉じ込めていた自分が解放されて、これから進む道をすっかり変えてしまおうと決意した。卒業しても就職せずに、貯めたお金でまたニュージャージーに住もうと思い、大学生の頃からバイトで働いていたケーキ屋さんで、パート店員として働いていた。

 ***

 家から、勤め先だった宝塚阪急(百貨店)までの電車に乗れたのは何日後だったか。覚えていないけれど、割と早く開店したと記憶している。でも、家から最寄りの駅までの家が潰れていたり、電車が走る線路の両脇の家はたくさんペシャンコに潰れていたり、それを毎日見ながら通勤するのは、気持ちがすり減ったものだった。その景色からは何も想像したくなかったし、考えたくなかった。

 ショーケースの前に立っていると、お客さんの多くが「大丈夫でしたか?」と声をかけてくれた。お客さんの被害状況を長々と聞いていることもあった。

 夜遅くに帰宅する時は、父や母が駅まで車で迎えに来てくれることがあったけど、車で5分の距離を1時間くらいかかってしまったことがある。隣りのレーンに並んでいたトラックの運転手におにぎりを、父を通じて渡すと、「あんた、ええ娘さん持ったなあ。感動したわ」と言って、逆にスナック菓子を車の中に放り込まれた。食パン一斤買うのに2時間くらい並んだこともあった頃だ。

 夜に自分の部屋で寝るのが怖くなってしまった。私は両親と一緒の部屋で、並んで寝た。両親は何も言わずに受け入れてくれたけど、23歳にもなってあんまりだと思ったため、しばらくしてから自分の部屋で寝るようにした。ただ長い間、夜じゅう電気が消せなかった。
 水がなかなか出ないので、5~7日に一度、大阪方面に住む親せきの家にお風呂に入りに行った。何駅か違うだけで、街の様子は全然違った。ゴルフの打ちっぱなしなど当たり前に楽しむ様子を見て、言葉が出なかった。

 当時はまだネットもなく、気軽にやり取りできない時代。友人たちの様子を知りたかった。偶然連絡が取れても「今から避難所に行くところ!」とバタバタしたところを電話口に出てくれたり、「大阪の親せきんち行くわ」と言ってきたりでゆっくり話すような雰囲気ではなかった。他の中高時代のクラスメイトは火事で家を焼かれたとか、親を失ったとか、話が回ってきて、何と声をかけて良いのかわからなくなっていった。

 パートで一緒に働いていた女の子に「この前、仕分けのボランティア行ってきてん」と話すと、「私も行きたい」と言われ、二人で行ったこともあった。幾つか行ってみたけど、身体が軟弱な私はあっという間に体調を崩し、また周りに迷惑をかけてしまった。

 兄の婚約者が、外国からわざわざ駆けつけてくれて、彼女のために長田区まで案内した。焼け野原ってこういうことを言うんだ。と思った。ニュースや新聞を観ては、泣いてしまっていたその様子を直に見て、さらに言葉を失った。彼女の明るさが私の唯一の救いだった。二人でちょこちょことお喋りしたり、冗談を言ったりして気が紛れたものだった。

 それにしても水はなかなか出なかった。
 近所でもそこの角を曲がれば水が出る。ちょっと歩くとそこは出ない。と様々だった。学校の水をもらって少し洗い物をすると、他の人にとがめられた。ポリタンクの水は重たくて、祖父と母と私とで少し運んでは道路に置いて休んで、また歩く。と繰り返していると、通りすがりの人が手伝って一緒に運んでくれた。

 ようやく家に水が通ったのは一か月後くらいだったと思う。
 水というのは命ですね。
 家族に「水出るらしいよ!」と言われ、蛇口をひねって水が出た時、思わず「あはあー!」と声が出た。テレビを観て笑えるようになった。笑った瞬間、久しぶりに使う筋肉に、すごく違和感を覚えたものだった。やっと言葉数も増えていった。電気を消して眠れるようになった。

 そして気が付いたら夏。
 家の修復のために掛かっていたシートも外された。
 ああ確かその間に、私は校正の仕事に転職し、そこで精神力が持たずに辞め、ホテルへの人材派遣をしている会社に事務の仕事が決まって働き始めた。「長い間は働けない」(ニュージャージーに住みたかったため。事情も説明した)ということを前提に採用してくれるところ。とにかく仕事をして、稼いで貯めないと、と思っていた。よくそんな条件を前提に採用してくれたものだと思う。
 
***

 中学三年生の時、私は一度だけ「死にたい」と思ったことがあった。中二病みたいなものだったのかもしれない。イジメられていたわけではない。でも学校でも家でも居場所を失っていた私は、自分がいる意味を感じられず、その頃は本当にそう思った。ただ、その地震の揺れを感じた時に「すみません、もう二度と死にたいなんて思いません!」と何度も心の中で唱えた。誰に謝っているのかわからないけど、こんなに怖い思いを二度としたくないと思いました。


 ただ私、東日本大震災でも被災してしまいます。

 大地震を経験するのが人生で一回しかないなんて、何で思っていたんだろう。

 用心に越したことはない。

 3月11日にも、関西の友人たちが、私に思いを寄せてくれる。

 その後、関西の友人たちと地震当時のことで笑い話をすることがある。不謹慎だと言われても、私たちにはいくつものちょっと強めのブラックな笑い話を持っています。東日本大震災の後でもそれは見られました。私たちは悲しみながら、お互いを慈しみながら、そして笑いながら暮らしています。

 こういうことがあると、辛いという気持ちと人の温かさを感じることが、ものすごい質量で交互にやってくる。その落差がしんどいけれど、段々とその波は緩やかになっていって、少しずつ平常心を取り戻していく。しんどい気持ちもやっぱり思い出すけれど、人の温かさはいつまでも残り、思い出すというより心の中にとどまり続けている感じです。

 余計な同情とか感傷は要らない。でも私たちが人からもらった温かさや明るさで元気になれたことを忘れていないように、被災していない人たちもどうか時々思い出してほしい。


#エッセイ #阪神大震災 #宝塚市 #人の温かさ #東日本大震災

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かわせみ かせみ
読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。