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追いたい背中

 「ピアノの発表会やるので、リモートで観に来てください」
 先月、父からメールが入った。
 「父さん一人で、一曲だよ」って。


 60代で会社を退職し、その後、小企業に20年近く勤めた父。今年ようやく定年退職を果たし、掃除や皿洗いなど家事もしつつ、やっぱり規則正しく生活しているらしい。きっとそういう生活が合っているのだろう。
 退職後のこの春からピアノを始めた。
 ずっと昔から「ピアノ習いたい」と言っていたけど、音楽家の母が「教えるなんてイヤよー」と避けていた。照れもあったのかもしれない。
 でもそのうちに諦めてくれるだろうという母の思いとは裏腹に、父はピアノを始めた。


 ちょっと前に、和田アキ子やミスチル桜井のモノマネが上手な、Mr.シャチホコが番組でピアノに挑戦し、披露していたけど、「こんなことってあるの?」と音を聞いて驚いた。

 左手の力の入れ具合がわからないようで、低い音がやたらに大きくてうるさい。間違えているわけじゃないのに和音が汚い。「なにこれ!」「違和感!」夫と息子と笑いながら観た。Mr.シャチホコも言葉にはせずとも、「何だかこんな音しか出なくてね」って情けなさそうな表情で、時々皆を見回している。その泣き笑いの表情がまた可笑しくて、笑い転げてしまった。

 ピアノなんて、鍵盤を叩けばその音が出るのに、こんなことってあるんだ。
 そう言えば、ベースやギター、ドラムなどを楽しむ奥田民生も、鍵盤を弾く時には手が震えて、ヨロヨロの心細い音になるので笑ったことがあった。

 父も、指に均等の力を加えられず、「ドレミファソラシド」すらできなかったそうだ。
 母に習って、今、父は簡単な練習曲に取り組んでいる。


 一方、母は昨年から始めた裁縫のレッスンを楽しんでいる。
 友達と誘い合ったわけではなく、一緒に習っている人とも友人関係を作りたいわけでもないようで。先生方は、曜日や時間によって違うようで何人かおられるとか。それぞれの個性を感じながら、純粋に「裁縫、楽しい!」と取り組んでいる。
 母と私はタイプが違う。母は「私はこれで良い」の気持ちが強くて、一人でも人とやり方が違っても揺れることなく明るい。本人がゴキゲンで楽しそうだから、母の人間関係の築き方、人との距離感も良いなと思っている。

 母は最近、読み物の雑誌にもハマっている。
 「この前、雑誌読んでたんだけど、私は自分がこういう発言をしたら子供はどう感じるか、その先まで考えて子供と接してこなかったなあ、って思ったのよ」と言った。母が自分で感じて考え、心から納得したんだろうと、表情も見ていてわかった。
 77になっても新鮮に物事を捉えて、自分の感じる気持ちや楽しみ方を大切にしている。
 
***

 さて。
 発表会の時間にパソコンをのぞく。
 1人で挨拶をし、ピアノを弾き始める父。時々間違える。映っていない母の笑い声が、その度に横から聞こえてくる。
 簡単な練習曲だけど、0(ゼロ)からだもん。すごいよ。
 終わったら、熱烈な拍手でたたえる。

 最初は「間違えちゃった」「いつもはもう少し上手いんだ」とか言っているけど、「良かったよ」「すごいじゃない!」とほめていると、「そうお?」とまんざらでもない様子。
 そのうちに、「それでは。アンコールに応えて」とボケて見せ、こちらがツッコミを入れる間もなく、また同じ曲を弾き始めた。

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 間違えると母がまた笑う。
 違う曲含め、これを5回くらい繰り返し、最終的にはピアノを弾いている横で、母が画面を移動させて容赦なく喋り出した。


 最近の二人の様子は、私を優しい気持ちにさせる。

 私もそんな風に歳を重ねていきたいなあ。そんな風になれるかなあ。なれると良いなあ。


#エッセイ #定年退職後 #80歳 #77歳 #ピアノ #裁縫 #雑誌 #新しいこと #吸収


読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。