大好きなことについて話したい気持ちは、年齢も距離も超えて
話しにくい雰囲気の人だったらどうしよう。
私の50代っぷりに引かれたらどうしよう。
こちらから気づいたら緊張しちゃうからスマホを見ていよう。そう思うそばからキョロキョロ探してしまう。
身体全体が鼓動を打つのを感じて、ドキドキ心臓の音が耳にうるさい。そんなに緊張するな私。第一声が震えちゃうぞ。スマホの画面を触る指がほんの少し震えそうになるのをおさえる。落ち着かない。
あっ。あの子じゃないかな。
ニコニコ顔の子が近づいてきた。
可愛さと安堵と、なによりも嬉しくて顔が自然とほころんだと思う。
「何年越しでしょうね」互いに声をかけ合った。
2018年。「アベンジャーズ/ インフィニティ・ウォー」を観た私は、MCU(マーベルシネマティックユニバース)作品にハマった。
聞いて聞いてと話し続けたくなるような、夢中になるコンテンツや圧倒的な推しなどなかった私には新鮮な感覚。40代半ばにして、心の中でこぶし突き上げて大声援送りたくなるような、冷静でいられないほど好きなものと出会ってしまった。
その興奮を一人で消化できないので夫と分かち合う。それでも足りなくてネットでチェックする。
Twitterは、元々お笑い芸人の情報を知りたいのがきっかけだったけど、その頃からMCU関連の情報を中心に追うようになった。
夏には、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」シリーズ最終話となる「3」の脚本ができ上がったと、ジェームズ・ガン監督のツイートが入り、気持ちも盛り上がる。「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」がMCUの一つなんて、ハマるまで知らなかったし、そんなにまで楽しみになっていた自分にちょっと戸惑いすらあった。
そしてその矢先、ジェームズ・ガンが解雇された。
当時の私は衝撃を受けすぎてしまい、夫と話し、友人に気持ちを聞いてもらうも、まったく気持ちを立て直せなかった。油断すると泣くし。気持ちを分かち合う相手がほしくて、Twitterを眺める時間が増えていった。
ジェームズ・ガンの過去のツイートが取り上げられ、その内容は残念だったけど、その後、公に謝っている。10年の時を経てまたそれが取り上げられてしまった。10年間の彼の作品を観れば、そしてスタッフや演者たちのコミュニケートを見れば、あのツイートへの反省や謝罪が本物だと感じられるはず。「3」を楽しみにしていた者にとってはつらいよ。
ほんの少し、悪態をつきたい気持ちこらえながら、悲しみを抱えながら、この気持ちをどのように表現したら良いのだろうと途方に暮れた。
耐えられないから少しはつぶやきつつぼんやりTwitterを眺めていると。
私の「ほんの少しの悪態と、それをこらえる気持ちと、悲しい気持ち」を、少し熱帯びて簡潔に書いている人がいる。感情まかせに批判したりするものではなかった。そりゃ誰だって多少は言葉に感情が乗る。でも彼女はその素直な感情と、どこか客観的な言葉選びのバランスがしっくりくる。
彼女のツイートをさかのぼった。
どうやらMCUに本格的にハマったのは、多くの作品の中、同じく「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」がきっかけのようだ。細かい好みは別として、映画自体への楽しみ方、受け止め方も似ていた。
当時はnoteも始めておらず、全然知らない人とつながれない私。彼女は若そうだ。私とは親子くらい年齢差がある。気持ち悪くないかな。おばさんとつながったところでどうなのよ。
「私にはあまりフォローしている相手もいないのに、急に気持ち悪いかもしれません。母親ほどの年齢になると思いますが、フォローして良いですか」のような言葉でことわった記憶がある。
こんな断りを書くこと自体がどうしようもなくおばさんなのだけど、彼女は快く返事してくれた。
私はその秋にnoteを始め、Twitterと紐づけ、それを後悔するほど気持ちがふり回されてしまい、Twitterをいったん閉鎖する。「でもMCUの情報はほしいので復活したらまたつながって良いですか」と彼女には連絡をして、つながり続けた。
そうやって私は2~3度、noteの人たちとTwitterでつながりかけては上手くいかなくなってTwitterアカウントを変え、ようやくここ2年、落ち着いているところ。
人を傷つけたりイヤな気持ちにさせたり、勝手に落ちこんだり悲しんだり、ネット上で人とうまく関われない私だったけど、彼女とはつながり続けた。
MCU作品を観たり、劇場で公開されたりするとその感想を交わし、理解できないところでは考察を求めた。私はSNSでのつながり方やつぶやきへの向き合い方がよくわからず、以前は今以上に生真面目だったので、面倒くさいと思われた時期もあっただろう。もっと言えば、そんなに私についても考えていなかっただろう。
翌年ジェームズ・ガンが復帰するとわかり、いつか「3」が劇場公開になったら一緒に観ましょう! と言い合った時も、彼女がどこまで本当にそう思ってくれていたのかわからない。
遠くに住む私たち。映画を一緒に観るなんて、そう簡単に実現できないだろうなとも思っていた。
まあ何年後かに公開されるとわかってから考えたら良いやね。
と思っているうち、例の感染症が世界中を覆った。
人と会えなくなった。
映画館は、7~8分に1回は全体の空気が変わるような換気システムができているとは言え、家族でさえ席を1つ空けて座らなければならない。マスクはつけっぱなし。あっという間に入場者は減り、劇場公開の映画自体も次々と延期になった。
本当はnoteで思い入れある方たちとだって、そのうち会いたいなあと思っていた。
そのうちいつか。
そのうち。いつか。なんて思っていたら、その時は来ないかもしれない。
そう気が付いたのがこの何年かだ。
例の感染症のせいだけじゃない。
一生会えないかもしれないなんて、その「一生」が不意に「見えてくる」のが40歳くらいだとしたら、50歳辺りでは、もう少し現実味を帯びてくる。病気の心配も増えた。親しみを持って言葉を交わして、けっきょく一生会えないのは私には切ない。
チャンスがあるのなら会っておきたい。
そして今年。
少し情勢が落ち着いてきて、人と会えるようになってきた。
するとどうだろう。
「やっぱりまあ良いか」が自分の中に充満している。
あんなにみんなに会いたいと切望したのに。振り返ればあっという間だったと感じるからなのだろうか。当時は会えなくなったから感傷的になっちゃって会いたくなっただけだったのだろうか。
まあそう簡単に会いになんていけないよね。
だって経済的に、時間的に。そんな余裕が出てこないよね。
言い訳ばかりくりかえしていると夫が言う。「そんなふうに考えていたら、僕たち一生終わっちゃうよ」。
それは最近の私たちにとってはジョークではない。少し無理してでも行こうよ。
そして私の揺れる気持ちを見透かしたように、ネットで次々と上がってくる映画の予告動画。「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」の3が。
楽しみでならない。
5年前のあの悲しかった時と同じように、気持ちのおさめどころがわからない。今度は苦しいくらいに盛り上がる気持ち。人と分かち合いたい。切実に願う。
やっぱりまずは彼女じゃないか。
最初は別の用事で6月、ある地方に行く予定を立てていた。そこは彼女にも会おうと思えば会える距離。その予定とくっつけよう。
今回会わなければ、二度とチャンスを作れないかもしれない。一度会えば、会うハードルが下がってまた会える気がする。
それでももう働いている彼女は私に時間を割いてくれるだろうか。忙しそうだしな。
まだ「ガーディアンズ」シリーズは好きなのかな。MCUについてつぶやきはすれど誰かと話したいなんてもう思っていないかもしれない。
いつか一緒に観たいですね。と交わした言葉は忘れられているかもしれない。
今さらおばさんと一緒になんか観に行ってくれないかもしれない。
親くらいの年齢の人となんて気を遣うばかりかもしれない。
20代の人と趣味の話が合う50代なんてハシャいだ幼稚な人だと思われるかもしれない。
彼女の住む地域に足を伸ばせば一緒に観てくれるかなと様子を伺ってみる。
「ぜひ行きましょう」
返事が来た。大丈夫そうだ。「ぜひ」だし!
そのうち最初の予定がナシになったけど、もうそのためだけに行こうと決めた。日によっては夫もいっしょに行けるよと言う。
ところが彼女の住む地域はホテル代が高い。新幹線代もかかる。
困ったなあ。簡単に出る額じゃないもの。
最初に行く予定だった地域が待ち合わせたい場所の東側なら、今度は反対方面の西側を探した。少し外れた場所ならホテル代が安いかもしれない。
中でも安くて清潔なホテルを探し出す。
中心地の半額くらいじゃないか。
「そこなら車で行ける」夫が言う。新幹線代もかからない。
あとは日の調整。
予定を動かせるようになったので、5月に変更。劇場公開一ヵ月も経つときっと事情もずいぶん変わってきちゃうだろうし。いずれにしても互いに都合の良い日でないといけない。
そして長いドライブは疲れてしまうから、夫にとっても負担少なめのスケジュールで。
そうして互いの都合をつけると、今度気にするのは服装。
夫とは「ガーディアンズ」Tシャツを着て観に行ったりもするけど、普段の私がそういうタイプのわけではない。初対面。とりあえず顔合わせで、次に会うハードルを下げたいから、いきなりインパクト強いものでなく、なるべく普段の外出着で会おう。友達に会う時の私ならどんな格好するかな。「ガーディアンズ」感は出したいから、カセットテープのピアスはつけていこう。
二週間くらい前からソワソワし始めた。
どうしよう。
すごく楽しみだ。
幼少期から、当日に動けなくなって予定がダメになる経験を何度も繰り返してきた。息子も体調崩して当日断って謝る経験が多く、「約束は必ず果たせるわけではない」を身にしみて知ってしまっている。何が起きるかわからないしさ。ーなんて思うと、怖くて誰にもこの話をできなくなった。
すべて済むまで口にできない。
夫と交代で車を走らせた。
また心配がじわじわ湧いてくる。
「雰囲気合わなかったらどうしよう」「今さらそんなわけないか」「喋ることなかったらどうしよう」「でもいろいろ聞きたいし大丈夫か」「あまりに世代差を感じさせたら申し訳ないよね」「そんなの気にしててもしょうがないか」「いやむしろ、外見おばさんなのに中身が幼稚って思われるかもしれない」「ガーディアンズの良さがわかる人だからそんなことでイヤだとか思われないか」。
ごちゃごちゃ言う私の横で、仕事で様々な世代の人と話す夫が、喋ったり喋らなかったり自然にしてて良いんじゃないのと元気づけてくれる。
自分が20代で、20歳ほど年上の方たちとお付き合いがあった頃を思い出す。
彼女たちの表情。ファッション。お喋りの中身。いろいろ心にあったのかもしれないけれど、自然体に見えた。
気負いなく自分の話をし、私を詮索することなくただ話を聞いてくれた。会話の中でプライベートなことにも突っ込まれたけど、不快に思うほど立ち入ってこなかったし、私も話したくなれば話した。
彼女たちを慕う気持ちはあったけど、彼女たちからの執着はなく、多分それは私と話す魅力がなかったからで、幼く未熟に感じたのだろう。私も彼女たちと疎遠になっていった。
それでもあの頃の経験があって良かった。終わってしまった関係も無駄ではない。彼女たちの振る舞いがどうだったかを思い返して自分を奮い立たせる。大丈夫。こんな私でもきっと大丈夫。
今どき私みたいな考え方って大げさなのかもしれないけど、私は気軽にSNSの中の人たちと会ってきたわけではなくて。特に今回は私が彼女の親くらいの年齢だし、ほんの何時間かだろうけど「お子さんを預かります」の気持ちだってある。
それにSNS上でダメになってしまった付き合いもたくさんあるから。もう自分にガッカリするのもいやだ。
その後についてだって無理することはないけれど、相性が悪くないのであれば、趣味の話が合う間柄って貴重だ。大勢で会うのは苦手だし、一人ひとりとの出会いを大切なものとしたい。
大丈夫と自分に言い聞かせても、当日はどうしても朝早くに目がさめた。あれやこれや気をつかったわりにはボサボサ整いきらない髪の毛にガッカリしつつ粛々と支度をした。
前日に待ち合わせ場所を確認していたのですぐに着いたけれど、キョロキョロしてしまう。
あの子? いや知らされている服装とちがう。
あっ来たかも! いやちがったわ。
服装が全然ちがうのに、いちいち「あの人?」とどうしても反応し、ほんの一瞬、ギュッと集中して見てしまう。
そわそわしていたら。
あっ。
知らされていた服装の子。
こちらをニコニコ見ながら近づいてきた。
「わあー。こんにちは」
その表情含めて安心した。
きっとこの子も楽しみにしてきてくれたんだ。なんとなくそう思えて、心配と緊張でガチガチになっていた心が、ほわあとほぐれる。
映画館の受付では、もらった特典グッズが以前もらえた物と少しちがって「やったあ」とのぞきこんでいたら、彼女も「うれしいー。もうもらえないかと思った」とのぞきこんでいる。ちっちゃなグッズをそれぞれのぞきこむ一瞬の時間をかみしめる。
それからスクリーンの前にすわったけど、予告映像がなかなか流れない。黒いスクリーンの前、座席シートや映画についての話をひそひそ声でしゃべっては「ウフフ(彼女)」「イヒヒ(私)」と笑った。
4度目の「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーVOLUME3」だったし、初対面の彼女の手前、涙は我慢しようと思っていた。「泣いちゃうかもしれない」と保険はかけつつ。
でも反対側の隣りにすわっていた人のことなんて油断していたものだから。息子くらいの若い男の子が一人で観に来て、一人で泣いているので、こらえられなくなった。
どうしても泣いちゃうシーンはいくつかあり、だいたいはマスクが吸い込んでくれる。でもびちょびちょになるほど泣いてしまうと心地悪いので、外して口周りをハンカチでぬぐわなければならない。
やっぱり心揺さぶられるなあ良かったなあ。(また観たいなあ!)
しみじみ観終わった。
その後も調べた店でランチをとりながら、気付けば私は夫や息子の話までしていた。
互いの話をしながら、ふと「ピアス」と指摘される。
ああそうだった。「ガーディアンズ」ファンなら絶対にわかるオレンジと白のカセットテープのピアス。手に入れた時にうれしくて、ツイートしたこともあった。もちろん「つけていきます」と報告もしていたけれど。
そう、そうなの。カーディガンの色もね、この色に合わせてね。
得意になっている私の言葉を、「うんうん」ニコニコ聞いてくれる。
そのうちMCUの中の、思わぬ作品の話で盛り上がったり、他の映画の話もしたり。観た映画。おススメの映画。「きっと好きだと思う」と互いにわかって笑いながら。
さらにカフェに移動して話していると、もうすっかり緊張感がなくなって、だんだん好き勝手に、一つ一つのシーンについて話し始めた。
「あのシステム笑う」
「あのシーン怖くて見れない」
「あれにはグッとくる」
「あそこのシーンのあの表情、好き」
互いに言い合っては、そのシーンやその表情を思い浮かべ、「わかるー」と言ったり「ああなるほど」とニヤニヤしたり。ーを繰り返すだけになっていく。
だけどさ、こんな風にただ好きなシーンを話して「ああ。あれね」と当たり前にわかるのが楽しいんだ。
日常の風景の中に「ガモーラ」とか「ネビュラ」とか「ノーウエア」とか、知らない人が聴けばナゾの単語が次々出てくる自分たちの会話がなんだか可笑しくて楽しくて。
こんな話ばっかり続けていると飽きちゃうよね。私が好きなことの話ばっかりしたってね。こんな趣味性の強い話、わからないよね。わかってもらえないよね。ごめんね。話題変えなきゃ。
そんな気遣いが要らない。
むしろそんな話こそしたいんだ!
自分たちの「好き」についてしつこく話せる。こんな会話が許されるなんて。
楽しいよう!!
外でドリンク片手に話す時間。天気も良く、風も心地良く。かわいい犬たちがゴキゲンそうに散歩し、抱っこされ。一人の人。友達同士かな。カップルも。大勢の団体。家族連れ。老夫婦。目の前を過ぎていく。
まだまだ話そうと思えば話せたけど、一段落したし、今回はこの辺りかな。とお開きにすることにした。
次はいつかわからないけど、良いタイミングで来られたらと思うので、またその時に会いましょうね。
と声をかけて。
ホテルの部屋に戻ると夫が「この時間まで会っていたってことは楽しかったんだね。良かったね」とニコニコ迎えてくれた。