このままでもいいから戻ってこられた~私にとってのnoteという世界~
何度も繰り返してきた感情なのに。
苦しかった。のどの奥がずっと詰まっているような苦しさだった。
悲しかった。涙が出ないほどに悲しかった。
何でかと聞かれても、その詳細は書けない。
でもこの漠然とした思いに、応えてくれた方たちがすごくたくさんいて。
ようやくトンネルから抜け出してきた。
「光が見えてきた」とかそんな明るく素敵で幸せそうな感じではない。
土砂降りがしとしと降りになったくらい。
ガツーンと突然にショックなことがあったわけでなく、ずっと抱えていることだった。たった一つの理由でもない。あれもこれもあって、ぷしゅんぷしゅん空気が抜けていくように、書きたい気持ちが失せていった。
書いても載せたい気持ちもなくなり。それは冷え冷えとした心で。
たくさんの人の温かい言葉が私を抱き起こしてくれた。
(※ここから先、noteの方の言葉も多いですが、あえてまったくそのままでなく、自分なりの受け止め方を言葉にしたものが多いです。失礼であれば、遠慮なく一声かけて下さいね)
最初に勇気を出して打ち明けた方に、「自分を好きだと言ってくれる人や、寄り添ってくれる人に気持ちを集中したら良い」って声を掛けていただいて、やっと気持ちがほぐれた。
受け止めてくれた彼女の言葉をきっかけに、人に話さないと、きっと私はこのまま閉じこもって卑屈になるばかりだ。何とかしないと、と思えた。
少しずつ、話せる範囲内で、嫌われないか怖くなりながら話した。話さなくても、似たような気持ちを偶然記事にしている方も見かけた。
順調に見える方も「選ぶ側、選ばれる側、選ばれない側、そういったことに疲れた」と書いておられた。他に、頑張って続けている方で「何故こんなことやってるのかなって我に返る」瞬間があると知った。色んな方面や今までの企画、個人企画で認められている方も、「個人企画は疲れたからやめている」と書いていらした。それでもぼちぼち続けたいのだと打ち明けてくださった。
色々な人が、続けていても、それぞれ自分で考えた線引きをしたり、休んだり、自分なりのやり方を模索している姿が見えてきた。
普段ここで楽しんでいるだけでは、わからないことが少しずつ見えていった。
「誰かに向けてなら言える、やさしいことばを自分自身にもかけてあげてほしい」の言葉にも、我に返った。
私も自分の記事に書いたことある。
「親友に接するように、自分に接したら良い」って。友達にも時々その言葉を贈る。
私がアナタなら、アナタは優しい言葉をかけてくれるでしょう? って。人にはエラソーに書いているのに、自分がその渦にハマってしまっている時って、どうしてそれをすっかり忘れちゃうんでしょうね。
読んだ記事にも元気付けられた。
「他人軸じゃなく、自分の良いなと思う気持ちを大切にする」
「スキをもらうための記事を書かないで良い」
「本当はイヤなのに「良いよ」って頑張っちゃうのを辞めたら良い」
「自分のイヤなことは自分にしない」
ちょっと前のから昨日まで、それぞれ自分の言葉だったり、「こんな言葉に出会ったよ」って記事だったりした。
元気そうに見える人も悩みを抱えていて、実は自分の記事で自分を元気づけていることを知った。記事だけではわからないしんどさを見せてくれたことで、抱えているものを知った。
noteでつながっていない人にも相談してみた。
そういう場所って「目的も主張も境遇もバラバラのカオスの世界。偶然見かけた記事に、ものすごく共感しても、それは書いた人の一部でしかない」
つまり「否定されても、それはアナタの一部でしかない」。
私たちは、互いをわかったようで、わかっていないし、わかっていないようでわかっていて。そんな不確かな関係を、より確かにしたくて近づいたり、傷ついたりしているんだ。
記事や個人的にやり取りで、その人を知った気分になっちゃいけない。ある感情を強烈に共有したって、それ以外の面はどうなんだ。
山岸俊男さんの「日本の「安心」はなぜ、消えたのか」を思い出した。
もう10年近く前に読んだだろうか。
傷つきを恐れて関わらないでいれば、いつまで経っても信頼関係を築けない。人を信じることから始めたら良いんだ。って思えた本だった。
犯罪がらみじゃなく、恋愛感情とかじゃなく、それ以外の場面で、きちんとした人間関係を社会の中で構築したい場合。人間関係で傷ついたって、それを上回る関係って構築できる。それはあくまでも自分次第。相手を信頼できないってシャッターを下ろしちゃうのも自分。
以前からよく喋る親しい友人には、今の事情を詳しく話したら、「何ソレ。どうしてそれでそんな風にいられるの?」って猛烈に怒ってくれた。
そんなに私は憤慨していなくて、悲しくて辛いだけでと、おおいに戸惑ったけど、親しい友人には、全面的な味方でいてほしいからその気持ちは嬉しく、心強かった。
私目線で語るから、事実とは違った偏りがあるにしても、私の友人たちは、起きた出来事や誰かを悪く言い過ぎないで、それでいて必ず味方でいてくれる。相応の関係を築いてきた証拠だとありがたい。
noteでの記事、始めてから2年とちょっと。
長くても5日と空けずにきたはずだけど、一週間以上空いた。辛い数週間に上げたのだって、私の中では覇気がなかった。
そんな中でも気分によっては、読みに行けた。
読んでいくうちに、新たに面白い人を知ったり、傷つけて嫌われたって思い込んでいた人とも、温かい言葉を交わすことができた。
今は卑屈な思い込みも、いったん置いておく。
私は読んで楽しんでいるって事実があるのだから。
みんなが仕方なく私のを読みに来ているんじゃないかって疑心暗鬼になっても、読みに来てくれるっていう事実があるのだから。
すごく腕があるとか、読まれるとか、馴れ合いだとか、仲間だとか、noteがどういう場であるかとか。その葛藤をまた繰り返してしまうだろうけど、今はどうだって良い。
馴れ合いでも、読み合う仲間でも、読み合わない人でも、ここで今は書いていたい。
私のを読んでいなくたって毎回読みたくなる人、コメント書きたくなる人もいる。こちら側はフォローしていなくたって読みに行く人もいる。
必ず読む人のも読めない日だってある。後から読みに行く時もあるし、きっとそのままのものも。
「楽しければ良い」って、それは無責任なのかもしれない。
でもそれだけじゃないものも感じている。
それを馴れ合いとかお花畑とか言われても、構わない。私はそれで人を面白いと思えたら。
私が書いていない間、過去記事にスキつけてくれる方がいて、「待ってるよ」「元気?」って励まされた気がした。
真実はそうじゃなくても。
いや、もうそんなのがなくても、人の記事が上がっているだけで元気づけられた。しんどい時もあったけど。そんなのさ……けっきょく……
ぜーんぶ自分の受け取り方次第!!!
ツイッターは完全に閉鎖しちゃったけど、ここにはなんとかまた戻って来れました。