自分を笑い飛ばしてほしい父
母親のことは時々文章の中に書いてきたが、私の父親のこと、少し書きたくて。
娘である私にとっての父は、とぼけているところが面白く、ひたすら私に優しかった。ご機嫌を取るとか甘やかしてくれるとかいうのではなく、私が感情まかせに振舞っていてもそれを流してくれる。思春期の頃、うっとうしかったことはあって、触ってくれるな、部屋を少しでものぞいてくれるな、というのはあったけど、嫌いになったことは一度もない。さらにそのおかげなのか、「お父さんみたいな人と結婚したい!」と、幼少期ならいざ知らず、物心ついてからは思ったことはない。境界線がしっかりあって線引きできており、信頼感を持っている。
そんな父親の面白いところは、上品で落ち着いた物腰なのに、相当とぼけているところだ。そのとぼけっぷりで、孫たちの笑いをかっさらっている。どこまで本気なのか、娘の私にさえわからないこともあるくらいだ。
先日、体質的におできのできやすい父は(兄も私も、この体質を引き継いでいて、困っています)、お尻のほっぺにおできを作って、病院に行った。座るのも痛いくらいだったようで。医者にみせる段階で、その医者が女性だったものだからつい「恥ずかしいから、あんまり見せたくないんですが」ともったいぶっていると、医者の方も「私もあんまり見たくないんですが」と一笑いあったらしい。さらに切開が必要だったようで、切開した直後に、珍しくメールをしてきた。
「問題なく終わったよ」との知らせの後に、「でも座食がダメなんだって。立食なら良いらしいけど」という文と、号泣の顔文字。「立っているか寝ているかしかできないの?」と返事すると、「正解! 立つか横になるかの二択しか僕にはないんだ」と嬉しそうな絵文字と共に返ってくる。さらにそのしばらく後、「いま地下の売店でつぶ餅ピ-ナッツをかって来て、七階の窓から東の方の夕空を眺め、ひとり立食パーティーしてるよ」とメールが来た。
哀愁漂う父の背中を想像する。つぶ餅ピーナッツとやらを、窓の外の夕空に向かいながら食べている父。当然立ったまま。申し訳ないがスマホを前に、声をあげて笑ってしまった。
父は、自分が惨めで情けない立場であればあるほど、笑いに変えようとする。泣き笑いみたいな表情の演技がそもそも上手。そういう時にあげる笑い声もすすり泣きと交えて、情けなさを出すのが実に上手いのだ。父特有の「ムシムシ」という「鳴き声」まである。意味は、「メソメソ」というようなことだ。メソメソがムシムシになることで、一層の情けなさを引きたてる。品の良い父が、ムシムシと泣き笑いしていると、こちらは笑ってしまう。
そうやって、父は自分が情けない立場になる度、「笑ってくれ」とアピールしてくるものだから、内容が情けなければ情けないほど、父の表情や声色を想像してしまって可笑しくなってくる。
今回も、きっと病院でも帰りの電車や帰り道でも座ることができず、大変だっただろうに、そうやってご飯を一人、立って食べているところを想像すると、どうしても笑いが込み上げてしまう。可笑しいと思ってしまうのはきっと私の父だからだ。
他人だと、純粋に大変だねと思いやるだろうに。でもそれは、父の積み重ねてきた「情けない僕をどうか笑ってください」のアピール努力の成果なのである。おかげでその必要ないはずの父の努力は、兄にも私にも、そして父の孫たちにも伝わっている。
身体が大変なこともあるだろうけど、でもそんな私の父のことも「おじいちゃんて笑わせてくれるよね」と笑いながら、息子は大好きだ。
お尻、早く良くなると良いね!