いつもの儀式
いつも通りに事が運ぶと、それなりに満足。
倉橋はそう考えているが、これは満足とまではいかないが、事なきを得ただけでも十分だろう。いつも通りがいつも通りのようにならないこともある。
いつもよりも待たされるとか、いつもよりもすいているとか。後者はいいが前者は一寸。
しかし、目的を果たせたのなら、それはいつも通り。何かの都合で果たせないで終わったのなら、いつも通りとはならない。
ただ、それは本当に必要だったのかと、負け惜しみのよう倉橋は考える。それにより、いつも通りでなかってもよかったのだと思いたいから。そして果たせなかったとしても、その後の影響はなく、翌日、昨日の分も果たせれば帳消しになり、穴が埋まる。
しかし、嫌々ながらやっているいつも通りのこともある。もう習慣化し、それをやらないと調子が狂うとかだ。
これはやらなくてもいいことかもしれない。またそういう風に持って行きたい。なぜなら嫌々やっていることなので、このいつも通りはパスしたいところなのだ。
だが倉橋は深読みする。嫌々だが、ずっと続けていることは、何処かで役立つのではないか。辛抱してやっていた甲斐があとで出るとか。
ただ、倉橋の経験から、そんな例は殆どない。だが、これを続けていたおかげでというのを期待したりする。だからもうマジナイのようなもの。
逆に悪習もあるだろう。それは途中でやめることが多い。ただ、悪習だと世間では思われているが、倉橋にとり、それはいい習慣かもしれない。それをやることで、何処かで支えられているような。これもマジナイに近い。
それを考えると、日常やっているいつものことも全部マジナイで、ただの儀式かもしれない。それは飛ばしすぎだが、儀式になっていることが結構ある。
ただ、日常的な、いつも通りは勝手にそうなっていったと言うことが多い。流れとして、そうなるような。
だから、それが絶対的なものではなく、とりあえずそれをやっている程度。やらないと日常が崩れるし。
昨日と同じようなことを今日もやる。それほど難しい問題ではなく、普通にできること。
しかし多少のズレもあるし、狂いも出る。トラブルも起こる。だからほぼ昨日と同じ事の繰り返しができただけでも、それなりの満足を味わえると言うことだろうか。
無事に一日が終わったと。
倉橋は寝る直前にやる儀式がある。それは電気を消すことだったり、一寸片付けをする程度の簡単なものだが、その日、最後の儀式。このとき、無事に一日を終えたと、少しは思う。
それがたとえ何でもない日であっても。
了
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