やさしさの連鎖をつくる Case. 8 - 成澤 俊輔 さん
川崎市市民文化局パラムーブメント推進担当が2024年にスタートした「やさしさの連鎖会議」では、心のバリアフリーに関する様々なフィールドで活躍する10人とやさしさの連鎖が広がるアクションを考えていきます。
どんな活動になるかは今後の展開次第。川崎らしい活動に育つよう、アドバイザーとして快く参加してくださったみなさんから、ひとりずつその想いをインタビューしました。川崎市に何を期待するのか、そして市民ひとりひとりにどんなことができるのか、ヒントを探っていきます。
Case. 8 - 成澤 俊輔 さん
1985年佐賀県生まれ。徐々に視力を失う難病・網膜色素変性症を持つ。経営コンサルティング会社でのインターン経験などを重ね、2009年に独立。2011年12月、就労困難者の就労支援と雇用創造をするNPO法人FDA事務局長に就任。就労困難者の「強み」に焦点をあてた、相互に働きやすい環境づくりに取り組む。2020年4月に事業承継をし、現在は約60社の経営者の伴走を行う。
成澤俊輔 オフィシャルWebサイト
当事者としての悩みから自分を救ったのは、ベンチャー企業の雰囲気だった
3歳の頃、家族みんなで花火をしていて、花火が消えた瞬間に火消し用のバケツの場所がわからなくなった様子に親が異変を感じたことで「網膜色素変性症」という病気がわかりました。網膜に異常がみられる病気で、数年から数十年かけて徐々に進行していく病気です。小学生のときは見える範囲がサッカーボールくらいの大きさ、中学高校でソフトボールほど、大学で500円玉程度の視野になっていきました。
小中高とすべて普通校に通っていたので「自分みたいな人はどう生きているのか?」という人生の迷いを解きたいなと思い大学で福祉を勉強したら、余計に迷ってしまいました。当事者として悩み救いの手を求め、藁にもすがる思いで福祉の勉強をしたのですが、障害がある当事者は大学では僕ひとり。当事者ではない人たちから障害について学ぶという大学の環境は僕の迷いを解決してはくれなかったんです。
そんな頃に、偶然参加したベンチャー企業でのインターンシップの雰囲気にハマったんです。それまでの自分は「いろんなことができる人にならないと(社会に)必要とされない、生きていけない」と思っていたんです。ベンチャー企業には、コレはできないけどアレなら誰にも負けないという一芸を持っている人ばかりが集まっていて、自分にはこっちの世界の方が生きやすそうだなと思えたんです。ベンチャー企業での気づきが、人生を大きく変えてくれました。
「自分のことを好きだ!」という人を地球上に増やしたい
その後、NPO法人のFDAから声がかかって、気づいたら8年半も経営に携わっていました。初めて経営者をやってみたら、すごく自分に合っていたんです。
「得意」と「好き」が重なると、こんなにパワーが出るんだなと実感し、「昔の自分が出会いたかった大人になろう」と思いながら仕事をするようになりました。「困難を抱えていても、仕事は死ぬほどあるから大丈夫だよ!」と周りに伝えています。
今「社長の調律師」と名乗って、経営者に伴走する仕事をしていて、いろいろな経営者とお話することが多いですが、経営者は目の前の事に自分なりにどう対峙するかを常に考えている。それってつまり、自分の思いを大事にしているかどうかだと思うんです。
僕は働くことを通じて「自分のことを好きだ!」という人を地球上に増やしたい。「働く」ってごまかせないんです。「働く」の中には、嫌な経験も、つらい経験もある。でも、仕事に向き合うことで、自分らしさがでてきて、自分のことを好きになるいいきっかけになる。例えば、僕は視覚障害があっても、サーフィンや、キックボクシングなどをやっていますし、今度もパリファッションウィークに出ることになったんですが、全部仕事を通じて「やってみたい」って感じた自分の思いが原点で、それってとても人間的な営みだなと思うし、全て自分を好きになるきっかけになるんです。そんな人が世の中にもっと増えたらいいなと思っています。
川崎市の「やったことがないことをやってみるチャレンジ」に惹かれた
今回このやさしさの連鎖会議では、いろいろなところの「代表者」ではなく多様な「個人」が集まる会議にしたい、というお話を伺って、すごくいいなと思いました。世の中にいるいわゆる「代表者」って、実は代表者にされているだけでその人たちの全てを表現する代表であるはずがないし、自分も視覚障害者の代表ではない。いち個人として発言できる、関わることができるのであれば、とても面白いなと思いました。
僕は「やったことがないことをやってみる」ことが強烈に好きで、いつもやったことがないことを仕事に選ぶようにしています。今回も川崎市の「やったことがないことをやってみるチャレンジ」の機運を感じたので、どうなるのかとても楽しみです。
見てわからない人は、良さもわかってない
僕の目は光は感じられるので、ギリギリ白と黒の差なら分かるのですが、人の手の形や動きなど具体的なことは視覚で認識できません。そういう状況だと、例えばダンスしているときに「かっこよく座る」というのがどういうことか僕にはわからない部分なんです。でも「犬を散歩していて、犬が急に走り出して、リードがピーンって伸びた、というイメージで座ってみてください」と言ってもらえると、それがかっこよく座るということだなと分かるわけです。言語で自分の中に「かっこよさ」みたいなものを理解していくプロセスは、すごく面白いです。
僕としては「見てわからない」のと「良さがわからない」のは、一緒だと思っているんですね。例えば、ラグビーのことを全然知らない人がここにいるとします。そんな人がラグビーの試合を見ても面白さは全く分からないと思うんですが、ラグビーの日本代表キャプテンから、すぐ隣で直接「最初の10分はとにかく背番号5番の人を見続けてください」とか「とりあえず、あの攻めている人だけを見てください」とか、見方を教えてもらえると良さがわかるし面白くなる。「見てわからない」のままにしていたら「良さもわからない」ままなんです。でも、わかるよう伝えてもらえれば理解に繋がるかもしれない。ユニバーサルデザインとかインクルージョンという文脈でなくても「わかりやすく伝える」ということはお互いを理解する上で大切なことなんです。
多様性の時代は、脱チームプレーの時代、なのかもしれない
この夏開催されたパリオリンピックでは、球技の団体種目は残念ながら全部予選落ちでしたが、個人競技が躍進しましたね。その様子を見ていて、個人プレーというか、脱チームプレーは今後の社会テーマかもしれないと思いました。
僕はサーフィン、スケボー、日本舞踊、パラグライダー、キックボクシング...などいろいろやっているんですが、全部個人種目なんです。ブラインドサッカーみたいなものもできなくはないと思うんですが、自分は自由に動きたい。でも仲間がいると楽しいから、バンド的に気が向いたらスタジオに集まろう、みたいな距離感が心地いいです。やりたい人が集まって、やり終えて満足して去っていくみたいな柔軟なイメージ。チームプレーを軽んじているわけではなくて、自分の軽やかさを活かすために、こういう形態もありだと思う。自然体の自分というか、飾らない自分でいたいと思っています。
目が見えないことが最強にいい!と思うこと
目が見えないということで最強にいいな、と思うこともあるんです。今日も、このインタビューで皆さん僕の話を楽しそうに聞いてくれているなってイメージしたら「ああ良かったな」で終われます。もし僕が見えちゃう人だったら、話をしている端っこで時計を見てソワソワされたりしているのが見えて「喋りすぎちゃったかも…」と不安に思うかもしれない。皆さんがいう「妄想」は、僕にとって「現実」なんです。
「恥じらい」や「怖さ」も目が見えるから感じることだと思います。「一生懸命喋っているのに滑っちゃったな」とか「一生懸命準備したのに誰も資料見てくれてない」もそうだし、「こんな広い会場でウケなかったらどうしよう」とか「体のでかい人がいて怖いな」とか。「スケボーで突っ込んだら痛そうだな」というのもそうです。恥ずかしいな、怖いな、不安だなって感じるのは、だいたい視覚で入ってくる情報のせいなんです。
「他者との比較」もそうですね。あの人の家は大きい、あの人は綺麗だ、あの人は痩せている…、といったことは、目が見えている情報をもとに他者と比較しているから起きるし「情報に惑わされている」とも言えます。世の中の目が見える人には、そんな苦労があるんだなぁと思って、その点僕は見えないおかげで悩まなくていい。
好きなことをやっていると、振り回されないで自分らしくいられる
「得意」というのは、自己認識というよりは、人に「上手いよね」と言われて、結果が出たときに思うことだと思うんです。自分でコントロールできない変数が多いですよね。でも、理由が説明できなくても、結果が出ていなくても好きなものは好きなんです。得意は「結果」で、好きは「プロセス的」。好きを大事にど真ん中に置けてる人はケロッとしているし、ご機嫌だと思います。
また「人は強みで必要とされ、弱さで愛される」という言葉があります。強みを生かし合えている組織は、一見良さそうに見えるんですが、けっこう世知辛い気がしています。野球でいうと巨人。サッカーでいうとレアルマドリードみたいな組織をイメージしてみてください。「強み」って極めて機能的だから、常に切磋琢磨が必要で、頑張れなくなったら(そこには)いられない。
でも、みんなが弱さを理解し合って頑張ると、けっこうパワーが出るんです。弱さを理解しあって、心理的な安全性が生まれたときに、人はパワーが出る。機能的に優秀でいろんな強みをぶん回している人もかっこいいんですが、「私って何もできないのにおかげさまで生きてるんです」というのも楽しそうだなと思うんです。だから「強みよりも弱さを認識して、人に伝えられるようになりましょう」と言いたい。好きと弱さをど真ん中に置くのが、僕はこれからの時代のテーマになっていくと思います。
「よっ!」っていえるぐらいの知り合いが、分散的にいるまち
―成澤さんにとって「自分らしく生きられる寛容なまち」ってどんな姿形をしていますか?
自殺の少ないまちは、立ち話が多いという調査結果があるんです。その立ち話っていうのは、井戸端会議のように2~30分じっくり話しているような立ち話ではなくて、知り合い同士の「よっ!」といった程度の軽い会話。「よっ!」って言えるぐらいの知り合いがいるまちっていいなと思います。
「ご機嫌で、いい状態」って、分散しているのが効果的なんです。分散していれば、ひとつががうまくいかなくても、いろんなことの中のひとつがなくなっただけなので、自分の人生が否定されたわけじゃないんだ、と思えるようになります。社会の多様性を考えるなら、自分の中の多様性を作っていく、自分の中の分散性を高める、みたいなところに目を向けてみるのは良いかもしれません。
対話より会話が溢れているまち
僕は見えないから、会話が多いまちは住みやすい。わかりやすいのは「子ども」。例えば子どもは信号が変わると「青になったー!」って誰にともなく言うでしょう?そういう声を聴くと、音声信号機みたいなものがなくても、会話から拾い上げられるわけです。だから、単純に会話や雑談が多いまちは、僕としては生きやすいし、面白いなって感じます。
僕は「対話」より「会話」が大事だと思っています。「対話」をキャッチボールと例えることがありますが、キャッチボールは必ず取らなきゃいけない、必ず返さなきゃいけないんです。でもそんなに毎回きっちり受け止めるように人間は出来た動物ではないんですよね。となった時に「会話」はドッジボールと考えるんです。よけても大丈夫だから。「対話」は中身が伴うもので、「会話」はとっ散らかってる感じのリズムのバイブスみたいなもの。説明的な対話はAIの方が得意だと思うので、感じたり思ったりしていることを軽い会話で交わせる仲間が分散的にいる、そんな場所がいろんなところにあるまちがいいなと思います。
成澤さん、ありがとうございました。
記事執筆: 大城 英理子(とりどりワークス)
撮影: 村上 明美(こどもとかめら)
企画・コーディネート: ソーシャルデザインスタジオ ニアカリ
主催: 川崎市 市民文化局 パラムーブメント推進担当