続・わからないことをわからないまま受け止める能力
ネガティブ・ケイパビリティという能力について書いた。
ネガティブ・ケイパビリティという概念について、わざわざ本を買ってまで知りたいと思った背景を書いてみようと思う。
ぼくは考えすぎてしまうくせがある
前出の記事の「自分はなんのために働いているのか?」という例は実際にぼくが自身に向けた問いだ。
自分では答えが出せなかったから、色んな人に聞いてみた。みんなその人なりに答えを聞かせてくれた。それが、「世のため人のため」、「生きるため」、「意味なんかない。そういうものだ」というものだった。
それらが間違っているとは思わない。その人にとってはそれが答えなのだろうと思う。しかし、どれもぼくにとってはしっくりこない。
その後も考え続けた。そしたらメンタルがやられてしまった。仕事にいけなくなり休職させてもらうほどに。
そもそもその問いを自分に向けたのは、「この仕事でぼくの生み出している価値は少ない」という負の想いがスタートだったからだ。考えれば考えるほど自分のマイナスな部分ばかりが見えてきて嫌になる。
色んな人の助言
そのときに色んな人が助言してくれた。「考えすぎないほうがいいよ」と。
ぼくのことを心配してくれているのはありがたかったが、その時のぼくには全く効果がなかった。
考えすぎてしまう人に「考えないほうが良い」というアドバイスはあまりに性急な答えだ。そんなことは本人が一番わかっている。
いま振り返ると、その時のぼくに必要だったのは「なぜ考えすぎてしまうんだろうね。」と共感し、答えを急がないことだったように思う。
それでも考え続けていた
メンタルをやられて休職している間も考え続けていた。
「自分はなんのために働いているのか?」と「なぜぼくはかんがえすぎてしまうのか?」を。
するとふと気づいた。考えることそれ自体が悪いわけではない、考えて「答え」が出ない状況が"不快"なだけなんだ、と。
それまでぼくはどんな問題も論理的に突き詰めて考えていけば必ず正解が見つかると思っていた。学校のテストやシンプルな問題についてはそうだと思う。
しかし、大人になって、自分の人生に全責任を持つようになると、シンプルな問題ばかりではなくなる。
絶対的な正解がないような複雑な問題のほうがむしろ多くなる。
にもかかわらず、必ず答えが見つかると思い込んでいたものだから、答えを見つけられない自分をマイナスに捉えていた。
考えることが悪いわけじゃない。
答えが見つけられないのも悪いわけじゃない。
必ず答えが見つかるという思い込みが悪かったのだと気づけた。
考え続けても良い、答えが見つけられなくても良いと、心から納得できた。すると自然と心が楽になった。
まとめ
もし助言通り、考え過ぎはいけないと性急に結論づけていたら、心から納得行く答えにはたどりつけなかったと思う。
おそらく、考えこんでは悩んでメンタルをやられる、という繰り返しになっていたんじゃないかと思う。
そうはならず、復職できて、その後ITエンジニアから整体師に転職して楽ではないけど生き生きとした人生を送れている。
なぜそのように事態が好転したのか?理由を考えていた。そんなときふと知ったのがネガティブ・ケイパビリティという概念だった。
ネガティブ・ケイパビリティという能力のおかげでぼくの人生は好転したんじゃなかろうか、と思い本を買って、こうして記事を書いている。
わからないという不快な状況に耐える能力があることで、性急な結論づけで自分を無理やり納得させたりせず、納得するまで考え続けられる。
ネガティブ・ケイパビリティという能力にはそういう効能があるように思う。