〈短編小説〉十三夜 2000字
18階のフロアには武のデスクのパソコンのライトだけが辺りを照らし、静まり返ったフロアは日中の騒がしさも嘘のようだ。
「酒井さん先に上がりますねー残業頑張って下さい」と、鷲尾さんの声が聞こえた。
「ええ、お疲れ様です」と武が言うとバタンと扉が閉まる音が聞こえた。
プレゼン資料が一段落した武はエレベーター前の喫煙室へ煙草を吸いに行くと、ガラス張りの喫煙室からは東京の夜景を望むことが出来た。武が自ら吐いたぷかぷか浮かぶ煙の行方をぼんやりと眺めている先に、高層ビルと東京タワーの上に満月が浮かんでいた。今夜は十三夜の満月だった。
武は満月を急に見たくなった。こう残業続きじゃあな。武はひとりごちた。
武は駐車場に止めてあるアウディに乗り走り出すと首都高飯田橋から、千葉に向かって走り出した。高速は比較的空いていた。左車線を80キロで走っているとだんだん前の車のバックライトの赤い光だけが視野に迫って来る感覚を覚える。アクセルを踏むと武は解放され、日頃のストレスは排気ガスと一緒に消えていった。右車線を走る車が後ろからものすごいスピードで走り去り、あっと言う間に暗闇に消えた。千葉に近づくにつれ車も少なくなっていった。特にどの出口で降りるとは決めていなかったが、海からみる満月はとてもきれいだろうと思い、勝浦までひた走ることにした。
市原舞鶴インターで降りると海まで暗い山道を走ることになる。そのあいだの小高い丘に登って少し休憩するつもりで車を止めた。駐車場の自動販売機が孤独な光を放っていた。辺りは竹林に囲まれ風が吹くとざあざあ音がした。武は大きく息を吸って肺をきれいな空気で満たし、空を見上げると満月の光が青白いベールのように辺りの山々を包んでいた。武は自販機で缶コーヒーを飲みながら東京では味わえない深い満足に浸った。
そのとき、強い風が吹き荒れ竹林が揺れながらざあざあ音を鳴らすと、竹林の奥から武の方に白い着物を来た女が歩いて来た。髪は長く下を向きながら下駄の緒を見つめている。武は自分の目を疑いふたたび竹林を見たが、白い着物の女はこちらに向かって歩いて来た。武は悲鳴を上げそうになるが、空気が歯の間を通り抜けるような音しか出てこない。
「そなたは」女が震えた声で言った。
武は腰が抜けそうになりアウディのボンネットにつかまった。
武は叫びながら竹林を背にひた走った。自動販売機の前まで来て振り返ると、長い髪を半分顔に垂らした白目の青白い顔の女が、目の前に立ち自動販売機の光に照らされていた。
「なぜ逃げようか」女は言った。
武は腰を抜かしてその場に座り込んだ。
「海へ行かん」女が言った。
「海?」
「恋人の家でともに過ごすはずであった」女は大きく息を吐いた。
「わたくしはこの竹林の奥に家を構えておったが焼き討ちに合って殺された」女が言った。
「殺された?」武は今にも泣き出しそうだった。
「その海の近くの家へ参らん」女の霊は言った。
武はこの女の霊を車に乗せることにした。武が車に乗り込んだ時、女の姿が消えたので安心したが、車が走り出すと後部座席に黒髪を垂らした白い着物姿の女が座っていた。
それは恐ろしいドライブだった。車が山道を通る時、武は運転しながらバックミラーを見ると女は髪の毛を左右に振り乱し、白い目はじっと前方を睨んでいる。着物の帯の白い刺繍の鶴が羽ばたきススキは左右に揺れていた。ふと後ろを見ると消えているので成仏したかと安心したのもつかの間、前を見るとボンネットに捕まり着物をはためかせながら、こちらをじっとその白い目で見ているのだった。武は視界を塞がれてぎょっとしたが、次の瞬間には再び後部座席で髪を揺らし、寸前の所で崖から落ちるところだった。
そのまま30分ほど車を走らせると海へ流れる川の河口に出た。川は昨日の雨で流れを早くしていた。川の両脇には紅葉が色づき始め、ひらひらと落ちた葉は満月が浮かぶ川に流れて行った。女が「止まれ」と言うので武は車を止めた。女は後部座席からすっと消えたかと思うと、川の反対側に立つ瓦が今にも崩れ落ちそうな古い家屋の玄関の前に現れ、女はそのまま家屋の中へ入って消えた。すると、家屋の出窓に白い人影が朧げに映り、その隣のもうひとつの影と一緒に満月を見上げているようだった。
海には十三夜の満月がぽつりと浮かんでいた。月光が海面に輝く一本道を作っていた。武は車から出ると砂浜の上にへたり込み、女の霊がまだ体の後ろに憑いているような気がして後ろを振り返り、握りしめた砂を投げた。砂は風に吹かれてどこかへ行った。