人間を解体する方法•破壊と創造はセットか?

前回の哲学の悪用、人間の解体、つまり破壊に続きまして、創造についてです。新しいものを生み出す力はどこから湧いてくるか、です。文化庁などがしきりに謳う文句があります。「新しい文化の創造」です。古い文化を残しつつ、新しい時代に適応した文化を育てるというのが趣旨なのでしょう。しかし、昨今の社会情勢は文化に対して冷たく、むしろ破壊の方向に進んでいます。

前回

愛知トリエンナーレでの表現の不自由展にまつわるてんまつでは、一部の展示がSNSなどで炎上を呼び、爆破予告がされるまでに発展しました。爆破予告とはいうものの、脅迫文自体はほのめかすような、脅迫するような、ものの例えのような微妙なラインのものだったらしいです。とにかく批判が相次いだので?関係ない他のイベントや展示までもを巻き込んで中止に追い込まれたのです。

巻き添えを食った人たちにはいい迷惑です。関係ない人までをも巻き込む「言い訳」として「爆破予告」や相次ぐ批判が利用されたとしか思えません。こんなことを言えば「陰謀論者か」と言われそうですが、誰が黒幕だとかそういうことはどうでもいい。時間とお金、労力をかけて準備してきた人たちの苦労が、パーになってしまいました。そして世間の芸術に対する評価が下がり、蔑みの対象となり、制作する人たちの萎縮を招き、芸術の破壊が進んだ、というこの1点だけで充分です。

ま、正直この事件がそんなにものすごい影響力を持ち得たかについては疑問なのですが、無数に世の中にひしめく些末な問題の1つとして捉えてもらえれば十分こと足ります。

また昨今の社会情勢のせいで、中止になるイベントや公演、そういうことが些末であるとは言えない。ですが、あまりにも「何か話題になりすぎる」ので、心配されるリスクに対して話題にして騒ぎ立てる人は芸術や表現活動がやりづらい雰囲気を演出したいのだろうな、ということが導き出されます。実際、そういう雰囲気作りのせいで余計にやりにくくなっているし、特に舞台は。。。

感染症の真偽はひとまず置いておきましょう。まずは
「感染」という概念は、爆破予告同様、あまりにも関係ない人までを巻き込んでしまう、ある種、世の中を破壊する為には、便利すぎる言い訳であることにも注目したいです。全く関係ないはずのことにさえも影響するかのように見せかけ、関係があるように思わせてしまいます。そしてそれらの話題や脅威、「恐怖」それ自体が社会全体を破壊しかねないような言説を嬉々として喧伝する人々がいることにも注目したいです。

仮に、破壊者としての立場にいる人々が存在したとして、その人達は何がしたいのでしょうか?それが不安を表明するにとどまらず、意図的に人を不安にさせ、人間社会を破壊するのが目的だったとすれば、何がしたいのでしょうか?あくまでも仮の話ですよ。

よく、「終わりは始まり」「変化は痛みを伴う」「ピンチはチャンス」などと表現する人がいます。有史以前から人類は森を切り拓き、土を耕して畑を作ってきましたが、畑を作るためにはすでに生えている草や木を抜かなくてはなりません。要はそういうことなのです。それこそが奴らの思想であり、破壊の言い訳、大義名分なのです。

だからこそ、「ピンチはチャンス」とまるで生き残るための戦略や人生訓を伝えると見せかけて、世の中の変化の渦中にある人々に、引き抜かれる雑草として扱われてしまっている人達が被害者としての意識を感じさせることなく物事を進めていくことできるのです。被害者づらするな、工夫しろ、俺たちが生き方を教えてやる、と。

いるでしょ?そういう人自体は。キッショ!

しかし本当に、既成のものを破壊しないと創造はできないのでしょうか?日本の歴史の中では江戸、という時代がその答えを示しているかもしれません。265年間も続いた天下太平の時代ですが、その長いスパン故に、文化の発展、技術、社会の効率化が行き届いていました。明治期に来日した西洋人はみな、国際的に見ても日本人の識字率が高いことに驚いています。

現代では「リサイクル」「リユース」という言葉が叫ばれますが、それよりもはるか昔の江戸では、糞尿でさえ、お金に変えることができました。そこから堆肥を作り、畑の肥料にするんですね。失業率は高くなく、仕事のない浮浪者はほとんどいなかったそう。どこを見ても仕事はたくさんあるんですね。ウンコだってお金に変わるんですからたいしたものです。今は下水に流してるでしょ。

このように、変化の少ない社会では、うまいことやっていく仕組みが成熟していくゆとりがあるんです。それは決して社会の停滞ではなく、スローなペースで進んで行くのです。

ともあれ、江戸時代には戻れないし今を生きるしかないのですが、「被害者づらするな」「ピンチをチャンスに変えろ」という“誰か”の声をまともに受け取っても幸せにはなりようがありません。次々と降ってくる「新しい時代のルール」に右往左往しているだけでは何の学びも得られません。常に新しいものを求められ続けても、文化や芸術は成熟しようがないし、知識や技術も改良されていかないのです。ただ流行としての新技術が、本当の意味で人の役に立つ前に、過ぎ去り忘れ去られてゆくだけなのです。

流行としての哲学、流行としての技術、流行としての芸術、流行としての経済学、それはチェンジという名の破壊であり、新しいものを産むという大義名分とは真逆の方向にしか働きません。何も産まなくなってしまうのです。(いや、ハッタリや詐欺だけは無数に生まれます)

そこで私は3つの提案をします。生活を愉しみ、まずは地に足のついた強い人間になりましょうということ。

一つ、
既成概念、既存の文化を理解しようとすること

一つ、
世の中の動きが速くなり始める以前、情報化社会以前の、スローな時代の本を読むこと

一つ、
廃れつつある習慣や、昔やっていたけど今はやっていないことを、自分でやってみてそれを子ども達にも伝えること

なんか当たり前ですね。すでに実践している方もおられるのではないでしょうか?でもとても大事なことだと思うのでここに書きました。

楽しみながら、本来なら平和な世界を守っていきましょう。

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