睦月の自選秀歌

皆様のいいねを励みに、先月もめでたく一日一首ないし二首ほど投稿することができました。自選秀歌にまとめましたので、ご笑覧ください。

わたしの歌には、わたしがいない。そういう歌が、わたしにとっての秀歌だという感覚が、日々に強くなっている。みずから歌人と名乗る人のおおくは、演劇で言えば、脚本・演出から主演まで自分でこなすスタイルの人がおおいようだ。その比喩で言うならば、わたしの場合は脚本だけでよい。尊敬する歌人は、ここ数年は紀貫之にしていたが、これからは紫式部でもよいかもしれない。虚構のまことを、三十一文字に。「水槽」(5)の歌は、自分でもことに気に入っている。

それはそうと、中田満帆さんの主宰する歌誌「帆(han)」に、連作とささやかな歌論を寄稿することとなった。連作のほうは「SNSの或る現実(の或る物語)」というテーマで、よいものができたと自分では思っている。散文はまだ書きだししか手をつけてない。世に出るのはまだしばらく先なので、出たらまた紹介しよう。推薦してくださったという鷹枕可さんにも感謝を。

今年は寺山修司の生誕九十年だという。戦後も長くなるわけだ。

この定型詩にあっては本質としては三十一音の様式があるにすぎない。様式はいわゆるウェイドレーの「天才の個人的創造でもなく、多数の合成的努力の最後の結果でもない、それはある深いひとつの共同性、諸々の魂のある永続なひとつの同胞性の外面的な現れにほかならないから」である。

「空には本」僕のノオト

寺山のこの言葉は、いまだ現代短歌のありようを言いあてつづけている。

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それではまたよい歌を。