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恩人~創業期編~『会長』 (CEOブログVol,17)

腰をやった!!

※写真は創業当時の僕と赤ちゃんは今年15歳になる長男

実は先週、人生で初めて腰を強烈に痛めてしまい、立つことがままならないどころか、まともに座ってもいられないという悲惨な状況に陥ってしまいました。
仕方がなく、極力横になって安静にしなさいという先生の指示を守り何年ぶりかに寝たきりの生活。
ここ最近、精神的にも体力的にも相当に無理をしていたので、『これ以上は危険!休め!』ということなのかなと理解して布団に入っています。
とはいうものの、普段まるでマグロのように全力で泳ぎ続けている僕が急におとなしくするのも無理な話で、どうしてもソワソワ落ち着きません。
そこで、『あ、そうだ、久々にスマホでブログを書こう!』と思い立ち、メモに書き始めました。

設立15年を迎え、恩人を振り返る

創業当時から今まで本当に多くの人に支えられてここまでやってきました。僕には、『いつかきっと恩返しがしたい!』と思える『恩人』が沢山います。

今日は15年間という長い期間を生き延びて来れた最大の要因について書いていきたいと思います。一回ではとても書ききれないので何回かにわけて書いていきたいと思います。

創業期編

創業当時。業界からの強烈な嫌がらせとそれを鎮めてくれた恩人についてはもうあと10年後くらい寝かしてから語るとして、今回は創業期編として立ち上げ時に力を貸して下さった恩人を紹介していきます。社内ではちょいちょい共有しているのですが、備忘も含めあらためて書き記します。

会長との出会い

あの人はとにかくインパクトのある方でした。その出会いは今でもはっきり覚えています。
創業間もない2008年頃の話。

人に使われるのが嫌になり、完全に若気の至りで勢いよく創業したものの、速攻リーマンショック到来で販売価格が大幅下落し、早くもピンチをむかえていた頃でした。
当時はまだ従業員がいなかったので事務から現場まで全て夫婦ふたりでこなしていた頃です。その頃は早朝から床がきしむプレハブ事務所で事務作業をして、その後は現場に出て回収やら出荷の準備など、バリバリと力仕事をやってはまた夜遅くまで事務所で作業する。という繰り返しの日々でした。
まだ地元にも馴染めていない時期だったので、あとから聞いた話では、近所からは『何やら他所から来た若者がよくわからんことをやっている』とかなり怪しまれていたようでした。

ある日、いつもと変わらず現場作業をしていると会社の敷地に凄い勢いでトヨタクラウンの、確か、マジェスタだったかロイヤルサルーンだったか、とにかく高級車を乗り付け、ものすごく中途半端なところに駐車し、降りるや否や凄い剣幕で
『お前がここのオーナーか?ここは何してるところなんや!?』
と凄む初老の男性(多分当時70くらい?)のいかついおっちゃんがやってきました。
とにかく声が大きい(笑) これが会長との出会いでした。

その頃はいかついおっちゃんたちが黒塗りの車で突然会社の敷地内に入ってきて、ギリギリ脅迫にならないすれすれのラインを攻めてくるのが日常茶飯事だったので(この時点でどんな業界やねんと思いますよね、、、。)そういったたぐいには大分慣れてきていて、
『あー、また来たか〜』
と思いながらも至って丁寧に事業のこと、なぜここで創業したのか、などを説明しました。

だいたいこの手のやつは、
いかついおっちゃん:『お前どこが面倒見とるんじゃ〜?なんならわしが面倒みてやろうか?』
僕:『いや、結構です。』
的な意味不明なことを言われるのですが、そのおっちゃんはふんふんと話を聞いてくれて、
おっちゃん:『お兄ちゃん年は?』
僕:『23です。』
おっちゃん:『誰かサポートしてくれてる人がいて創業したのか?』
僕:『いえ、妻と二人で貯金使って始めました。』
おっちゃん:『ほう!凄いやないか。俺は近くで〇〇商事っていうリサイクルの会社の会長をやっとる。息子が社長やから仲良くするように言っとくから!じゃ、また来るわ!』
といって風のように去っていきました。『ん?気にいられた?』あまりのスピード感に一緒思考停止しましたが、まぁいいかと仕事を続けました。
それから、会長は月に1〜2回の頻度で突然やってきて、いつもとても中途半端なところに車を停めてほぼ一方的に大音量で喋り続け、お茶を飲んでサクッと帰る。というなんとも不思議な関係がはじまりました。

会長は凄い人だった!

出会ってから大分あとで知ったのですが、実は会長は地元では有名なリサイクル企業を一代で創業した方で、特に都市鉱山の世界においてはプロフェッショナルで全国からも一目置かれている方だったのです。

下手するとライバルにもなる可能性もある僕を何故か気に入ってくれて、創業したばかりだった僕に
会長:『おまえ、ここでやっていくには地元のつながりが必要や!商工会に入れ!息子が部長だから話つけとく!』
僕:『はい!わかりました!』
会長:『お前なぁ、リサイクルは化学(ばけがく)やぞ!こんなことくらい勉強せんでどうするんや!?』
僕:『は、はい!勉強します!』
とリサイクルの手法、特にケミカルリサイクルや精錬技術について詳しく教えてくれました。
当時、業界ならではの嫌がらせなど、この世界の洗練を受けてやや疲弊していた僕は、本当に親身になってくれる会長の話を聞くのが楽しくて楽しくて熱心にメモを取りながら少しでも吸収しようと努めました。
時には化学の話、時には経営の話、それ以外にもBSの見方や人の使い方などなど、本当にたくさんのことを教わったと思います。

会長の教え

当時の事業の状況は順風満帆とは程遠く、経営の『け』の字も知らずに創業した僕らは、『利益が出てるはずなのになんでこんなにお金がないんだろうか?』と、今振り返ると本当に恥ずかしいのですが、資金繰りという言葉を知らず、自転車操業で四苦八苦している状況でした。
その日も大学ノートを半分に折って左側が収入、右側が支出が書かれた超アナログな帳簿とにらめっこをしていると、いつものように風のように会長がやってきて、
会長:『な〜にをそんなに難しい顔しとるんや?』
僕:『いや実はですね、かくかくしかじかこんな状況なんです。』
と相談してみると、
会長:『あほ!おまえ資金繰りも知らんのか!借金は?』
僕:『小さいころから借金は悪だと教わったのでしてません!』
会長:『なんちゅうこっちゃ、この業界は仕入れがいるやろう!融資をうまく使わんと回らんのは当たり前や!教えてやる!』
と細かく資金繰り計画について教えてもらい、ほー、なるほど、そういうもんなんやなと関心して、会長の言われた通りに事業計画や資金繰り計画書を一生懸命慣れないパソコンで作成し、いざ地元の地銀さんを訪問。
すると、ご担当者は明らかに険しい表情で、時間をかけて作成した資料には殆ど目も通さず、
『んー、実績もまだありませんし、なかなかプロパーでの融資は難しいですね。どなたか連対保証人がいるなら別ですが…』
と、あっさり断られてしまったのです。

会長、キレる。

それから一週間後くらいに会長が来て、
会長:『どうや?だいぶ楽になったやろう?事業に集中できるようになったんちゃうか?』
僕:『いや、実はかくしかじか、断られました。』
と報告すると、みるみる会長の表情が変わり、しまいには顔を真っ赤にして憤激。
会長:『なに〜!ここに貸さずに何が銀行や!俺が話つけてやるから乗れ!』
と、お客様対応中だったことを完全に無視して、車に乗せられそのまま銀行へ直行!!着くなり、支店長呼んでこい!!と担当をすっ飛ばして支店長を呼び出しました。
ひやひやしながら待っていると、僕が行った時の窓口ではなく、立派な応接室に通され、そこからは会長のいつもの2倍増しの音量で相手に一切返答の余地を与えないマシンガントーク!
僕の代わりになぜこの事業にお金がいるのか、この会社の将来性はこうだ、など熱弁してくれたのでした。
会長:『こういう真っ直ぐに頑張っとる若者を支援するのが銀行の役目やろうが!連対保証人?どうしても必要っていうなら俺がなってやる!俺が保証するんや!どうや、貸すんか、貸さんのか!?』
と凄い勢いで説得(恐喝?)してくれたのでした。

支店長:『も、もちろん貸します!会長のお知り合いとは知りませんでした!!』
と、あっさりと融資を受けられ、『なるほど、これが大人の世界か』などと少し社会の裏側を見たような気がしつつ、初めての資金調達を終えたのでした。
それからというと、融資のおかげで自転車操業から脱出し、仕入れに集中することができ、1年もしないうちに軌道に乗りはじめました。

会長:『いいか、おまえ商売はな、真っ直ぐなだけじゃいかんのや。自分が体動かしてりゃ儲かるならそんなに楽なことはない。だけどそんなに世の中甘くないど!とにかく日々勉強や!経営の事、化学(ばけがく※会長はなぜかかがくとは言わない(笑))の事、銀行とのやりとり、人をうまく使う事、とにかく一生勉強や。会社は経営社の器以上には絶対大きくならん。つまりお前自身の成長が会社の成長とイコールやからな。わかったな!』
という会長からの言葉は今でも僕の心に刻み込まれています。

その後

それからすぐに会社は軌道に乗り始め、僕も営業で外に出る機会が増えたり会長も体調を崩され車に乗る機会が減ってしまったようで、お会いする機会がめっきり減ってしまいました。
約一年後に薩摩川内市から企業誘致を受け、現在の本社である大型の倉庫を買って創業の地である入来町を離れることになりました。
移転する際に会長にご挨拶に行ったところ、久々に会う会長は少し痩せてしまって、音量も少しだけ小さくなり、やや勢いが無くなっているように感じましたが、
会長:『おう!川野くん!頑張っとるみたいやな!俺は最近足が悪いんや!でも次はこうしてああして、こうするんや!まだまだうちも拡大するから川野くんに負けんように頑張るからな!お互い頑張らなあかんぞ!』
と、いつもの様子。
僕:『はい!おかげ様で移転が決まりました!これからもご指導のほどよろしくお願いします!』
と言うと会長はにっこり笑って激励して下さいました。
移転のお祝いにいただいた大きな鏡は今でも本社に飾ってあります。

恩人

今振り返ると会長は創業以来はじめて見方になってくれた方でした。
会長がいつも言われていた『リサイクルは化学(ばけがく)だ!その仕組みを知っておかないかん!お前らの代でどうにかせないかんのやぞ!!』という言葉は会長の力強い目力とともに今も僕の脳裏に焼きついています。

会長以外にもたくさんの恩人に支えられて今があります。少しずつ振り返り、紹介していこうと思いますが、そんな方が多すぎて、多分一生書ききれません(笑)
でもふとした瞬間に一人一人の顔を思い浮かべると、そんな皆さんがお元気なうちに絶対上場して恩返しがしたい。と強く思います。
この気持ちは世の中をもっともっと良くしたいという気持ちと同じくらい僕の活力になっていて、この力があるから15年続けてこれたのだと思います。苦しいこともたくさんあるけれど皆さんが背中を押してくれているような気がして、そのパワーはどんどん強くなっているので、もはや乗り越えられない壁はないと今では思っています。

感謝

15年という節目を迎え、あらためて今までご支援いただいたみなさんに心から感謝しています。おかげで僕らはどうにかここまで生き残って来れました。それどころか、創業当時では考えられなかった素晴らしい仲間に沢山出会うことができ、すごいスピードで成長しています。本当に皆様のおかげです。この場を借りて御礼申し上げます。

みなさま、本当にありがとうございました。今後もご指導ください!

今日は創業当時の恩人について書きました。ほかにも紹介したい人が沢山いるので、この療養期間に続けて書いていきたいと思います。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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