なぜ環境ベンチャー企業を創業したのか(Vol,8)
新年あけましておめでとうございます!
昨年は本当に沢山の出会いに恵まれ良い1年だったと思っています。
また、嬉しい別れ(ほぼ共同経営者だった取締役のナガヤンが市長選を勝ち抜き無事に日置市長に就任)もあり、創業から15年目を迎える当社にとって大きな転換期となりました。
そして今年、きっとまた新たな出会いが沢山あり、企業としても大きく成長する1年になるのではと思っています。みなさま、今年もどうぞよろしくお願いいたします!!
既に2~3月には色々な大企業とのアライアンスが決まっており、契約締結に向けてゴリゴリ進めているので近々良い報告ができると思います。
さて、ここ最近、提携先企業や投資家の皆様との面談や採用面接の際によく聞かれるのが創業の経緯やなぜこの業種を選んだかということ。
社内メンバーは何度も聞いていることだとは思いますが今日はあらためてそのあたりと書き記したいと思います。結構長くなると思うので何回かに分けて。
起業までの道のり
大阪の天王寺区という下町で生まれ、高校から東京へ。
中学の時に出会ったスケートボードにドはまりして、本当に寝る間も惜しんでスケボーに明け暮れた結果、全く勉強していなかった僕は、17歳から前職である中古品の輸出企業で働き始めます。そこで働くことになってきっかけもスケートボード。このあたりのエピソードを書き始めるとめちゃくちゃ長くなってしまうのでいつかまた書きたいと思います。とにかく、給与が高いという理由だけでバイトしていた会社にそのまま就職することになったのでした。
そのあたりをちょっとだけ詳しく書いたものがウォンテッドリーにあったので参考まで
4年間必死に働き、全国様々なところで働かせてもらいました。←とにかく人使いがあらく、独身組はあちこちへ飛ばされた(笑)
当時は鬼だと思っていたけど、丁稚奉公から始めた仕事が最後は最年少で中間管理職までやらせてもらえたし、今振り返ると全国はもちろん海外にまで行かせてもらい、本当に幅広い層の人に出会えたのは最高の経験だった思います。
ある日、会社がなくなった
!!!???って感じですよね。このあたりももうすぐ時効がくると思っているのでいつかブログで書きたいなと思っているのですが、、、(笑)
正確に言うと会社が倒産したわけではなく、某パチンコ系の企業に買収されてしまい、慕っていた社長や役員が追い出されてしまったという感じかな。
当時九州の会社に出向中だった僕は、全く知らない新経営陣から『帰ってこい』と言われたのですが、色々考えた結果『自分で起業して飯を食っていこう!』と決意したわけです。
実はこの時の心境はあまり覚えていないのですが、若すぎたからなのか、まだ守るものがなかったからなのか、不安は全くなかったと思います。
今考えると衝撃的な出来事だったのは間違いないのだけど、これも含めて良かったなと。
一つ一つの出来事が初めから決まっていた運命なんじゃないかとすら思っています。
何故鹿児島で起業したのか
実は福岡で起業したかったのですが、創業当時手元の貯金はわずか300万円。色々計算したけど、どうしても資金が足りなかった。
当時21歳だった僕は『創業資金を銀行から借りる』という選択肢は皆無。
寧ろ『借金は悪』というインプットをされて育っていたので頭に浮かびもしなかったんですよね。もしあの時もうちょっと知識があればここまで15年もかからなかったのにな、、、とも思いますが、預金通帳とにらめっこしながら少しずつビジネスボリュームを拡大させてきたサバイバル生活は確実に自分を成長?というか精神的にも肉体的にも強くしたかけがえのない経験であったと思います。(もう二度としたくないけど)
あ、ちなみに今は借金まみれです(笑) 金融機関の皆様にはいつもいつも本当にご支援いただいてます。
そんなことで、鹿児島で創業することを決意した直後、前職の営業時代に大変お世話になった取引先に退社と創業のご挨拶に行ったところ、仲の良かった事務員さんから、
『どこで始めるの??うち、倉庫余ってるけど使う??長年放置しているから現状のまま貸すことになると思うけど格安でいいよ。』
と、なんとも有難いお言葉を。(社長の娘さんだった)
何かに引き込まれるように殆ど直感で決断したのが薩摩川内市入来町という山の中の倉庫でした。
創業とほぼ同時に結婚し、その夏、長男が生まれたタイミングで会社のすぐそばの平屋(家賃2.5万円!会社と同じ大家さん)で新婚生活?がスタート。
肝心の倉庫はコンクリートの上に膝くらいまで草が生えていたし、屋根はボロボロ、水道も電気もあちこち壊れてて、初めの1~2週間の仕事は修理。事務所がなかったのでボロボロのプレハブを置いたら床が少し斜めになったり、電気工事を勝手にやってちょっと感電したり、水道工事も自分でやったらあちこち水漏れ⇐もちろん、免許持ってません(これも時効ということで、、、)
家もなかなかでしたね。
冬はとにかく寒くて。換気扇まわすと床の畳の間から冷たい風が吹き込んできたり、家の中なのに流しの水が凍ったり。
もっとキツかったのは夏。おもちゃみたいなムカデがしょっちゅう出るのは本当にしんどかった。。。風呂に入ったときに蛇口の裏側で何かがうごめいたあの風景は脳裏に焼き付き、今でもたまに夢に見ます(笑)
僕はまだしも、結婚早々に安定生活を捨て勝手に起業し、勝手に引っ越して慣れない土地で初めての子育てを頑張ってくれた奥さんには一生頭が上がりません、、、。
とにかく働きまくった!とにかく楽しかった!
創業してから3年半くらいはとにかく働きまくりました。完全な休日は年に3日もなかったと思います。会社から徒歩1分のところに自宅があったので、朝は暗いうちに出ていって、夜遅くに帰ってくる生活が当たり前でした。
自分で営業し、自分でトラックに乗り集荷も出荷もしたし、ありとあらゆる業務を二人でやっていました。
出荷の日の昼は決まってカレーを作ってアルバイトのメンバーもみんなで囲んで食べたり、毎朝散歩ついでに寄ってくれる近所のおじいちゃんと雑談したり、月に一回必ず遊びに来て仕事の邪魔(笑)をして帰るお客様と、心の通ったコミュニティーが心地よかったなぁ。
毎月月末が来るとお金のことを考え胃が痛くなってたし、日中は現場作業、夜にようやくデスクワークと、今考えると相当なハードワーク。
新婚旅行はもちろん、まともに家族で旅行なんて行けない。お金はないし、生活レベルはサラリーマンの時からすると明らかに下がったけど、、、、
自分が働けば働くだけ結果が出るし、本当に小さな一歩だったけど、確実に自分の行動がその一歩に繋がっていく実感は本当に楽しかったし、家族を満足に食べさせていく自信はついたし、『もっともっと大きくしてやる!』という希望に満ち溢れていたなを思います。
まだ22と21の若者を、ある意味親心のような感じでかわいがってくれて、とてもここに書ききれないほどお世話になった当時のみなさんを思い出すと感謝してもしきれません。
個人商店で始まった当社が、世界を変える大企業になり、地元の誇りのような存在になることでいつかきっと恩返しがしたいと思っています。
人さらい(笑)
さて、ここまで創業までの経緯を書いてきましたが、次回は個人商店から始まった当社がどのように会社に、『環境ベンチャー企業』になっていったのかを書きたいと思います。
ふらっと遊びに来ただけの高校の時の悪友春風君(現事業本部長)がいつの間にか当社で働くことになった戦略的人さらい(言い方わるい)あたりから書きたいと思います。
ではまた!今年はブログも頑張って書いていきます!