起業家と信仰
現代は、悲観的で疑り深い人間が賢く見える時代だ。
そんな時代では、無遠慮に明るい未来を信じる楽観的な人間は、愚かに見られる。
私は特定の宗教をもっていないが、よく宗教を信じている人々を羨ましく思うことがある。
とくに世俗的な現代日本では、その信仰を試されることが昔よりいっそう多いことだろう。
彼らは、どのようにしてその信仰を保っているのだろうか?
私は、私の未来を信じたい。
いや、信じなければ、私は潰れてしまう。
「2年も続けてユーザー数が7000人程度なら、そのプロダクトは見込みがない」という指摘は、きっと合理的なものなのだろう。
そうした合理的な指摘に反して、なおも明るい未来を信じ、コードを書き続ける私は、きっと不合理な愚か者に見えるのだろう。
「金にもならないのに、なぜこんなことを続けているのか?」と人に問われたとき、私は客観性や経済合理性を語り、見せかけの賢さを示すこともできる。
しかし実のところ、私を心の底から突き動かす衝動は、そうした客観的な賢さとはほど遠いものだ。
私が目指している未来で、私が生きたいと、私が切望しているからだ。
その道程を、私が楽しんでいるからだ。
私が、私の作品のユーザーだからだ。
すべては主観であり、そこには他者を納得させられる客観性は存在しない。
いくら突き詰めて考えてみても、その果てには、神と同じくトートロジーでしか語れないモノしか残らない。
すなわち、やりたいから、やるのだ。
イエス・キリストは、「異邦人は証を求める」と言った。
「信仰」とそれ以外の価値観の違いは、「だから」信じるのか、「それでも」信じるのか、にある。
私は、「それでも」、私の未来を信じる。
だから私は、現代において宗教を信じている人々と、そう変わりはしないのだろう。
いや、すべての起業家は、証を求める異邦人に常に疑われながらも、「それでも未来を信じる」という態度において、宗教家となんら変わりはない。
私たちが、不断の努力によって世間に証を示したとき、はじめて異邦人は、私たちを「賢い」と評するだろう。
しかし、騙されてはいけない。
そんなものは、後知恵バイアスにすぎない。
彼らは、あなたではなく、自分を賢く見せるために、「あたかも自分はこうなることがわかっていたかのように」、自己演出しているだけだ。
証を示せなければ、あなたは彼らの自己演出のために、同じ口で「愚かだ」と評される。
だからあなたは、異邦人の評するように、証によって自分の賢さを信じてはならない。
私たち起業家は、「証に先立つ信仰をもつ」という点において、いつまでも宗教家と同じくらい愚かなままだ。
そしてもし、私たちが成功を収めるとしたら、それは異邦人の評する賢さによってではなく、彼らの評する「愚かさ」によってなのだ。
Stay foolish.
世界が手のひらを返すそのときまで、私たちは、愚かにも、私たちの未来を信じ抜こう。
あなたの貴重なお時間をいただき、ありがとうございました!