青汁よりもステーキを売ることにしました。
この世界は、因果関係ではなく相関関係が支配的であって、シンプルな物語の世界ではなく、カオスな確率の世界だ。
だから僕は、基本的に後知恵のシンプルな理論を信じてはいないし、信じるべきではないと思っている。
しかし、それでも失敗からの学びとして、失敗した理由の仮説を立てておくのは重要だろう。
その反省は間違っているかもしれないが、将来その反省が間違っていたと知るためにも、反省のプロトタイプは用意しておく必要がある。
本のクイズ投稿サービスが失敗した今、その要因をいくつか思いついたので、この先自分が同じ轍を踏まないためにもここに記録しておこうと思う。
これからCtoCサービスを開発しようという人にも参考になるはずだ。
(あくまで、参考にとどめておいて欲しいが)
1,「テスト効果は知られていない」
「本を再読するよりも、本のテスト(クイズ)を解いたほうがはるかに学習効果が高い」という信頼できる科学的な事実は、驚くほど人々に知られていない。
日本の最高学府である東京大学の学生でさえ、テスト自体がもつ学習効果を知っている人は誰一人いなかった。
心理学は、テストやクイズを解くこと自体が、記憶を定着させ、理解力を向上させることを実証している。
しかし、依然としてほとんどの人にとってテストやクイズは、今の学力を測るための「試験」であるとしか思われていなかった。
実際のところは、むしろ「学力を向上させるツール」であるにも関わらず・・・。
本のクイズ投稿アプリの利用者側のもっとも大きなメリットは、この「テスト効果」による「本の内容の記憶定着」と「理解度の向上」である。
だとしたら、「テスト効果が知られていないこと」は、それ自体が利用者を狭めるデメリットとなるのは明らかだ。
もちろん、「テスト効果が知られていないこと」は、秘密を知っているのが自分達だけということで、「競合が存在しない」というメリットも得られる。
しかし、科学的事実の認知的普及には時間がかかる。
未だに血液型占いを信じている人が多いところを見れば、そのスピードに楽観はできない。
人がお金を払うのは、自分が知っているものに対してだけだ。
だから21世紀にあっても、たとえなんら現実的な価値を提供できないとしても、占いで生計を立てる人が存在できる。
彼らは、何1つ物理的な問題を解決しないが、相手の心理的な問題を解決することができる。
そして、結局人がお金を払うのは、物理的な問題の解決よりもむしろ、自身の心理的な問題の解決に対してなのである。
本のクイズ投稿アプリは「本の内容をしっかりと記憶に定着させる」という現実的な問題を解決するかもしれない。
しかし、人が重視するのは、現実的な問題の解決ではなく、自分の心理的な問題の解決なのだ。
心理は現実に勝る。
難解で親しみにくい科学的事実よりも、簡単で親しみやすいフェイクニュースのほうがよく広まる。
アメリカの大統領は、クリントンではなく、トランプだ。
本のクイズ投稿アプリは、クリントンだった。
トランプになろうとまでは言わないが、アプローチは変えていく必要がある。
最初の反省は、「まずは、正しいものより、知られているものを売る」だ。
2,「反直感的」
テスト効果は、反直感的な事実だ。
ほとんどの人々は、本の内容を問うテストを解くよりも、本を読み返すほうが学習効率が良いと考えている。
アメリカで行われたある調査では、大学生の8割以上がテキストを何度も読み返す勉強法を行なっていることが明らかになった。
世間でもっとも浸透している本の学習法は、本の再読なのだ。
しかし科学的に言えば、本の再読は3つの理由から効率が悪い学習法だ。
1つ目は、時間がかかること。
2つ目は、永続する記憶にならないこと。
3つ目は、読み慣れることで認知容易性の錯覚を起こし、その本の内容まで理解したと錯覚してしまうことだ。
厄介なのは、この3つ目の問題だ。
本の再読が広く受け入れられているのは、それが直感的には効率的な学習法だと思われるだけでなく、心地よさまで伴うからだ。
脳は、なんども読んだ文章に親しみやすさを感じる。
そしてこの親しみやすさは、その文章について自分の理解度を過大評価させるとともに、心地よさを与える。
驚くべきことに、脳は親しみやすい文章に触れると、無意識のうちに微笑みをつくる筋肉を動かすことまでする。
直感によるバイアス(錯覚)が、本の再読を好ませるのだ。
一方で、テスト効果は、反直感的だ。
テストやクイズを解くとき、私たちは認知的な負荷を感じる。
直感に頼ることができず、自分の記憶の中から集中して問題の解答を思い出さなくてはならないからだ。
この認知的負荷は、学習の心理学の権威「ロバート・ビョーク」に「望ましい困難」と呼ばれている。
クイズを解くことで本の内容を自分の頭から思い出そうとすることは、本をただ読み返すよりも難しい。
私たちは、この難しさを「学習の停滞」と考えがちだが、直感に反して、この難しさこそが、学習効率を上げるのだ。
しかし、「直感に反する」というのは、多くの人にとって「真実ではない」のと同じ意味である。
多くの人は、問題を解くために頭を抱えている時間を、「学習」ではなく「停滞」だと考えているし、できることなら悩む時間を減らしたいと思っている。
そんな世界観の中で、人々に本のクイズ投稿アプリを「本の学習ツール」として利用してもらうのは難しいのだ。
多くの学習ツールやスクールが「楽」や「簡単」を売り物にしているのも、きっとこういう理由からだろう。
人間は、反直感的な真実よりも、直感的な錯覚にお金を払う。
第二の反省は、「直感的に理解できるものを売る」だ。
3,「最初のコミットのハードルが高い」
クイズを解くのは大変だが、クイズを投稿することもまた、大変だ。
本のクイズをつくることは、本の内容をただメモするよりも「頭を使う」。
本のクイズをつくるとき、私たちは無意識に「この本の内容の肝心な部分はどこか?」を常に考えることになる。
この問いは、本を「理解したつもり」になっている人には答えられない。
きちんと理解した人だけが、本の要点を掴み、そしてその要点をクイズにして問うことができるのだ。
だから、本のクイズをつくることは、それ自体が本の内容を理解する学習となり、本の内容を要約をする作業となる。
僕はこれをクイズ投稿アプリのクイズ投稿者側のメリットだと考えていたが、1つ大きな問題を見落としていた。
シンプルに「本のクイズをつくるのは大変だ」ということだ。
なるほど、確かに本のクイズをつくることは良い学習になるかもしれない。
しかし、ほとんどの人は本のクイズをつくった経験なんてないし、作り方だってわからない。
CtoC(SNSのようにユーザー同士がコンテンツを提供し合うサービス)は、「いかにユーザーに主体的に参加してもらうか」が肝となる。
従来のユーザーにとって、「クイズを投稿してもらう」というのは親しみのない習慣であり、それだけがアプリに対する主体的な参加方法なのだとしたら、そのハードルはあまりに高すぎる。
きっと、アプリがユーザーに求めるべき最初のコミットメント(主体的参加)は、できるだけハードルを低くしたほうがいいのだろう。
現代では普及した習慣である自動車でさえ、黎明期にはわざわざ木材を使って馬車に外観を似せ、「馬なし馬車」と喧伝していた。
ユーザーにこちらの新しい習慣を受け入れてもらうためには、ユーザー自身に最初の一歩を踏み出してもらわなければならない。
そしてその最初の一歩は、こちらの習慣をただ押し付けるのではなく、ユーザーがすでにもつ習慣のアナロジーで理解できるコミットメントでなくてはならない。
そして「クイズを投稿する」というコミットメントは、そうではなかった。
3つ目の反省は、「ユーザーが気軽にアプリに参加できるように、相手がすぐに理解できる簡単な最初の一歩を用意する」だ。
4,「第三者にわからないコンテンツ」
CtoCには、3人のプレイヤーがいる。
コンテンツを投稿するユーザー。
投稿されたコンテンツに参加するユーザー。
両者を脇から眺めるユーザーだ。
結論からいうと、本のクイズ投稿サービスは、この3人目のユーザーの楽しみがなかったと言える。
本のクイズを投稿するユーザーは、すでにその本を読んだユーザーだ。
投稿されたクイズを解くユーザーもまた、すでにその本を読んだユーザーだ。
しかし、それ以外のユーザー、つまりクイズの元となった本を読んでいないユーザーにとっては、タイムラインに流れてくるクイズは、答えの知ることのできないクイズでしかないので、得られるものが何もない。
その本を読んでいない人にとっては、その本のクイズは雑音にしかならない。
しかし、アプリの利用者を増やすという点から考えれば、この第三者の視点もよく考えたほうがいいのだろう。
参加者だけでなく、観衆が楽しめるようでなくては、CtoCとして継続的な成長は望めない。
ユーザーは、参加者である時間よりも、観衆である時間の方が長いのだから。
4つ目の反省は、「参加者だけでなく、観衆も楽しませる」だ。
「青汁よりもステーキを売る」
ここまでの反省をまとめると、以下になる。
1,「正しいものより、知られているものを売る」
現実的な問題の解決よりも、相手の心理的な問題の解決にフォーカスする。
2,「直感的に理解できるものを売る」
直感的に理解できないのであれば、それを相手に受け入れさせるのは難しい。
3,「ユーザーが気軽にアプリに参加できるように、相手がすぐに理解できる簡単な最初の一歩を用意する」
CtoCは、ユーザーの参加こそ全てだ。だから「馬なし馬車」のように、革新的なものこそ、革新的でないように見せて、相手にノってもらわなくてはならない。
4,「参加者だけでなく、観衆も楽しませる」
ユーザーは、参加者である時間よりも、観衆である時間の方が長い。
ここまでの反省は、タイトルにもある「青汁よりもステーキを売る」という言葉にまとめると覚えやすい。
1,青汁の栄養価は高いかもしれないが、人は青汁よりも美味でよく知られたステーキを好む。
2,直感的には、青汁の緑色よりも、ステーキの赤みのほうが「健康的に見える」。
3,青汁を飲むのは親しみのない習慣だが、ステーキは親しみのある食事習慣で食せる。
4,青汁をはたから見ても面白くはないが、ステーキのシズルは観衆も楽しめる。
結局、人が求めるのは、青汁よりもステーキだ。
そして本のクイズ投稿アプリは、典型的な青汁だった。
だから僕は、このまま青汁で正しさを振りかざして突き進むより、少し方向を転換(ピボット)して、ステーキを売ってみようと思う。
そのステーキが、「実況型書評サービス(Live reviewing service)」だ。
本の実況型書評サービス
「実況型書評サービス」は、本のクイズ投稿アプリから得た4つの教訓から生まれている。
1,「正しいものより、知られているものを売る」
まず1つ目に、「本の書評アプリ」はすでにいくつかサービスが存在し、よく知られたアプリであるため、「本のクイズ投稿アプリ」のようにわざわざその内容を一から説明する必要がない。
説明すべきことは「既存の書評アプリとの違い」だけでいい。
2,「直感的に理解できるものを売る」
2つ目に、書評(ノート)はクイズよりも学習効果が直感的である。
授業の内容のクイズを作る学生はほとんどいないが、授業の内容のノートを取る学生は、ほとんどだ。
それは認知容易性の錯覚によって、直感がノートの学習効果を高く見積もっているからだ。
ノートやメモは、直感が味方してくれているのである。
3,「ユーザーが気軽にアプリに参加できるように、相手がすぐに理解できる簡単な最初の一歩を用意する」
クイズ投稿サービスのときには、ユーザーにクイズのタイトルをつけることを求め、1タイトルに9つまでクイズが作れることをアピールしていた。
だが、本の実況型書評サービスでは、タイトルを不要にし、ユーザーに提示する入力フォームは、「書評」と「実況ページ」の2つのみに絞った。
また、本のクイズを作るのは難しいが、本のページに対して感想をつぶやく程度なら、Twitterのように気軽にできる。
クイズよりも、かなり投稿のハードルは下がったはずだ。
4,「参加者だけでなく、観衆も楽しませる」
本のクイズは、その本を読んだことのない人が読んでも意味がわからないが、書評なら、誰が読んでも楽しめるものになるはずだ。
もちろん、これらは仮説であって、まだ検証されているわけではない。
しかし、改善の前に仮説を立てておけば、自分の中のどの考えが間違っていたのか、これからよくわかるだろう。
あなたの貴重なお時間をいただき、ありがとうございました!