「挨拶をしない自由」への正しい反論の仕方
こんにちは。最近、「挨拶をしない自由」を主張する若者が増えているように感じます。具体的には、「挨拶自体に必要がないものなら挨拶しなくていい」という内容。確かに、挨拶自体が無価値なら、それをわざわざ人に強制するのは間違っているように感じる。
そういう人へ対して
「ならそういう人を無視する自由もあるよな
「関わらない自由、発動させていただきます」
みたいな反論する人がいるのですが、その反論の仕方は根本的に間違っています。
挨拶自体が必要のないものだと仮定すると、それを省く人を嫌うのは個人の感情だから良いとしても、仕事に影響がでるように目に見えて嫌がらせをしたりするのは普通におかしいです。必要のあるものをやらない人を迫害するのはわかるけど、そもそも必要がないなら、その権利を主張するのはおかしい。
もっとも、そういう人を「嫌う」のは良いと思う。個人の感情は流石に自由だと私も認めてもらいたい。だが、仕事に影響が出たり、直接人を傷つけたりするのは確実に間違っている。後者が許されないのは自明だが、前者はどうだろうか。
結論はクソ簡単で小学生でも分かることなんだが、相手が自由を行使するなら自分も自由を行使して良いというのが何でもかんでも認められるわけないだろ。正当性が認められているケースにのみ迫害は許されると私は思う。例えば、犯罪者に対する刑罰や、契約違反をしたから契約解除します、といったごくごく正当なもの。
おそらく、挨拶自体の有意義性を聞いても、「すると気持ちいいから!」等の質問の意味をまるで理解していない回答しか返ってこないだろう。以上説明した通り、あの反論は正当性を伴わない迫害を肯定しているため、反論として間違っているということになる。
「挨拶に価値はないかもしれないけど、挨拶する人には価値がある」
さらにこんな反論をしてくる輩もたまにいるが、これも主張に対する反論としては、それは最近のトレンドではない。
正直言ってこの文だけならめちゃくちゃ妥当性がある。挨拶するやつの方が人間性も優れてるだろうし、仕事もできるだろう。ここに相関性はめちゃくちゃある。挨拶の価値によらず、相手を迫害することには一定の価値は確かにあるようだ。
しかし、挨拶自体の価値が証明されていない現状、挨拶する周りに価値があるからといって挨拶自体は肯定されない。実利はあっても、行為としては「正しくない」のだ。まあ実利があることが「正しい」と認めてしまえばそれまでだ。しかしそれは最近のトレンドではないだろう。
たとえば、家事育児は女性に一任、仕事は男性に一任といったシステムの方が経済は成長するだろうが、これは「正しくない」から正されようとしているのだ。逆に、大学の女性枠は、「正しくない」が、女性がいる方が経済的に良い、実利があるからその枠が設定されたのだろう。だが、これは至る所で批判されている。
やはり、「正しく」あることが今のトレンドなのだ。
実利を重んじることが正しいか正しくないかは人の感じ方によると思うが、挨拶だけ今のトレンドである「正しさ」から目を背けるのはいかがなものか。
また、これは差別の肯定にもつながる。
差別の定義として、「本来その差が関係ない場面でその差を理由に分けられること」的な話を聞くのだが、実はそんなケースはほとんどない。面接で見た目がいい人間が採られるのはその方が実利があるからで、医学部試験で女性は減点があったのもその方が実利があるからである。実利があるから差別は存在するのだ。
上記に述べたような「差別」を自分は肯定しているのだと自覚した上で、挨拶しないやつを迫害したいやつはすれば良い。
最後に、反論の好例を挙げて終わるとする。
①挨拶自体の有意義性を証明する
基本挨拶は、して嬉しいされて嬉しい、が基本なので、感情に行き着いてしまう。それでは絶対的な証明はできないので、顔を覚えてもらえる等の感情に寄らない価値を提示する必要がある。
難易度高
②「正当性のない迫害を私は肯定しています」と自覚して開き直る
動物のように感情を捨てきれないが、理性ある人間らしくそこをきちんと認めているところが私は好きです。
難易度低
「私は実利を重んじる差別主義者で、挨拶をしないやつは無能とみなして、一緒に仕事をしません。また、挨拶自体の有意義性を証明できていないため正当性がないことも自覚した上で、挨拶しないやつが気に食わないので仕事を回しません。」
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こういうやつ男らしくてすこ