見出し画像

ぶれない立ち位置がある(#11 地元)

旅をしていたときに最も心打たれたことの一つは、どこもかしこもが誰かの地元であるという、口にしてみては間抜けな響きすら放ちかねない当然の事実だった。

大学もそろそろ卒業が迫っていた冬、北海道の函館に3か月ほど滞在していた。地元という概念をつかんだのはその間だった。大げさな物言いかもしれないが、それは青天の霹靂とでも呼ぶべき代物だったようにも思う。

函館市のなかでも最南端部、函館駅から砂州で繋がる函館山の麓の旧市街で生活した。観光名所も点在するエリアなので訪れたことがある人もいるかもしれない。まるで別の時代、別の国に入ったかの如く、駅前の街並みとは雰囲気が異なっていた。鎖国を解いた日本がまず最初に開いた港のひとつが「箱館」港で、いまもなお山の斜面に沿ってかつての外人居留地を偲ばせる和洋折衷式の邸宅が立ち並んでいる。そして砂州との接点を除く山の三面は寒々とした海に放り出されている。

砂州のあちらもこちらも同じ函館には違いないが、旧市街に住む人たちはどうやら自らで完結した別の所属意識を共有しているように見えた。それは表現の仕方に応じて、誇りとも、狭窄とも取れるものだったが、いずれにしても、ぶれない立ち位置がある、しかもそれがフィジカルなものとしてあるということは素敵なことに思えた。

エドワード・レルフという地理学者の著書に『場所の現象学』という本がある(日本ではちくま学芸文庫から刊行されている)。原題は「Place and Placelessness」という。この本のことを知ったのはちょうど函館における知人が引用していたからだったが、当時、placelessness という語は、寂莫とした三拍子を刻んで、私の内側に印象的に響いたものだ。その音はいまではややくぐもった響きに変わってきた気がする。