百合について
今一度百合について真剣に考えてみよう。
それは皆が想像する、ただの女性同士の恋愛というものではない。
百合とは、中二病の一種だと私は考える。
いわゆる思春期において自身を肯定していくためのプロセスなのだ。
同性に恋心を抱いてしまうことは誰にでもあることではないが、想像力を拡張できる人であればその心境に自分を重ね合わせることはできるだろう。
これは男女問わずである。
そして、重ね合わせた時に発生するカタルシスこそが自己愛への倒錯である。
想像力の拡張と自己愛、これこそが思春期であり、中二病なのだ。
では、なぜ女性同士なのか。
それは、女性に耽美的な価値が付与されやすいからである。
ただ、最近では美少年という人物像も一般的になったため必ずしも女性に限ったことではない。
しかし、女性という丸みを帯びた美しさや可愛らしさ、そして奥底に秘める生々しさにエロスとタナトスが存在していることが百合の醍醐味なのだろう。
女性が女性に恋をする、その過程を私たちは耽美的だと想像し、報われない絆に悲哀を覚える。
ただ、女性同士の恋愛でドキドキしているだけでないことがお分かりだろうか。
現実はというと、レズビアンやゲイである人たちは彼ら・彼女らのコミュニティを形成しカップルを成立させたり、性的な満足感を達成したりする。
今となっては一般化(一部合法化)した同性婚も彼ら・彼女らの現実的な生活を後押ししている。
そう、今となってはだ。
『ボーイズ・ドント・クライ』という映画がある。これは実際に起きた事件をもとにした映画だ。
舞台は1993年、アメリカのネブラスカ州。レズビアンの女性が男装し、女性であることを隠してとあるコミュニティに入る。そこで一人の女性に恋をするのだが、後に自分が女性だとバレてしまい、男からの性的虐待を受け、最終的には殺されてしまうという壮絶悲惨な事実である。
この映画から分かるように、そもそも百合と現実とはかけ離れている。
もちろん、日本とアメリカという文化的な違いはあるが、現実に認知されている同性愛と百合とは信じ難いくらい乖離しているのだ。
我々が愛する百合は、いつまでも想像の中であることを理解しなければならない。
そして、百合という美しき文化が我々の自己愛を醸し、いつか他人を愛することができるように現実へと目を向けなければならない。
その最たる百合作品が『ユリ熊嵐』だ。
果てしなく純粋な自己犠牲、そこに性別や種別を超えた愛が灯される。
同性愛はいまだに嫌悪感を覚える人が一定数いる。
それも致し方ないことではあるが、愛にボーダーなどないことくらい百合好きの方なら理解できるだろう。
いつまでも想像の世界にいることは簡単だ。
中二病のままでいることは楽だ。
しかし、本当にそのままでいいのだろうか。
あなたは、あなたの美しさをどうしたい?