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【学校教育#6】今の公立学校はまるで日本車のようだ

最近は少年野球の記事ばかりを書いていましたが、今日は久しぶりに学校教育について書きます。
だいぶ前になりますが、気になるnote記事を見つけ、その内容について自分が以前から思っていたことと重なる部分があったため、今回は少しそのことについて書いていきたいと思います。

廣田由佳さんのnote記事から

廣田さんは、” 一人一人違って当たり前、その当たり前が受け入れられる社会・家庭・教育現場になれるよう、日々試行錯誤・奮闘中”(プロフィールより)のお母さんです。
過去の投稿を読んでみると海外の学校やオルタナティブ教育にもご関心があられるとのこと。

「先生によって言っていることが違うということをよく聞くので、子供が困っている。きちんと統一して下さい。」

これが具体的にどんな内容なのかが書かれていないので、それが子供が学校生活に困るほどの事なのかどうかまではわかりませんでした。

学校の回答としては、

「学年だよりをベースに学校で統一はしているが、それが正しく伝えられているか、改めて先生間で確認します。」

ということでした。

私の想像ですが、学年だよりレベルの決めごとで先生間での情報伝達に差異は出ないはずです。

そうなると、

「日々の授業や生活態度に対して、先生一人一人違う見解を持っている(違う指導をしている)。」

ということが推測できます。

仮にそうだとして、

それの、何がいけないのでしょうか?

廣田由佳さんのnote記事より

いやー、めちゃくちゃ刺さりました!
そして自分が常々思っていたことを代弁してくださって心がスッキリしました。
廣田さん、本当にありがとうございます。
アウトプットが遅くなって大変申し訳ありません。

公立の学校教育と少し前?の日本車

この記事を読んでいると、僕が教員時代によく同僚に語っていた話を思い出しました。
どんな話かというと(概要)

最近の学校は、日本車と同じなんよ。
「燃費を良くして」「室内を広くして」「内装のデザインに高級感がほしい」それでいて「価格は抑えて」とそれぞれが自分の立場から好きなように要望する。
そして、一つひとつの要望を少しずつすべて取り入れた結果、ユーザーから「個性がない」とそっぽを向かれてしまう。
しかも最悪なのは、それを叶えるために鉄板を薄くしてしまうという…。
一番大事なのは人を安全に運ぶことでしょうよって。

「教員時代のかわこうの話」より

いかがでしょうか?
うまく例えられてますかね(笑)
あの、僕は決して日本車をディスっているわけではありません。
日本車は世界一優秀な車だと思っています!

僕が伝えたいのは「すべての声を取り入れようとしすぎ」だということです。
さっきの日本車の例で言うと「高級感」と「低価格」は相反するものですよね。
それを無理やり共存させようとするから、皮に見せたようなよくわからないプラスチッキーな内装になるわけです。

公立学校ももっと尖っていい

しかし、そういう過去の反省を受けてか、最近の日本車には少し攻めたようなデザイン、特長をもった個性的な車が表れてきたように思います。
はじめからターゲットを絞りにきているような・・。

僕は、公立学校でもそれをやっていいのではないかと思います。
「いやいや公立は基本、学区制だし、住んでいるところで学校が決まっているから難しいでしょ。実際いろんな考えをもった人がそこに住んでいるわけだし」
とおっしゃる方もいるかもしれませんが、それならその学区制を廃止すればいいと思います。
自治体によっては学区制を廃止しているところもあります。

保育園や幼稚園のように、小中学校もそれぞれの教育方針と個性をもち、家庭でどこに通うか選べるようにする。
今の公立学校のようなトラディッショナルな教育をする学校があってももちろんいいと思うんです。
そして通える範囲に別の方向性をもっったオルタナティブな学校も存在する。
親や子どもは自分たちに合った学校に通えばいい。

そのためには何が足りないか。
そうです。
「学校」が圧倒的に足りない。
別に広い敷地なんてなくてもいいんです。
それこそ家みたいなところでも。

はい、またここでハードルが。
日本では文科省の認可をうけた「学校」を作ろうとすれば、それはそれはめちゃくちゃ大変です。
間違いなく、家みたいなところでは認可はおりません。

かたやオランダでは比較的かんたんに学校が建てられるそうです。
もちろん国の認可を受けた学校が。

日本もそうなればいいですね。


本日もお付き合いいただき、ありがとうございました。
学校教育の話も書き出せば止まりませんね(笑)
コメントもくださったらうれしいです!
それではまた。



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