95.湿気る
Xさんは就職と同時に家を出て、一人暮らしを始めた。
大学の卒論が終わってから急に思い立ったため、探し始めたのは一月末。賃貸市場は激戦のさなかである。
「今時は受験生が予め仮押さえしちゃうんですね。全然知らなくてだいぶ苦労しました。ああでもないこうでもないとあちこち探してたら、だんだん面倒臭くなってきちゃって。エイヤ!である路線のある駅に的絞って、駅前の不動産屋に紹介された三件のうちの一つに決めたんです」
駅から徒歩十七分とやや遠いものの、小奇麗な住宅街の中にある新築の三階建てアパート三階、すぐ隣にコンビニエンスストアや薬局もある。
「よくあるワンルームですが角部屋で、バストイレが別、部屋ごとに駐輪・駐車の無料スペースあり。他と比べてかなり割安だと思いました」
春先に引っ越しを済ませ、最低限の家具や道具を揃えて新社会人となったXさん、なかなか忙しかったがすぐに慣れた。自由気ままな一人暮らしを満喫していたが。
「梅雨に入って雨の日が続き出してから、やたら部屋が湿気るようになって」
まずクローゼットに吊るしておいた冬のコートがカビた。
「湿気とり置いてたんですけど、あっという間に水が溜まるんですよ。二日ともたない。幸いコートはすぐクリーニング出したら綺麗にしてもらえたけど、とにかく洗濯物は乾かないしフローリングの床もベッドのシーツもずっとシトーっとしてる。母親に愚痴ったら
『新築だからじゃない?1、2年は湿気が出るみたいよ』
って。そういや不動産屋も事前説明でそんなこと言ってたなーって……完全に忘れてました」
仕方なくクローゼットの扉は常に開け放つことにして、新たに除湿乾燥器を買った。
「これが結構優れもので、室内干しの洗濯物も乾く乾く。大活躍でした。朝タップタプに溜まった水捨てるのもけっこう快感になったりするくらい」
梅雨が明け夏になり、エアコンをかけるようになって室内の湿気がマシになった頃、高校時代の同級生Yが泊まりに来た。
「土曜の夜に最寄りの駅で待ち合わせして、途中コンビニに寄りつつアパートに向かったんですが」
自転車を駐輪場に停める間、部屋の前まで先に行ってくれと言いおいたのに、Yはそのまま待っていた。
「まあ知らない所に一人で入っていくの気が引けたのかなって、その時は特に気にしませんでした」
部屋に入り、買ってきた飲み物やお菓子を広げたところで、Yが言った。
「ねえ、なんでクローゼット開けっ放しなの?」
ああごめん、新築なもんだから湿気がすごくてと答えると、Yは
「そう……なんだ。どおりで」
と言って黙った。
「どおりでって何。気になるじゃん、続き言ってよ」
昔からの親友同士である。Xさんが問い詰めるとYはあっさり答えた。
「なんかね、この部屋……水っぽいなって思ったの」
「水っぽい?湿っぽいどころか水なの?」
「うん。この部屋ひとつだけじゃなく、たぶん建物全部」
「ええ?!」
「ここ最上階で日当たりもよさそうだからそんなでもないけど、一番下は水に浸かってる……みたいに感じる。X、一階って人住んでる?誰もいないんじゃない?」
「知らない……引っ越しの挨拶も隣と、二階の真下の部屋だけだし」
二人で窓から下を覗き込んでみると、二階はいくつか灯りのついている部屋があったが、一階はどこも真っ暗でベランダも物がなかった。
「うわマジか……」
頭を抱えるXさんに、Yはさらに畳みかけた。
「三階でここまで湿気るんなら、一階は凄いだろうね。新築だからってだけじゃない気がする。他に原因がありそう。それが何かはわからないけど」
「えっ、オカルト系の話?」
「いや、そういうのじゃないと思う」
ごめん変なこと言って、とYはそれきり帰るまでずっとその話はしなかった。
「あの後、会社で所属してた部署が他の場所に移ることになって、結局引っ越しました。冬になる前に」
気温が落ちてくると今度は結露に悩まされ始めたので、渡りに船だった。
「暖房も入れてないのに窓どころか天井や壁も水滴がビッシリつきましたからね。それこそ水に浸かってるみたいでした」
幸い、次の住居は築年こそ経っていたが日当たりも風通しもよく、結婚するまでの五年間快適に暮らした。
「結婚して新居に移ってからあのアパートのことは殆ど忘れかけてましたが、数年前、たまたまあの近くを通ることがあったんです。夫の同僚の家に招かれて駅から歩いてたら、アレ?この辺ってもしかしてってなって」
アパートはなくなっていた。
「コイン式の駐車場になってたんですよ。隣のコンビニと薬局はまだそのままだったんで、かろうじて思い出しました」
Xさんはまた奇妙なことに気がついた。駐車場の奥、ちょうどアパートの建物があった辺りに、逆U字の太いパイプがポツンとある。まるで地面から生えているかのように。
「夫が建築関係の仕事だから何アレ?って聞いたら、『息抜き』じゃないかって。井戸を埋めるときにああするんだって言うんですよ。井戸に溜まったガスや湿気を逃すのと、井戸に宿る神様が外に出られるようにするって意味もあると」
Xさんが住んでいたころにその『息抜き』はあったのだろうか。
「半年ほどしか住んでいないから断言は出来ませんが、それらしいものはなかったと思います。夫曰く、いい加減な業者だとただ埋めるだけってこともあって、そういった場所はだいたい何らかのトラブルに見舞われるって……Yが言ってたのはこれか!って十年越しで腑に落ちました」
今年に入ってから何度か通りがかったが、コイン駐車場には常にたくさんの車が停まっていて、そこそこ繁盛しているようだったという。