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感想文『神様の暇つぶし』

本題に入る前に余談になってしまうが、私はこの本を電子で読んだ。昔は電子書籍に抵抗感があったが、利便性という点では圧倒的に良く、何よりも持ち運びに軽いので、今ではよく利用する。紙の魅力もよく分かっているので、紙で欲しい本は紙で買うが、『ハンチバック』を読んで以降、なんとなくの理由で電子書籍を避けることは、何か傲慢なことであるように思うので、電子と紙の両輪でいる。
電子書籍は、表紙を見る機会が圧倒的に少ない。紙の場合、読まない間は表紙、または裏表紙にして、机かベッドの脇にでも置いてある。栞の挟んである箇所を開くまでに、1度は必ず表紙を見る。よって、タイトルが何度も何度も、繰り返し目に焼き付けられる。
一方で電子は、とくにKindle等の電子書籍専用の媒体を使用している場合には、表紙を見る機会が圧倒的に減る。その媒体の中で平行読みをしていれば別だが、起動すればすぐに文字が目に入る状態になるというわけで、つまり何がいいたいかというと、読み終わって本を閉じる(というボタンを押す)瞬間まで、私はタイトルを忘れていた。
私の鳥頭と、Kindleによって誕生した最悪の(最高の)オチがタイトルであった。


本題の内容だが、やはりタイトルが酷い。酷いというのは悪い、という意味ではなくて、これ以上残酷な事があるだろうか、という意味の「ひどい」であり、「え〜っ、ひっど……」というような感じ。
(同じようなことを、島本理生『ファーストラヴ』でも思った。)
この場合の「神様」は誰を指すのだろう。本文中に度々、やや唐突に「神様」が登場するが、特定の登場人物であっても、全知全能の人外のものであっても、やはり神様なだけあって、暇つぶしにこのような展開を望むのは、人の心があるとは思えない。
率直に言うと、私はこの話を好きになれなかった。好きになれないと言うより、ずっと疑問があった。人間、歯車が狂うことはあるが、ここまで馬鹿になれるものだろうか、とずっと首を傾げていた。しかし、今振り返ってみて、この感情はある種防衛本能だったのだろうと思う。私はこうはなりたくないし、こうなっては不幸だから、こんな社会であってたまるか、こうであってほしくない、という願望のような防衛本能。
大人である人が、己の芸術のためだけに誰を傷つけるのも厭わないなんて。
己の理性だけでどうにもならないのが色恋であるが、それにしたって、父を亡くして母がいない不安定な学生の心の隙間に入り込むのは、これはグルーミングではないか…?脳裏に『私の男』がよぎる。藤子から見れば全しかいなかったのだろうが、全から見ればいつでも離れるタイミングはあったはずだ。でも、恋愛なら自己責任なのだろうか、どうだろうか。などと、自分の倫理観と照らし合わせて、私が藤子を馬鹿なことをしていると思っているのも、ちょっと救いがない。
誰よりも、何よりも、本当は私は里見に幸せになってほしかった。里見は、誰の倫理観から見ても間違ったことをしていないはずなのに、一切の負の感情を吞み込んで、包み込むようにあっけなく死んでしまうのは許せない。彼が死ぬ意味は、あったんだろうか。メタ的な話をするのであれば、海外に留学するとかで留めてほしかった。藤子から見ても苦しいのだろうが、里見から見ればなんと救いのない人生だったのだろう。

「柏木を放っておけない理由があればいいなと思ったことはあったよ」

千早茜『神様の暇つぶし』(文藝春秋、2022年)P246

彼はたぶん、藤子を好きになっていたなら、もっと簡単に割り切れる世界であったのだろうと、思ったに違いない。
藤子のために、彼が死んだのではないといいと思う。藤子の精神性を成長させるために彼が死んだのではなく、藤子とは関係ない場所で、彼としての人生を生きた結果であればいいと思った。

私は結婚しているので、全の妻が(恐らく寝たとわかっている)藤子に会うのもどんなに異常かわかる。異常者しかいないじゃないか。
神様の暇つぶし、私の人生は暇つぶしなのだろうか?小説に教訓を求めるものではないと思っているが、私はこうはなりたくないし、このような大人になりたくないと、切に願う。

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