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家族には余命を言わない主義「叔母が突然亡くなりまして」
少しまえの話しになりますが、わたしを赤ちゃんのころから可愛がってくれていた叔母が亡くなった。正確には母の従妹なので「従妹叔母」と呼ぶらしいし叔母なんて呼んだこともないけれど。苗字に“ちゃん”をつけて「○○おばちゃん」と呼んでいました。ここでは「おばちゃん」と書かせてもらいます。おばちゃんの夫婦はなかなか子どもに恵まれなかったので従妹の子どものわたしをまるで自分の娘のように可愛がってくれた。わたしの父が忙しく働いていたのでおじちゃんはお父さんのようにいっぱい遊んでくれた。実際にわたしの結婚式でも亡くなった父の代わりにお色直しのエスコートもおじちゃんに頼んだ。
そんな夫婦のおばちゃんが亡くなったわけだけど、なんと家族も近親者も誰一人おばちゃんの余命を知らなかったというのだ。闘病していたようなので入退院は繰り返していたみたいだけどまさか余命宣告されていたなんて。そして誰も知らなかったなんて。と驚いた。
生き方も死に方も個人の自由だとおもうがおじちゃんまで余命を知らなかったなんて…とおもうと胸がぎゅーっとなるんだが、おばちゃんにも理由があったんだろう。そうおもうようにした。
片足が義足ということ
おばちゃんは子どものころに車との接触事故で片足を失い義足生活だった。寝る前には義足をはずし、お風呂上りに義足をつけていた自分の足にベビーパウダーをパタパタとつけていた。きっと今みたらびっくりする光景なんだろうけど幼少期からそれをみていたわたしはなんとも普通の光景で「片方の足がない」という本来なら不便であろう生活のはずなのにおばちゃんはいつも大きな口をあけて笑っていたので
「ほっほー片方の足がなくても元気なんだなー」
なんて3歳くらいのわたしは納得していた。本当はその笑顔の裏には驚くようなつらい出来事もあったんだろうね。
いつも大きな口をあけて笑い、一緒にいる人たちを笑わせる。おばちゃんの最大の才能だとおもうよ。生きているあいだに伝えたかったな。
過去に縛られず今を生きる
さて、おばちゃんとのきれいな話しはこの辺にしておいて。少しだけ母とおばちゃんの若かったころについて書かせてください。
わたしの母を福島県から東京に出ていくきっかけを作ったのも実はおばちゃんだ。従妹だったおばちゃんと母のふたりは高校卒業後とくに取り柄も才能もないということで東京にある洋裁工場に勤めるのだ。文化服装学院(おすぎとピーコとかKENZO、コシノヒロコ、ヨウジヤマモトなどが卒業生)という学校に通いながら洋裁工場に勤め親からの仕送りも貰うことなく、むしろ実家に仕送りをしながら働いていたそうだ。ふたりで葛飾区にある部屋を借りて同居し自分の生活は切り詰めながら実家に仕送りをする。
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