母はヨメを辞めて、墓を買った。
「私はこの家の墓には、はいらないから」
何の脈絡もなく母は宣言した。私が高校生の時だった。
母は時々、突飛なことを言う。「うちの山や田んぼは絶対に誰にも売らない、あんたらが守り抜くんだよ!」といきなり発破をかけるのが、ドラゴンズのナイター中継を見ているときだったりするので、家族は一瞬面食らう。しかし、それに慣れている父はほぼ反応しない、兄も無視をするので、私だけが母の話に耳を傾けるのだった。
『母は構ってほしくて突拍子もないことを言うんだろうな~』と感じながら、「そんな寂しいこと言わないでよ~」と、わざとらしく元気に諭した。
しかしあの頃の私は、母の気持ちを少しも理解をしていなかった。
そのとき母に「どうしてそう思ったの?」と聞くべきだった。
いまならわかる。母は『私はこの家が大っ嫌い』と言いたかったのだ。
*
母は東京で生まれ育ったシティガールで、結婚して縁もゆかりもない愛知の山奥の農家に嫁いだ。何も知らないヨメだった。味噌の作り方も知らなければ田植えひとつとっても何の役にも立たなかった。
結果、ひどい嫁いびりに遭った。姑である私の祖母は村でも有名な気の強い人だったので、母は毎週末、父方の実家に農作業を手伝いに行くたび罵られていた。
祖母は情緒不安定でもあって、たびたび母は振り回された。
祖父と喧嘩して深夜1時に家出した祖母を、山中まで探しに行ったこともあった。
突然母への文句を言うために早朝5時から電話をかけ、怒鳴り散らすこともあった。ある時期我が家の固定電話は電話線が引っこ抜かれていたほど、母には大きなダメージを与えた。
当然これらが原因で父と母は夫婦喧嘩をしていたが、どんなに母が不満を述べようとも父が祖母を注意することはなかった。それが火に油を注ぐ行為であると考えていたからだ。
河井家の長男としては、実家と揉めごとを起こさず、こちらが折れることによってうまく付き合っていきたい。だから、夫婦喧嘩の終盤ではいつも「どうやって耐えるか」について話し合っていた。
母は何度も、働きに出たいと願った。自分をいびる姑と守ってくれない夫、子供たちしか話し相手がいない、息苦しい家庭以外の場所を欲していた。しかし「働く暇があるなら農作業をもっと手伝えと祖母に言われかねない」という理由でいつも父に却下された。
私が中学生になり大人の話ができるようになると、母は私に祖母の愚痴をこぼすようになった。「おばあさんが毎日農作業しにこいって怒るの」「法事の準備がダメだって皆の前で笑われちゃった」繰り返し、祖母の行いを訴えた。
頻繁に愚痴を聞かされ、ぶっちゃけ相当うんざりしていた私は、生意気にも母に説教をしてしまった。「おばあちゃんは私にとっては血のつながった家族だよ。愚痴を聞く孫の気持ちを考えたことがあるの」母は神妙な面持ちで私の言葉を聞いていた。母を言い負かしたという子供っぽい達成感は、すぐ後悔に変わった。
母はうなだれて、顔を隠して泣いていた。
娘にすら突き放され、誰にも守られず、それでも母がひたすらに耐えたのは、主に3つの理由からだった。
まず母は、収入もないのに縁者のいないこの地で離婚するリスクをとれるほど、思い切りがよくなかった。
次に、母は努力すればいつか状況が変わると考えていた。農作業も行事も完璧な、よくできたヨメがその村にはいくらでもいたから、自分もそうなればおばあさんに認められるんじゃないか、と健気にも思っていたのだ。
そして何より、母は父のことをとても愛していた。どんなに辛く不満があろうとも、離れることは考えられなかったのだ。当時、ふたりが冷蔵庫の陰でハグしている姿を目撃してしまい、かなり気まずかったことをよく覚えている。
祖母と、体が弱くほぼ寝たきりの祖父の二人暮らしは、祖母が古希を迎えたあたりから少しずつ様子がおかしくなっていった。冷蔵庫には腐った食べ物が放置されるようになり、部屋が汚れ、家から異臭が漂うようになった。
祖母は時々出かけていた林業のアルバイトに行けなくなり、やがて農作業もままならなくなり、祖父母の老々介護が完全に崩壊したのだった。
定期的に巡回してくれるヘルパーさんからは、「宅配弁当をおじいさんに食べさせた形跡がない。おばあさんが全部食べてしまっているのではないか」と報告があった。
「飯はまだかのう」「さっき食べたでしょ」なんてただのジョークだと思っていたが、そうでもないらしい。これが目の前で起こっているのだ。
祖父を死なせるわけにはいかないと母は1日おきにひとり実家へ通うようになった。
祖母には、アルツハイマー型認知症の診断が下った。
介護と農作業に日々追われ、母は現在の穏やかな姿からは想像もつかないほど、毎日あからさまに不機嫌になった。
怒りの沸点が極端に下がっていたから、ちょっとした一言に激昂して包丁で私を刺そうとしたこともあった。兄が家に彼女を呼べば、「うちはラブホテルじゃない!」と怒鳴り散らして二人をたたき出した。時には「実来ちゃんをうまく愛せなくてごめんね」と言ってわんわん泣いた。
不安定な母親と反抗期を引きずった高校生の相性は最悪で、どんなに機嫌をうかがって過ごそうとも母を逆上させてしまう。私は、ぐれてプチ家出を繰り返した。学校の自習室で遅くまで勉強したり、夜の武道場に忍び込んだり。
おかげさまで母との接触機会を減らすことができ、成績は上がり、剣道部のレギュラーも勝ち取ることができた。お得なぐれ方をしたものである。
しかし、家族である以上どんなに避けようとも母と話す機会はある。そんなときは意を決してピエロとなり、場の雰囲気を保つためにつまらないギャグや変顔を繰り出した。
娘にそこまで気を遣わせなくてはならないほど、母は追い詰められていた。
アルツハイマー型認知症の症状のひとつに暴力がある。祖母は単に身の回りのことができないだけでなく、しっかりとその症状を呈するようになっていた。時折母から、「おばあさんにたたかれちゃったの」「今日は押されて転びそうになったよ」といった発言が聞かれるようになった。
そんな状態でも家族が介護し続けることは信じがたいかもしれないが、この村は無医地区だ。はるか遠くの介護施設や病院に入るのは物理的に難しく、在宅で看取るのが普通だった。
また、私の曾祖母は家族に囲まれ、眠るような最期だった。そのような大往生がめずらしくもない環境では、介護をしないヨメは非難の対象になりかねなかった。
だから、数々のいびりに耐えてきた母は、今度は乱暴な祖母を介護することに、ひたすら耐えた。今の母と私の関係性なら、「もう我慢するのはやめたら?」とでも言えただろうが、当時は母を少しでも刺激することは避けたかったため、口出しはぐっとこらえた。
「たっだいま~ぁ!」その日も真っ暗になるまで学校で時間をつぶし、私は帰宅した。家のドアを開けるときは、緊張の瞬間である。『母が機嫌よくありますように!』そんな切なる願いを込めて、とびきり元気に、少しおバカにただいまを言うのがお決まりだった。
…何かがおかしい。家に異様な雰囲気が漂っている。
出迎えた母を見て私は息を呑んだ。
深く赤茶けた人の手の形。それは母の両腕に刻まれた、痣だった。
おばあちゃんにやられたの…?なんて怖くて聞きたくもなかった。喉の奥がひきつったようで、うまく呼吸ができなかった。
今までも暴力はあったが、傷が残るほどではなかった。暴れるのをなだめる程度であったのだろう。でも、その痣は明らかに母を攻撃するためについたもので、相当激しく握りしめられたことを物語っていた。
仕事から帰宅した父を見るや、母は低い声で言い放った。
「あの人、施設に入れて。私はあの人ともう一生会わないから、あとは全部自分でやってね」
母は、ヨメを辞めた。
本当に一度も、母は介護施設に入った祖母に会わなかった。祖母の通院が必要なときも、届け物があるときも、どんなに忙しくとも会社を休んで父が付き添い、車を走らせた。父は誰にも関わらせることなく、一人で淡々と祖母の世話をこなすようになった。
母は徐々に活動的になり、上機嫌の日が増えていった。今まで介護に使っていた時間で、点字翻訳のボランティアや、近所の友人との日帰り旅行を楽しんでいた。
いつしか我々家族は、祖母についての会話を避けるようになった。まるで、祖母をいないものとして扱っているかのようだった。
私は、せめてものつながりを保ちたくて、母の日や敬老の日に祖母へお花を贈るようになっていた。祖母はお返しに、葉書を書いて送ってくれた。初めはお花の絵を添えて、「みくちゃんへ」と書いていた手紙は、次第に絵がなくなり、「河井様」と他人行儀になり、文字がほぼ読めないレベルにまで乱れ、ついに次の春にはお花を贈ることも叶わず、最後の再会を果たした。
それからの母はもっと活発になった。介護施設でのアルバイトも始め、日帰り旅行は3泊4日の旅行にグレードアップされた。スポーツクラブに通い汗を流し、ベリーダンスを得意気に踊っていた。母は輝いているようにみえた。
周囲との関わりが減り、ひとり衰弱していった祖母の終末期と反比例するように、母は積極的に外に出て、生き生きと日々を楽しむようになっていた。
そんな姿を眺めながら、母の宣言を思い出す。
「私はこの家の墓には、はいらないから」
あのときの母は『私はこの家が大っ嫌い』と言いたかったのだと思う。
私たちは母の言葉にもっと耳を傾けるべきだった。どんなことを苦痛に感じるのか、今後どうしたいのか、具体的な解決策は何なのか、ゆっくり時間をかけて話し合うべきだったのではないだろうか。
祖母との関係を保つことと、母が自分らしくいることが、両立できた未来だってあったはずだった。
母が働きに出たいと言ったとき、実現できるように向き合っていたら。
祖母が暴力を振るう前に、介護施設に頼るという選択をしていたら。
我々は、母にだけ耐えることを強いるばかりで、本当は母がどう生きていきたかったかなんて、知ろうとも叶えようともとしていなかった。
だから、母はヨメを辞めるしかなかったのだ。
人生の終末。そのテーマで語らう時は、家族の生き方に真っ向から向き合うチャンスだ。
残念ながら我々は、その機会を逃してしまったけれども。
*
「この前ね、お父さんと私のお墓を買ったんだよ!」帰省した私をいそいそと母は導く。
河井家、と刻まれたぴかぴかの御影石を前にして、母はこの家のことを好きになったんだなぁ、と少し笑う。
今度こそ、聞いてみようかな。
何故お墓を立てたのですか。
そしてあなたは、どんな過程でそこに行きたいですか。
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