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レール
この前、大学の授業で、
「昔は、太陽の動きに合わせて時間が決められていたけれど、今は、時間に合わせて太陽の動きが計られるようになった」というのを習った。
これまでは、“太陽が昇るときが朝”になっていたけれど、今は、“日の出は◯時”というように、時間に沿わせて太陽の昇るときが計られている、の意味である。
「暗くなる前に帰ってきなさい〜」から、
「18じ前には帰ってきなさい〜」になった、
というところだろうか。
そこで、
この太陽と時間の関係は、
“すごい人”と“レール”の関係に似ているなと思った。
多くのすごい人たちは、敷かれたレールから外れたところを歩いているイメージがある。
学校を辞めたり、会社を辞めたりして、何か別のことを始める人が多い。
大半の人たちがレールを歩いている間に、そういう人たちは自分の道を創っている。
この、道をつくるというのは、
自分を中心にして道を創っている。
敷かれたレールを歩いていると、
自分の違和感だとかを考える間もなく、何かを決断しなければならない“次の駅”がやってくる。決断ポイントだ。
けれど、その駅は、自分で創ったものでなく、最初から決まって作られていた駅だ。受験とか就活とかが多分それ。
でも、
人の成長、違和感を抱く時、考えるタイミング、立ち止まるタイミングには、もちろん個人差がある。
それでも、
レールを歩いていたら次の駅が絶対に来てしまう。
「あぁ、まだ考えきれていないのに。
今決めないと——。」
強制的に作られた決断ポイントでは、自分の過去を振り返って、それらしい理由を探して決めることができる。作ることもできる。
心が伴うかは別として。
そして、強制的に、時期だからといってした決断は、その続きを持たないことが多い気がする。
なぜなら、その次の決断も、また時期が来ないと決められないから。
だから、
「退屈だなぁ面白いことないかなぁ」と思うのは、
用意された駅が、もう少なくなっちゃったんだと思う。
一方、すごい人たちは、
決断をするときも、その次の決断をするときも自分で創っている人が多いように感じる。
もちろん、
その機会を創らないでいる事もできてしまうから、それが怖いところだと思う。
つまりつまり、
レールに自分を合わせるか
自分に合わせたレールを創るか、
ということだと、思った。
そのときに、後者をできる人たちが、
今いるすごい人たちなんだと思う。
茨木のりこさんの詩、
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
がさらに響きます。
はぁ〜、すごいなぁ〜。