ヘタクソから学ぶ事
小学生の頃、全寮制の学校に居た。
毎月、「誕生会」というのが有って、講堂で各寮から出し物をやったのだった。
子供が自分たちで考えて、練習して、披露するのだ。
ウケ狙いのわけわかんないものとか、劇とか、歌とか、、、、。
その、クッソ下手な出し物を喜んで見た覚えがある。
いつもいつもくだらない事ばかりやっていたので、「ちゃんとした劇やってみない?」と提案した事が有った。
言い出しっぺなので、図書室へ行って児童用の劇の台本を探して来て、それを練習して披露した事が有った。
それが大評判になり、その後は割とちゃんとした劇をやる寮が増えたのだった。
ちゃんとした台本を使ったからといって、ちゃんと出来ている訳では無い。
ただ、努力の跡のようなものが見えるから評判が良かったのだろうと思う。
シロウトの、クソ下手な劇を見る楽しみ、というものが有ると思う。
見ていると、練習した風景まで思い浮かんで、なんだかとても面白いのだ。
地上波テレビを見ると、一流(と言われる)人たちしか出てこない。
演劇も、歌も、スポーツも、みんな一流どころばかりだ。
でも、一流と言われるピラミッドの頂点の下には、何倍もの人たちが居る。
そういう人たちの、成長の過程であるとか、
あるいは、下手クソな味わいであるとか、
そんな事を感じるには、実際に足を運んで見に行かなければならない。
そんな事言ったって、生活が大変でなかなか見に行ったりは出来ないものだけれど、
たまには、ほんとにたまには足を運ぶのも良いものだと思います。
芝居でセリフを忘れて、小声でセリフを付けてもらう場面を何回か見たことが有る。
狂言の「棒しばり」で、肩に結びつけられた棒が折れてしまって、折れた棒を刀の様に振り回して暴れてしまった、わけわかんない場面なども有った。
そういうものを観ると、急に立体的になって、色々な思いが頭を駆け巡る。
ここは何度も何度も練習したんだな、とか、
これはあの先輩から教わったんだろうな、とか、
こういうところを意識して練習したんだな、とか、、、、。
こういう楽しみと言うのは、「一流じゃない」ものを見に行かなければなかなか得られない。
自分は男子新体操の試合を時々見に行くのだけれど、だいたいは全国大会などを見に行くことが多い。
けれど、地区予選を見に行って、その味わいに取りつかれてしまった。
練習の過程や、努力した姿が思い浮かぶ。
こういうふうにやろうと意識しているのが伝わって来るが、この辺がまだ出来ていない、
といった様な事が思い浮かぶ。
一流な人達は、いとも簡単そうに見えてしまうが、一流までいっていない人たちは、これがどんなに大変な事なのか解らせてくれる。
そんな訳で、一流よりちょっと下から最下層までを見る事の面白さを覚えてしまって、予選フェチになりそうだ。
まあ、あまりたくさんは見に行かれないけれど、行かれる時は楽しんで来ようと思っている。
よく、30過ぎて結婚出来ないのは、目が肥えてしまうから、なんてことを言う。
目が肥えてしまうと、イケメンなんだけど、ちょっと惜しかったねー、とか言う。
なーにがちょっと惜しかっただっつうの。
シアワセは一流じゃない所に有るかもよ。