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なまえ 権利と義務

何年か前、自分の息子に「王子様」という名前を付けた母親が居た。

父親は反対したそうだが押し切った。

そして息子は思春期を迎え、自分の名前に悩み、

自分で名前を変更する手続きをしたのだそうだ。

そのことを母親に伝えると、

私がどんな気持ちでつけた名前なのか解ってほしい、

と言って泣き崩れたのだそうだ。

その記事を読んでかなり衝撃を受けた。

子供は親のペットでも友達でも恋人でもないのだ。

正直言って、本当に愚かな母親だと思ったのだった。


名前って、何の為に有るのだろうか。

まずは自分の為。親が願いを込めてつけた名前であり、

自分のアイデンティティである、、という側面。

もう一つは他人の為。どこの誰だか区別する為のもの。社会的責任。

自分の為と他人の為と、二つの役割が有るのではなかろうか。

人間は社会で生きる生き物だ。

個人だけが勝手にしていられる訳ではない。

だから、社会に対しての責任として名前を持つという側面も大事な事だ。

なので、世界に類を見ないと言われる精緻な戸籍制度が有るというのは、

社会の規律を守る上でとても重要な事ではないだろうか。

名前なんて個人の勝手だ、それを国にどうこう言われる筋合いは無い、

というのは、勝手すぎる意見だと思うのだ。

これはもうノンポリであり、或いは革命を欲する共産主義者の主張だと思う。


そもそも共産主義者たちは「国家」というものに否定的だ。

「国家権力」なるものが「市民」から搾取し虐げると思っている。

戦争になっても国の為には戦わない、などとも言う。

国と個人など分けられるものではない。

国が有るから個人が暮らしていられるのだ。

個人の権利を言うのであれば、半分は公益や国民の義務も考えなくてはいけない。


マイナンバーカードなどに反対する人達が居る。

情報漏洩などの技術的な意味で反対するのならまだ理解は出来る。

けれど、個人を国に管理されるのはイヤだ、という考え方には同意出来ない。

中世の独裁政権ではないのだ。

悪質であからさまな「悪の国家権力」など、既に昔の話なのではないのか。

国民負担率が5割を超えているこの悪政に対しては、

選挙でひっくり返す事も出来るのだ。

犯罪を犯さない良心的な国民であれば、

国に情報を管理されても不都合は無いだけでなく、

行政が効率的になるのだから良いではないか。

紙の保険証の廃止に反対している人たちは、デジタルが良く解らないという人や、

保険証を不正に使い回ししている外国人などだろう。

保険証を不正に使い回しされてどれだけ損害が出ているのか考えた方が良い。

ある特定の人達にとって、国家とは悪であり、市民の敵だと思っているが、

あまりにも偏っていると感じる。

公益を守る事は自分を守る事でも有るのだ。

社会の規律を守る事は自分の為でも有るのだ。

社会の混乱を欲するのは革命を夢見る共産主義者だけだ。


自分は個人的にはマイナカードには大賛成だ。

懸念点は安全性という技術的な点のみだ。

安全が確保されるのであれば、国がデータを管理して、

面倒な手続きを減らし、効率的に政策に役立てて欲しいと思う。

昔から言われる役所の縦割りという非効率もデジタル化が必要な理由だ。

来年からマイナカードと免許証が一体化されるそうだが、

自分はそれもすぐにやろうと思っている。


普通の一般市民は、声のでかい共産主義者たちに影響され過ぎの様に思う。

犯罪など起こさない市民であれば堂々と国に管理されれば良いではないか。

そして今は中世ではないのだ。一応形の上では民主主義で、選挙に投票も出来るのだ。

でも、自分の情報が国に管理されるなんて気持ち悪い、なんて事を言う人も居る。

そんな気分だけの意見はおかしいと思う。

デジタルになっていなくても既に自分の情報は役所に登録されているのだ。


選択的夫婦別姓について、「選択的」なのだから良いではないか、

という意見も多い。確かにそうだろう。

けれど、それがサラミ戦術の最初の一枚になる事を心配する声も有る。

要するに社会を破壊しようとする共産主義者たちの企みという考え方だ。

さらに気持ちの問題だけ、自分の事だけではなく、

他人に対する責任という観点からも考える必要が有る。

自分の名前は自分の為だけのものではないのだ。

さらに、夫婦別姓はイコール親子別姓になる、という点も重要だ。

そしてさらに重要な事は、もう既に、旧姓などの通称名で多くの事が出来る様になっている、

という事だ。

小泉進次郎が会見で言っていた間違い、不動産登記が出来ない、学術論文を出せない、

などは併記などの形で既に出来る様になっていたり、

とうの昔から出来る様になっていたりしている事だ。

銀行口座も旧姓で作れるし、仕事も旧姓で継続出来る世の中になっている。

なぜわざわざ法律を作らなければならないのだろうか。

法律を作るには「立法事実」が有る必要が有る。

要するに、法律が無い為に困っている事が有る、などの事が有って初めて法律を作る、

「必要性」という事だ。

殆ど必要性の無い法律を作る目的はなんなのだろうか。

やはり社会を破壊しようとする陰謀論にたどり着いてしまう。

これは「LGBT理解増進法」も同じだと思う。

LGBの当事者多くの人が、私は差別なんかされていない、と言っているのに、

なぜこんな法律を作ったのか。それは一部の活動家の意見を聞いてしまったからだ。

その活動家とは何なのか。要するに簡単に言えば共産主義者たちではないのか。

結局話はここにたどり着くのだ。


人間は社会の中で生きる生き物だ。

自分1人の力で生きている訳ではない。

自分を大切にする一方で、周りの人間に感謝や責任を持たなくてはいけない。

結婚すると女性が男性の姓になるのは、日本ではずっとそういう風習になっていて、

殆どの人がそうしている。

日本では一体いつからそうなっているのか、という議論が有るが、

江戸時代は庶民は姓を持っていなかったという誤解が有ったりもするし、

それでも少なくともこの150年はずっとそうなっていたのは事実だ。

けれど、どうしても名字を変えたくない場合は男性のほうが女性の姓になる事も可能だ。

自分は結婚して、これから一つのチームとしてやっていくのだ、

という決意が有ると自然と姓が変わる事を受け入れる人は多いのだろうと思う。

自分の両親や先輩たちがずっとやってきた事を、自分も決意する、という気持ちは尊いと思う。

なぜかというと自分も社会の一員だという意識の問題だからだ。

けれどいろいろな事情は有るだろう。

仕事などで旧姓を継続したいのであれば、それは今殆どの場合可能になっている。

普段は旧姓で仕事をしているが、戸籍を見ると自分は一つのチームに属している、

というのはそれほど受け入れられない事なのだろうか。

自分は社会から世話になっている社会の一員であるという意識があれば、

伝統や風習に従う気持ちも持てるのではないかと思う。

それでもどうしても、何か事情が有るなどの場合は

「選択的夫婦別姓」を可能にしても良いかとは思うけれど、

いずれにしろ、戸籍に何と書いて有るかという問題であって、

普段は自分の思う姓を名乗っているのだから、

普段見る事は殆どない戸籍にどう書いてあろうが、

別に良いではないか、とも思う。

そして、戸籍に何と書いて有るかというのは、

自分は何処の誰なのかはっきりさせるという、社会に対する責任なのではないのか。


もし法律を作るのであれば、どうしても、という人は可能にする一方で、

そのことを政治や利権に利用しない為の条文を入れる必要が有る。

旧来の夫婦同姓の家を差別したり、旧態依然だと非難したりなどして、

子供がいじめられたり、その事を利用して利権を得たり、

政治運動に利用したりしない様にしておくべきだと思う。

結局、選択的夫婦別姓に反対している人の理由はその辺に有るのだ。

完全に希望する本人の為だけなのであれば「個人の勝手でしょ」で済む話だ。

社会を破壊しようとする企みや利権などを警戒しているから反対している。

法を作るなら利権や陰謀を排除して希望する本人の為「だけ」のもの、

にしないといけないと思う。

ただしそれでも親子別姓という問題は残る。

結局、個人的に強く感じるのは、別姓を求める人の根底に有る

「法に縛られたくない、個人の勝手で生きていたい」というワガママな感覚だ。


戸籍が有るのは重要な事だと思う。

自分は誰であるのかはっきり確定させておく責任が有るからだ。

個人が好き勝手に好きな名前を名乗っても良いと思ってしまうのは、

やはり社会的責任感覚の欠如ではないだろうか。

戸籍や結婚という制度を破壊したいのは社会的責任を回避したい意図が有るのではないのか。

結婚せず事実婚だけ、名前は好き勝手に名乗る、そんなことになって良いのだろうか。

しかし旧姓というのは、デタラメな通称ではなくきちんと根拠が有るものだ。

だからこそ旧姓使用は広く認められている。

結局、結婚して旧姓を使いたいという人が使える様になっていれば、

それこそ夫婦別姓を法制化する立法事実は無いのだろうと思う。


さて、最後に自分の名前について。

これは本論に関連付けたい訳ではなく、単なる小話です。

30年?くらい前、日本でもインターネットというものが普及し始めた頃、

毎晩夜中にネットサーフィンをし、チャットで話をしていたものだった。

それを始めた時に、あ、そうか、名前を決めなくちゃいけないんだな、と気が付いた。

要するにネット上での呼び名、ハンドルネームだ。

どういう名前にしようかと悩んで、友達にこう聞いてみた。

「俺って、有名人の誰に似てる?」

すると「バレーボールの川合とサッカーの中田英寿を足して2で割った感じ」

というので、似ているかどうかは別として、「それいいね」ということで、

「カワイヒデトシ」というハンドルネームにしたのだった。

それ以降ずっと「カワイさん」と呼ばれる事が多くなり、

本名で呼ばれるよりもずっと多くなってしまった。

自分の意識の中でも今では「カワイ」が本名みたいに感じてしまっている。

ただ、公的な、正式な手続きをする時には戸籍に有る本名を名乗る事になる。

それで不都合は何も無い。精神的にも何も問題無い。


ということで、自分の「カワイヒデトシ」という名前は本名ではなく、ハンドルネームです。





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