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この世界で生きることと、ビジネスの尺度で暮らすことを混同してしまう私たちの悪い癖について

「すごいやつ」は世の中にたくさんいて、「自分なんて全然だめなやつだ」と思うことはきっと誰にでもあることだと思う。当然、尺度が存在する世界であれば優劣はつけられるので、自然な話だ。例えば、教師として自身の未熟さを感じているのであれば、それを伸ばす必要がある。そんなのは当たり前だろう。また、SNSで飛び回るインフルエンサーたちを見て、ぼくも発信力を持たなきゃいけない。自分なんて全然だめだ。と思うこともあるかもしれない。それも、まあ正しいだろう。発信力を持ちたければ、持つしかない。お金を稼ぐためには「誰かが価値だと思うこと」を提供しないといけない。そうしないと生きていけないのだ。

だがそれだけである。「誰かが価値だと思うこと」はその誰かが価値だと思っているだけの話なのだ。その世界で自分が大きな価値を提供できないことは、自分に価値がないのとは全然ちがう。しかし、この世界で生きるということはこれを勘違いしやすい。なぜなら、他人に価値を提供しなければ食べていくことができないからだ。お金を稼ぐことができない。そうすると知らず知らずのうちに、社会的に価値を大きく提供しているあの人がすごく見えてくる。それができない自分が情けなく思えてくる。あの人は社会的に価値を大きく提供しているだけなのに。それはあの人と私とで「社会に提供できる価値」の大きさが違うだけで、あの人自体の価値が私自体の価値より大きいわけではない。価値は提供できることが大切ではないのだ。

確かに、私が価値があると考えていることは誰も共感してくれないかもしれない。でも、それはそれだけの話なのだ。私は社会的に価値がないかもしれない。それは社会的に価値がないだけで、私に価値がないのとは全く違う話なのだ。いくら社会的に価値があって素晴らしいとされる人だろうが、その価値観の外で出会ったらただの人なのだ。考えても欲しい。教師としての文脈、またはビジネスとしての文脈、そのそれぞれで自分の手の届かないような「すごい人」だって、当たり前だけど飯食ってクソして寝るのである。私も飯食ってクソして寝るのである。同じなのである。便器からしたら「こいつのクソはすげえなあ」なんてならないのである。あるあるあるあるうるせえなこいつ。

教育のこととか、ビジネスのこととか考えてたら、その世界で大きな価値を提供している人が「何者か」に見えるけど、所詮それは、その文脈での「何者か」でしかない。ビジネスなんてほぼ全員が生まれて強制参加っぽいので、そこで成功してる人はこの世界における成功者みたいに見えるけど、そ別にそんなことはない。単にビジネスにおける成功者。この世界で生きる私たちにとって1つの価値でしかない。まあ、この世界とビジネスが不可分に混ざり合ってることは否定しないけど、そういうことじゃねえです。かけっこが速いのも、ゲームがうまいのも、勉強が得意なのも、フォロワーが多いのも、ビジネスで成功できるのも、同じぐらい素晴らしい。まあ、便器からしたらどんな価値観だってクソくらえなんですけどね。便器なだけに。ははっ。

おしまい。

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