フィクションを信じられること
仮に経済的に困窮し、あわや一家離散かというほど貧しい家庭があったとします。
幸運にもいろいろな人たちが援助してくれて、この苦境を乗り切ることができたなら、彼らは貧しくてもなんとかなるという人生観をもって生きていけるのではないかと思います。
あるいは、家族愛は貧しさに負けないという信念が得られるかもしれません。
実のところ、周囲の人たちの手助けがなければ本当に離散してしまった可能性もあります。
その場合には、家族愛も貧困には勝てないというシビアな人生観へとつながることでしょう。
それも人生だと言ってしまえばそれまでですが、多くの人はそのような境遇を望まないと思います。
愛がどのような困難をも乗り越えられるとはかぎらない、というのはもしかしたらその通りなのかもしれません。
しかしたとえ本当ではない(可能性がある)としても、愛はいかなる困難にも負けないという信念を抱いて生きていた方がいいと思います。
ひょっとするとそれは文字通りの真実ではない可能性もあります。
でもそんなことはどうでもいい。
本当ではない(かもしれない)ことを、それでも信じられることが人生における幸いなのだから。
本当のことをいくら知っていても、それで幸いが得られなければ意味がありません。
(ここで言う「幸い」は必ずしも一般的な意味での幸せであるとは限りません。
表面的には幸せでなくとも、魂が満たされていれば「幸い」です)
人が生きる上で大切なのは、ある種のフィクションを信じられることだと思います。
そしてそのためにこそ、人は互いに助け合う必要があります。
人と人との支え合いは、豊かなフィクションの支え合いでもあるからです。
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