ああ、なんと滑稽な光景であることか。世の中の善し悪しがみな相対的なものと説く道々たる人々が、互いに対立し、相手の愚かさを嘲り合う姿。本来なら寛容の徒であるはずが、ひとたび自らの教義に入れ込むと、異を唱える者たちに対して嫌悪の情を燃やし、罵りの言葉を投げかける。
「聖書にも人を裁くなと書いてある」とわめくクリスチャン同士が、実に痛快なほどに自らその戒めを無視し、互いに相手を「異端」「偽物」と烙印を押す有様。本家本元の神の子らが、子供じみた口げんかに終始するという茶番。まさに高踏的な価値観を振りかざしながら、けしからん振る舞いを演じているのだ。
しかしながら、この滑稽さに気づかぬ当人たちの顔つき、そこには開祖や教祖。聖人、偉人を真似た自負に満ちた眼差しがあり、見る者をして大いに哂わせずにはおかない。わが教えこそ正しく、他は皆邪道であると、自らの狭量な枠内でのみ正義を語り合う。これほど陳腐な演劇があろうものか。
そもそも善悪や幸不幸といった概念が相対的なものであるならば、むしろ他者の生き方を受け入れ、寛容であるべきなのに。だがそこには、精一杯の気合と本気さがあり、それが滑稽を生み出す源泉となっているのだ。
嗚呼、これらの人々に一物知恵を与えたいものである。「相対的な世界に生きる以上、あなた自身も愚かしき存在なのです」と。己の限界や狭量さに目を向けることなくして、他者の愚かさを嘲ることはできまい。自らの小ささを自覚することこそ、真の寛容と叡智への入り口なのである。
想像してみよう。ある日、目の前に突如現れた妙な舞台、その上で熱心に論争を繰り広げる者たち。あたしはその光景を眺めながら、ふと笑いをこらえきれずに声をあげる。まるで、子供の喧嘩を見ているかのような気分である。彼らの顔は真剣そのもので、怒りに満ちた表情は一見恐ろしげだが、その裏にはどこか滑稽さが漂う。
ひとりの男が叫ぶ。
「お前たちは何も分かっていない!真実はこの書物にこそあるのだ!」
彼の手には古びた書物が握られている。もうひとりの女が対抗する。
「そんなもの、ただの迷信よ。私たちの科学的知識こそが真実だ!」
彼女の手には最新の研究論文がある。
この二人の熱烈なやりとりは、観客席にいるあたしに一つの教訓を与える。どんなに高尚な理念を掲げていても、その実態は人間の愚かさと狭量さの産物であると。そして、その愚かさこそが人間らしさであり、その狭量さこそが滑稽さの根源であると。
滑稽な舞台の幕が下りる時、あたしは心の中でそっと呟く。「相対的な世界において、真の賢者は己の無知を知り、他者を受け入れる者である」と。そして、また次の滑稽な光景を楽しみに待つのである。
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