![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/133477773/rectangle_large_type_2_a352a00f81ecdf6e968b5cd2c314fd0c.png?width=1200)
桜でたどる土地の文脈
川越氷川神社の裏手を流れる新河岸川沿いの桜も色付き始め、日々春めく変化に嬉しくなりますね。この道を歩いた先人たちも同じことを思ったのでしょうか。
![](https://assets.st-note.com/img/1710046567619-c1g4WA1ayU.jpg?width=1200)
小江戸川越で親しまれる「誉桜(ほまれざくら)」
新河岸川の河畔には、約500mにわたってソメイヨシノが植えられており、毎年見事な花が咲き誇ります。地元では、この桜並木は「誉桜」と呼ばれ、長年親しまれてきました。
![](https://assets.st-note.com/img/1710044904682-yqWT9Vdzxz.png?width=1200)
新河岸川河畔を船頭が漕ぐ舟に乗って桜を舟から眺められる「小江戸川越春の舟遊」をご存知の方も多いのではないでしょうか。
![](https://assets.st-note.com/img/1710469091906-Anii6fWt0Y.png)
「亀屋栄泉」と誉桜 -戦争の惨禍と家族の祈り-
華やかで喜びのほとばしる情景から翻って誉桜の誕生までさかのぼってみると、そこには胸をしめ付けられるような物語がありました。
大東亜戦争の頃、川越の銘菓店「亀屋栄泉」の当主であった中島良輔氏は、二人の息子を戦地へと送り出しました。彼らが戦地にいる間、安全と戦勝の祈りを込め、桜の苗木を育ててほしいと農家に依頼しました。
しかし、戦況の悪化によって最初の苗木は散り散りになってしまいます。また無事終戦を迎えたものの、皆で帰還を待ちわびた息子たちは、願い虚しく帰らぬ人となりました。
深い悲しみに沈んでいた中島氏らでしたが、昭和32年(1957)には、300本もの桜の苗木を新河岸河畔に植えています。息子らと共に戦場で命を落とした多くの兵士たちを慰霊するためでした。その際に与えられたのが「誉桜」の名前です。
当神社の境内には、「北の里 誉桜に 足をとめ」と書かれた句碑が残ります。
![](https://assets.st-note.com/img/1709195520505-PEOZp0VckQ.png?width=1200)
近年は桜の木も年老いて、その数が約100本にまで減ってしまっていました。桜の樹齢は一般的に60年程度と短く、人間が手を加えなければ自然と失われてしまうのです。
そこで平成25年(2013)、当神社をはじめ地元の有志が「桜を愛する会」を発足。新しく苗木を植栽するなど、文化的な景観の保護を行っています。
![](https://assets.st-note.com/img/1710045075304-xwHxhcXXha.jpg?width=1200)
江戸後期、境内には大きな枝垂桜があった
時代をさらにさかのぼり、今は見ることができない情景に思いをはせてみましょう。
江戸後期の境内の様子が描かれた古資料、『武蔵三芳野名勝図会』(享和元年(1801)に川越鍛冶町(現幸町)の名主中島孝昌が著わした地誌)を見ると、かつての境内には大きな枝垂桜があったことが伺えます。
![](https://assets.st-note.com/img/1709197366242-Xm6zYSFTNF.png?width=1200)
出典:山野清二郎校注 川越市立図書館編集『校注 武蔵三芳野名勝図会』川越市立図書館 平成6年
枝垂桜は平安貴族の間で桜の鑑賞意識が高まり、桜の栽培化が進んだことから生み出された種類のひとつ。古くは『古今和歌集』にその文言がみられます。
ところで、「桜」の語源をご存知ですか? 諸説ありますが、その一つは「春に里へ舞い降りる田の神『サ神』が降り立つ『座』を『クラ』と呼び、『サクラ』の開花が田植えを始める基準となった」とする説。
ほかには、「『咲く』という動詞に複数を意味する『ら』が加わり、花が密生する植物全体を指す名称だった」とするものも。
郷土の祖先たちも枝垂桜を愛でたり、はたまた生活の営みに必要な天からの合図を確かめたりするために、当神社の境内へ足を運んでいたかもしれませんね。