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読書記録「フォルトゥナの瞳」

川口市出身の自称読書家 川口竜也です!

今回読んだのは、百田尚樹さんの「フォルトゥナの瞳」新潮社 (2015)です。

百田尚樹「フォルトゥナの瞳」新潮社

・あらすじ
主人公 木山慎一郎はある日突然、人の手が透けて見えるようになる。最初は疲労で疲れていただけかと思いきや、徐々に手から腕、身体、そして顔まで透けて見えるようになる。そして透明になった瞬間、その者が「亡くなる」ことを理解する…。

人の死期を知ることができる、それは、人の運命を変える力を持つことでもある。しかし、人の運命というものはいわば「神の領域」であり、それには代償が伴う。果たして慎一郎がその力を持った意味とは何なのか。

大切な人を守るために奮闘する主人公の姿に、自分だったらどうだろうかと思わず考えてしまう作品でした。

今回は、運命について書いてみようと思います。

バグダッドの死神

人の運命というものは決定付けられたものなのであろうか。

バグダッドの裕福な商人のところに、市場に買い物に出かけた召使が震えながら戻ってきて、こう言った。「ご主人様、市場で死神に会って、脅かされました。今すぐ馬を貸してください。サマラの町まで逃げます」と。商人が馬を貸すと、召使はサマラの町まで逃げた。その後で、商人が市場の中で死神を見つけたのと死神に「どうして私の召使を脅かしたんだ」と尋ねたら、死神は「彼とは今夜、サマラの町で出会うはずだったから、びっくりしたんだ」と言った。

同著 102頁より抜粋

この場合、果たして召使がサマラの町まで逃げなかったら、命を取られることはなかったのだろうか。自らの選択を変えれば、運命は変わったのかもしれない。

例えば、交通事故。自動車と人間の衝突ならば、どちらかが1秒でもズレていたら、事故は起こらなかったかもしれない(勿論、悪質な運転を擁護する気はないが)。ほんの一言、声を掛けただけでも防ぐことが出来た事故があるかもしれない。

とは言え、それは結果論である。例えいつ亡くなるのかが解ったとしても、何が原因なのかは分かるものではない、わからないから、運命というものなのかもしれない。

人間はいつ死ぬか当然わからない。老衰して亡くなる方もいれば、明日事故で亡くなることもあるかもしれない。

もし自分が「フォルトゥナの瞳」を持っていたとして、果たして人の運命を変えようと抗うだろうか。例えば、親友や恋人、家族や恩師が突発的に亡くなるとわかっていたら、あなたは自分の身を削ってまで助けようとするだろうか。

何が正解かはわからない。

少なくとも、1つだけ言えるとしたら、悔いのない人生にしようと言うこと。運命というものは些細な行動の積み重ねで起こるとするならば、後悔しない選択をするべきである。

いわば、死生観を持って生きていこうということである。明日死んでも満足するような生活はなかなか難しいかもしれないが、それを目指す生き方も一興である。今日を精一杯生きよう。それではまた次回!

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川口 竜也 / 川口市出身の自称読書家
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