この世界に僕らの物語を
「人生は物語である。」
昔々あるところの偉い人がそんなことを言っていたらしい。
今、この瞬間、僕は面白い物語が書けているだろうか――――
僕は去年から、正確に言えば、会社を辞めた一昨年から、僕の人生の物語のテコ入れをしている。
というのも、長らくつまらない話を書きすぎたからなのだ。
つまらない話を書いたというより、書くのをめんどくさがって何も書かなかったのかもしれない。
自分の人生が面白い物語になるように、自分で筆をとって、自分の物語を書き足している。
今日は良い物語になったな、とか寝る前に布団の中で考えながら生きている今日この頃。
自分を主人公に据えた物語を自分で書くと決めたら、人生はラクになった。
誰かに書いてもらった物語をなぞる思考停止を辞めた結果、人生はラクになった。
自分の物語を書くのは楽しい。
どうやら僕は誰かに指図される物語を生きるのは性に合わなかったらしい。
昔からそうだ。
絵を描いてるとき、作文を書くとき、囲碁を打つとき、大人から言われた「こうしたほうがもっとうまくなるよ」というお節介が大の嫌いだった。
自分で試して、自分の答えを導きたいガキだった。
それが正解かは興味がない。自分で納得できれば、それでいい。
自分の力であーでもない、こーでもないをして、できなかったことができるようになるのが一番楽しいんじゃないか。その楽しみを取り上げて、解法や正しさを子どもに教えて得意顔する大人に懐疑的だった。
僕は別に偉い人が欲する答えを求めてるわけじゃない。
そんなガキな性分は、正解のようなものが求められる社会人になるにつれ、薄れた気がする。
でも、会社で無理して、休んで、一年間いろいろ考えた結果、心の中のガキが自分のところに戻ってきた。
今では、自分の人生を、そして、誰かの人生を面白くすることしか考えてない。
僕の周りにいる人たちには、人生辛いことはあっても、いずれ会えなくなるときが来ても、「あの時、本当に楽しかったな」って思ってもらいたい。
そんなお節介なわがままが、いつも心のどこかにある。
人生に多少のわがままは必要だ。
若い時に勉強するとかいう、「いい子」をしてきた僕みたいな人間にとっては特に。
そして、自分が何を求めて生きているのかを理解して行動してみると、人生を楽しく過ごせるらしい。
僕は人がイキイキとしている顔を見ることが好きだ。
人が何かに夢中になって喋ってるときの顔が特に好きだ。
そして、それはどうやら色んな人の願いを一緒になって応援すると叶うらしい。
願いを叶えようと頑張っている人は非常にイキイキとして、いい顔をしている。
おかげさまで、去年はとても楽しい物語ができあがった。
これからも僕は色んな人の願いを応援する人間でありたい。
現実の世界を何かに縛られないでRPGのように進むと、無限の選択肢やアイテムが落ちていて、今まで学んだアレコレを活かすと、様々な攻略法、戦略が立てられる。
高校、大学、大学院と、他の人と比べたら、小さい頃から知識蒐集ばかりしてきた頭を、誰かの願いを叶えるために使える。
知らなかった世界のアレコレをたくさん知れる。色んな人に出会えて、感謝されて、非常に楽しい。
部屋で寝てたら出会うことなんてなかった面白い人たちとたくさん話してたくさん笑った。
もしかすると(もしかしなくても)去年、仲良くなった人たちは、僕自身が陽キャのふりした陰キャなので、根が陰キャっぽい人が多いかもしれない(悪口ではない)
心根が優しく、バカ真面目で、少し変わり者。そんな僕の好きな人たちと数多く出会えた一年だった。
大航海時代でなくても、現代はこんなに面白さに満ちている。スマホのゲームより100倍楽しい。…いや、ゲームも面白いか(笑)
バーチャルの世界も面白いけど、バーチャルだけプレイしてても、自分のプレイしてる「リアル」は面白くならない。
現実をゲームのようにプレイすること。
探索して、この世界の仕組みを広く深く理解していくこと。
色んな仲間を集めること。
たくさん語り合うこと。
どうやらそれが、この世界の攻略法っぽい。
学歴とか世間とかプライドとか羞恥心とか、実はあまり意味のないものに捉われるのはもったいない。
ひねくれてても、あまり人生は面白くならなかった。
インターネットだけ見てても、誰も日常を変えてはくれなかった。
素直に心が動く方へ、足を運んで、手を動かせば、おのずと人生の最適解は見えてくるのかもしれない。
数値解析でもそうだけど、最適解に自分を持ってくには、試行回数を増やして、探索を続けないといけない。
行き止まりの局所最適解にハマったら、別のルートをたくさん寄り道して探索したほうがいい。
「寄り道」が、僕の人生をより楽しく、より面白くしてくれる。
短い人生を楽しみたい。もっと。