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ぼくの家に住んでいる天使のこと

 いまぼくが住んでいる家には天使がいる。目を凝らさないと気がつかないくらいひっそりと。でもちゃんといる。

 幼い頃、ぼくはこわがりだった。家の天井の木目がこっちを見つめていたり、壁の模様になにかがひそんでいるように思えた。とくに夜になると、それらがうごめいているように見え、夜中にトイレにいくのは相当の覚悟がいった。でもいつの頃からか、そういうものが気にならなくなった。大人になるということは、壁のしみを怖がらなくなることだ。

 今、住んでいるのは都心のエアポケットのような、古くからの家が今も残る一角に建つ一軒家。まるで実家のような居心地の良い家だ。もともと住んでいた家は火事になって燃えてしまった。再建までという条件でお借りしている。ぼくたち家族にとっては、救いの家だ。

 ここに引っ越して間もない頃、トイレにはいっていてふと顔をあげると、小さな顔が目に飛び込んできた。よくみると壁の模様を体や髪に見立てて、お顔だけが描かれている。見た瞬間、天使だ、と思った。おそらくもともと住んでいた方が、壁の模様にその姿をみいだし、ペンで目鼻をつけたのだろう。落ち着きがあって、首をすこしかしげて、目をふせてなにかを慈しんでいるようにみえる。

 ぼくは信心深いほうではないし、占いも信じない。どちらかといえば即物的だ。でもこの天使の存在を知った時、すごくうれしかった。守られているんだと思えた。火事になって、airbnbを泊まり歩き、ようやくたどり着いたのがこの家だった。ようやく落ち着いた日常を取り戻すことができる、そう思えた。そのトイレに天使がいるなんてちょっと出来過ぎだ。でもそんな偶然に意味を見出し、救われる人も少なからずいる。

 火事から1年がすぎ、まもなく燃えた家の再建が終わろうとしている。そうなればこの家を離れることになる。もちろんもとの家に戻れるのはもちろんうれしい。でも少しだけ寂しい気持ちもある。

 晩ごはんを食べながら、中1と小4の娘たちに聞いてみた。

「うちのトイレに女の人がいるの知ってる?」
「うん、知ってるよ」
「あれなんだと思う?」

下の娘がカレーを食べながら即答する。

「え、落書きでしょ」
「パパは天使だと思ってるんだけど...」

娘たちは顔を見合わせて笑い始めた。

「天使なら羽が生えてるのに、ないじゃん」
「ウケるー」

 手を叩いて屈託なく笑っている娘たちを眺めながら、この1年の年月に思いをはせる。

 ここに引っ越してきたのは、火事にあってまだ2週間しかたっていなかった。彼女たちの持ち物は、ほとんど燃えてしまい、荷物は段ボールひとつずつしかなかった。近くを消防車が通ると、しばらくは怖がった。この家で暮らしながら、ぼくらは平穏を少しずつ取り戻してきた。

 まもなく燃えた家の再建がおわり、この家から離れることになる。もとの地域に戻れば、トイレの天使を思い出すことはなくなっていく。

 でもいつの日か、また娘たちと話してみたい。ぼくたちが住んでいた家には天使がすんでいたよね、って。

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河瀬大作
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