富士山にまつわる信仰の話。
【令和5(2023)年7月1日 加筆版】
はじめに
ごきげんよう。本日(投稿日)は、山の日。
平成28(2016)年に制定された「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」という趣旨の国民の祝日でございます。
筆者は、以前に富士山山開きのお祭り時に某神社様にて助勤(お手伝い)奉仕を致したところからご縁がはじまり、自宅の神棚にて神札(おふだ)をお祀り致しております。
このことから、毎月、御縁日であります「申の日」に、
神恩感謝のお祭りを行っております。
本日は、日で割り振られております「十二支」(年・月でも割り振られています) によりますと「申の日」にあたる日なので、
本日、御祭をお修めいたしました。
本日(投稿日)は、霊峰・富士山の御縁日と、
祝日・山の日とが重なりました日でございますので、
富士山にまつわる信仰のお話をしようと思います。
富士山は、第37回ユネスコ世界遺産委員会において、
「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名称のもと、
平成25(2013)年6月、世界文化遺産に登録されました。
富士登下山の注意事項
富士山は、日本最高峰の標高3,776m
その高さは、東京スカイツリー約6本分、
東京タワー約11本分といわれております。
近年では、当日の思いつきや軽いお気持ちで
弾丸登下山をする方々が増加しているというお話をよく見聞きします。
富士山は、レジャー・ハイキング感覚で
簡単に登下山できるお山ではありませんので、ご注意ください。
(その他のお山もそうですが…)
マスメディアなどで報じられているのを見聞きする機会が
ほとんどないことは誠に残念なのですが、
下山する時が一番危険です。
また、こちらの動画もあわせてご視聴ください。
登下山前の注意事項が書かれているサイトをご紹介いたしますので、
富士登下山をお考えの方は、ご一読ください。
何卒、事故のないようご準備と体調にお気をつけくださいませ。
『富士登山オフィシャルサイト』より
登山の前に必ず知っておくこと
『静岡県警察 公式サイト』より
富士登山の注意事項
『静岡県富士宮市役所 ホームページ』より
富士登山における注意事項
『@yamanashi ホームページ』より
富士登山の注意点?
御祭神について
主祭神は
「このはなのさくやひめのみこと」様
「このはなさくやひめのみこと」様とも申します。
そのほかにも「浅間大神」「浅間大明神」などの別称もございます。
神仏習合時には「富士権現」「浅間権現」(大権現とも)「浅間大菩薩」などとも称されておりまして、
そのほかにも様々な名称がございます。
容姿麗しく、御名は富士山の美しさを桜の花にたとえた事によるとも言われております。主な御神徳は、安産・火防(防火)など
和銅5(712)年に成立した
日本に現存する最古の書物であります『古事記(こじき)』では、
「木花之佐久夜毘賣」
別名は「神阿多都比賣」
養老4(720)年に編纂されました、
正史の『日本書紀』では、「木花開耶姫」
別名は「神吾田鹿葦津姫」などと表記されており、その他にも複数の別名がございます。
父神様は、山の神「大山祇神(おおやまづみのかみ とも)」様
夫神様は、天孫・瓊瓊杵尊様 姉神様は、磐長姫命様 御産みになられた御子神様は、火照命(海幸彦)・火須勢理命・火遠理命(山幸彦)
富士山頂の奥宮をお祀り致しますところは
静岡県富士宮市に鎮座します
全国約1300社ございます浅間神社の総本宮の
「富士山 本宮浅間大社」様
お祀りされているお宮(神社)様によっては、
「木花之佐久夜毘売命」
「木花開耶姫命」
「木之花咲耶姫命」
などの御名表記がなされております。
富士信仰にまつわるお話
日本では、古くから山を神として畏敬・崇拝されてきました。
富士山は、霊峰として畏敬され、麗峰としてその御姿が讃美されまして
信仰の対象として崇拝され、拝 み奉られております。
その富士信仰につきましては、
『神道事典』から引用してみたいと思います。
富士山について詠まれた和歌
上掲引用文を読みますと、日本に現存する最古の歌集であります
『万葉集』に、富士山について詠まれた和歌があるとのこと。
『たのしい万葉集』ウェブサイトによりますと、
富士山を詠んだ歌は「11首」あるとのことで、それらの歌がまとめられておりましたので、以下に添附いたします。
引用文で「くすしくもいます神かも」と詠まれていると説明されている和歌は、奈良時代の歌人・高橋蟲麻呂が詠んだ歌で、
『万葉集』第3巻の319番に収められております。
こちらの319番の和歌を、手元にあります
岩波文庫『新訓 万葉集 上巻』より引用します。
不盡山を詠む歌一首 幷に短歌(28)
その後にも、富士山を詠んだ歌は、
平安時代初期に編纂された最初の勅撰(ちょくせん)和歌集『古今和歌集』や鎌倉時代初期に編纂された勅撰和歌集『新古今和歌集』などにも収められてございます。
上記の和歌では「不盡」という見慣れない漢字が用いられております。
「ふじ」に対する漢字は、現在では「富士」が多く「冨士」もあったり、
上記の「不盡」や「不二」「不尽」「福慈」など様々な表記があります。
信仰形態について
大昔から、富士山は噴火や溶岩の流出を繰り返していたので、
恐ろしくも神秘的な山として、遠くから拝む「遙拝」の対象でありました。
富士宮市に鎮座する「山宮浅間(やまみやせんげん)神社」様は、
富士山から流れ出て固まった「青沢溶岩流」と言われる溶岩流の末端に
「富士山遙拝所」のみがある、古の祭祀形式が残っている神社様でございます。
『静岡県富士宮市 ホームページ』によりますと、
「遙拝所は溶岩流の先端部に位置し、遙拝所の周囲には溶岩礫を用いた石塁が巡っている。遙拝所内部の石列は、主軸が富士山方向に向いている。」と述べられております。
富士信仰の歴史は、1万5千年前から紀元前数世紀にまで及ぶ
縄文時代にまでさかのぼるそうで、旧石器時代末期から縄文時代の頃の
富士山は盛んに噴火していたそうです。
富士山の周囲にあった縄文時代の遺跡には、
富士山を意識した配石遺構(いこう)が複数あるとのことで、
静岡県富士宮市ある遺跡では、およそ1万8千年~8千5百年ほど前の
「大鹿窪(おおしかくぼ)遺跡」と、4,800年~4,500年ほど前の
「千居(せんご)遺跡」には、富士山に直角となるように石が配列されているそうです。
山梨県都留市にある遺跡では、
縄文中期から弥生時代にまたがる「牛石(うしいし)遺跡」には、
富士山が見える場所に環状列石を造っていた跡が残ってるとのことで、
考古学者方は、これらの遺跡を富士信仰の起こりと考えられているとのことです。
日本の記録に載っているところによると、
奈良時代までに富士山は大噴火を繰り返しているとのことで、
平安時代初期に編纂された官撰(かんせん)の歴史書の『日本後紀』や
『日本三代実録』などにも「富士山燃ゆ」との記録が残っているとのことで、噴火が続いたため、朝廷から各地の浅間神社に奉仕する神官などに対して「お祀りの仕方が悪いから富士山が怒ってたびたび噴火するのだ。だからもっとしっかりと富士山を大切にしてお祀りするように」というような内命が出されたとのことで、このあたりから各地の浅間神社の官位をだんだんと上げていくような対策がとられていたとのことです。
このような経緯で富士山周辺にお祀りされた浅間神社につきましては、
こちらの地図をご参照いただきますと、このような形でお祀りされるようになりまして、その周辺の村々にもお祀りされて、関東をはじめその周辺でも神社が建立されてお祀りされていくようになり、富士信仰はだんだんと広がっていったそうです。
噴火の威力/参考動画集
平成22(2010)年3月から噴火活動が活発化して現在も継続している、
アイスランド共和国にある火山にて、今月8月3日再噴火したとのことで、
様々な視点からの動画が複数あげられておりましたので、添附いたします。
信仰成立の流れ
信仰者にとって、富士山は御神徳を拝しながらお詣りします「登拝」するお山でありました。
平安時代末期から鎌倉時代にあたる12世紀頃より富士山の噴火活動が沈静化したことで、日本古来の山岳信仰に基づいた修験道の道場として修行される場所ともなり、修験者などが山中に分け入り修行するお山となっていきました。
修験道は、原始山岳信仰をもとに奈良時代から芽生えはじめ、
仏教、密教、道教、陰陽道などの諸宗教の影響を受けて成立した日本の民族宗教のひとつでありまして、山岳修行をして超自然的能力を獲得し、それをもとに様々な救済活動を行っております。修験の名称は、山岳の修行を通して神仏の御加護を賜りまして、神仏の妙なる力の験力(術) を得るということに由来し、「修行得験」「修呪得験」「修密得験」「実修実験」などの略称であるともいわれております。
古くは「山臥」、通称「山伏」と称されてきました。
修験の修行者は、山中に籠り、山に伏して厳しい修行をいたしますことから、「山伏」と呼ばれております。このほかにも、修験山伏は、山の聖、験者(げんざ とも)、行者など、様々な名称で呼ばれております。
平安時代に入って修験道の形が作られていき、富士山だけでなく出羽三山などの山々の山林・山中を修行の場とする修行者が次第に多くなって集団化するようになっていき、平安時代末期には、各地の霊山が修行者の修行道場として広く知られていくようになりました。
平安末期に編纂された歴史書の『本朝世紀』には、
富士山修験道(村山修験)の開祖と言われております、末代という僧侶が、
富士山に数百回登拝した上で、久安5(1149)年、山頂に大日寺を建立。御経を埋納されたと記されており、その後、修行する修験者が大宮・村山を拠点として集まるようになり、村山口の登拝道からの入山が盛んになっていったそうです。
また、山梨県南アルプス市に鎮座する「江原浅間神社」には、
平安時代の11世紀に造られたと考えられている御神像・女神木像が安置されておりますことから、この頃には富士山信仰がなされていたことがわかります。
中世(12世紀末~16世紀)には、富士山麓で修験道は広く行われていて、
近世(16世紀末~19世紀半ば) の江戸時代には、冨士信仰を教義化した
角行(1541-1646年)を開祖とする、修験道に基づく独自の信仰形態であります「富士講」が江戸を中心とする庶民へと広まっていきました。
角行5世代目の弟子で中興の祖ともいわれております、食行身禄という方が、油売りの行商(油問屋)でなんとか生計を立て、油を売りながら身なり構わず江戸の町々で実践論理や男女平等思想などの布教活動を行っておりました。享保17(1732)年に「享保の大飢饉」が起こったことを受けて、世を救うため、
享保18(1733)年に富士山七合五勺(現在は八合目) 烏帽子岩のかたわらで、旧暦6月から7月にかけて、断食して御入定(にゅうじょう)されました。(享年63歳)
食行身禄が自らが入定して人々を理想世界へと導こうとしたことへの評価と、お弟子さんたちの布教努力によって、江戸市中とその周辺に数多くの富士講が組織されていくようになり、文化・文政期(1804~30年)には、
富士信仰は最盛期となり、富士山登拝を目的とした「富士講」が江戸を中心に爆発的に流行し「江戸八百八町に八百八講 講中八万人」などと言われるようになり、天保期(1830~43年)になると、江戸市中だけでも百種以上の富士講が存在するまでに至りました。
近代になると、明治初年の神仏分離・修験道廃止によって衰退を余儀なくされ、宗教制度の変革に伴い組織化の必要を迫られたため、教派神道各派の
扶桑教(ふそうきょう)、実行教、丸山教などの中に組み込まれていきました。
そうしたなかで、明治時代以降には、外国人登山者の登場と、近代的な教育制度への変化や、鉄道整備等がなされていったことにより、学生の集団が登山するようになり、アルピニズムや観光といった考え方が持ち込まれたことにより「登拝」から「登山」するお山へと変化していきました。
こうした背景もあって、富士講は明治末期あたりから徐々に衰退していき、
昭和初期になると富士講が行われなくなった地域がいくつも出てくるようになり、戦前には富士山登拝はなされなくなっていきます。
昭和20(1945)年、戦後の「宗教法人令」が公布されたのちは、
系譜を異にする多数の修験教団が独立いたしまして、現在に至っています。
富士講は、昭和30年代には最後の登拝とする講も出まして、
その活動はほとんど行われなくなったとのことで、
現在では小数の講のみが残っています。
富士山の登拝について
昔は、富士山登拝者は限定されておりました。
霊峰であるお山に登って修行を積むこと、参詣することが主な目的であったことから、修行者は入山前に100日間、水垢離(みずこり)などの精進潔斎をしてお浄めする修行をしてから登拝するという決まり事がありました。
富士山での修行は、毎年、旧暦の7月22日~8月2日まで山籠りをいたしまして、翌3日には 駈(か)けて須走へ下り、東側の麓の各地を巡っていたそうです。
近世になり、開祖・角行の弟子の行者により広められ、江戸を中心に起こった「富士講」というグループ組織の発展から、信者の庶民も登拝するようになっていきます。
信者は日々の生活の中で定めた戒律を守ることにより、
7日間の潔斎で登る手配がなされたことにより発展していきますが、
当時は徒歩で富士山を目指し、富士山北口の吉田口から登拝しました。
このため行中期間は長く、往復の交通費や宿泊・飲食代や入山料など
多額の費用を要しました。このため必要となる費用を大勢から集めて、
登拝者を少人数に割り当てながら時間をかけて全員に回していく
「無尽(むじん)」という集団的な金融システムが富士講内で出来あがっていきました。
また、近世までは女人による霊峰等の登拝は禁制でありましたが、
江戸時代になると、庚申御縁年※には、富士山御師により、女人が途中まで登拝できる緩和策がなされておりました。その後、富士講の信者である、
高山たつという女性が、不二道の開祖である小谷三志(1765-1841年)の尽力によりまして、天保3(1832)年に男装して登頂を果たしました。
富士塚の話
そうした中で、登拝が困難な高齢者・女性・子供たちに向けて、
体感的な富士登拝のお詣りしてもらい富士信仰を広めていこうという、
講中(こうじゅう)方の念いから、安永8(1779)年には、高田(東京都新宿区)に鎮座する水稲荷神社の境内に模造(小型)の富士山を築造した
「富士塚」(通称:高田富士)が建立されましたことにより、江戸各地に富士塚の築造が流行していきました。
この富士塚築造の流行は、明治・大正・昭和時代になっても続いたそうで、
東京23区内だけでも約40基が建立されているとのことです。
近年では、世界遺産登録がなされたこともあって、
新たに富士塚が建立されたり、改修される神社様もございました。
【参照ニュース動画】
富士塚の基本的様式といたしましては、
富士山の溶岩を運び入れて塚の各所に安置しまして、
山頂には富士山のお土を埋めたのち、浅間神社奥宮の石祠を建立し、
五合目には小御嶽神社の祠、七合五勺の烏帽子岩の位置に立石を安置して、山麓には胎内洞穴(たいないどうけつ)を象った横穴を設けるといった様式となっております。
この塚は、富士山の遙拝所または代理登拝の場所としての性格をもちまして、江戸時代当時は旧暦6月1日に執り行われておりました、
富士山山開き祭の当日には、各家はお山を遙拝し、講中(神社・寺院に参拝・祭りに参加する講の人達)は、白装束の行衣に金剛杖を持ちまして、近隣7カ所の富士塚を巡る「七富士参り」という模擬登拝が行われていたそうです。
江戸では、駒込(東京都文京区)に鎮座する
「駒込富士神社」の富士塚が、富士講のなかで有名であったそうです。
駒込富士神社の御由緒によると、最初は駿河(静岡県)の富士浅間大神を勧請(かんじょう)して別地にてお祀りされておりましたが、寛永5(1628)年頃、
境内にある古墳跡といわれている小高い丘の上に遷座されて社殿が建立されておるとのことで、富士講が盛んになり、富士講崇敬者によって支えられてきた経緯があるとのことでした。
このことから、駒込富士塚は、もともとあるお塚に富士山の溶岩などが安置された形式でありますことから、高田富士のように最初から築造された
富士塚ではないとのことでした。
駒込富士塚は、一年中登拝できる富士塚で、他の地域でも年中登拝できるところもあるのですが、現在でも御門が設けられ富士山山開き祭の時のみ、開門されて登拝する形式の富士塚もございます。
江戸時代後期に刊行された江戸の年中行事が記載されている「東都歳時記」や江戸地誌「江戸名所図会」 江戸実情雑記「江戸風俗惣まくり」などの書物には、毎年の祭礼日6月1日の前日より駒込富士神社には多くの人が参拝したと述べられております。
『文京区神社誌』の史料によりますと
「東都歳時記」には
「江戸風俗惣まくり」には
と当時の御様子について述べられております。
現在の駒込富士神社では、毎年6月30日・7月1日・7月2日の3日間、
「富士山山開き大祭」が行われていて、7月1日に大祭が斎行され、
8月28日には、山じまいの「鎮火祭」が斎行されております。
【参照写真(撮影:筆者)】
また、山開き大祭当日の富士詣りで、
富士塚を登拝する行衣姿の富士講の方がいらっしゃいました。
【参照写真(撮影:筆者)】
江戸時代では、以上のような形式で富士登拝がなされておりましたが、
明治5(1872)年には、太政官布告98号「神社仏閣の地 女人結界の場所を廃す」が3月27日に布告されたことによって、女性も富士山をはじめ霊峰への登山参詣等ができるようになり、現在に至っております。
現代の富士山の登拝で思い出します事は、
天皇陛下が殿下であらせられました時の
平成20(2008)年8月7・8日の両日、富士山へ行啓あそばされまして初御登頂なされましたことが、特に印象に残っております。
現在の富士登下山の問題ついて(8/12追記)
富士山が世界文化遺産登録されましたことにより、
より一層、観光目的などで富士山を訪れ、
登下山される方が増加しておるところなのですが
富士山の8合目以上は
富士山本宮浅間神社・奥宮の境内地となっております。
【富士山本宮浅間神社様より本年のお知らせ】
また、北口本宮冨士浅間神社様の公式サイトでは、
このようなお知らせがなされております。
上掲お写真の一番下に書かれていることは
神社様からの大切なお願いなので重複します。
本来は、麓から、登山道起点に鎮座する神社にお参り頂いて、登山を開始することが望ましい形です。神の山である富士山に、その神域に「これから入らせて頂きます」というご挨拶と、道中の安全を祈願し、心身を清浄にしてご登拝ください。
北口本宮冨士浅間神社様でも申されている通り、
富士山では、登山者が増加したことに伴い、登下山中のゴミ投棄や麓周辺の不法投棄や汚物による環境の問題があります。
『環境庁ホームページ』の「世界文化遺産『富士山-信仰の対象と芸術の源泉』における環境省の取組について」の記事によりますと、昭和54(1979)年頃から、国、山梨・静岡の両県、地元市町村、民間団体等による清掃活動がはじまり、現在も継続して取り組まれていることにより、山岳部のゴミは減少しているとのことですが、現在でも完全な解決にまで至っていません。
現在でも、登下山者が不要となった物を山中に投棄する行為はなくなっておりませんし、山麓周辺の不法投棄もなくなってはおりません。
また、富士山方面を目指す自動車による交通渋滞や、渋滞中に生じた不要と思われたゴミなどを道路に投棄する行為(使用済のオムツが投棄されていたり…)などの問題が生じておりますことから、現在では、富士山開山期間中はマイカー規制期間が設けられております。
一参考資料サイト等のご案内
最後に、全体像をお知りになりたい方は、
富士山世界遺産公式サイト『世界遺産 富士山とことんガイド』
「富士山が世界遺産に選ばれたわけ〜 信仰と芸術と構成資産 〜」
をご紹介いたします。よろしければご一読くださいませ。
『静岡県富士宮市のホームページ』にございました、
児童向けの富士山にまつわる説明書は、
とてもわかりやすく解説されておりましたので、ご紹介致します。
よろしければ、ご一読くださいませ。
『世界遺産富士山』PDF
また、山梨県富士吉田市にあります、
「ふじさんミュージアム」ウェブサイトをご紹介いたします。
お話は以上となります。
ご拝読ありがとうございました。奉拝
【参考文献】
國學院大學日本文化研究所編『刷縮版 神道事典』(弘文堂、平成23年9月、9刷)
平野 榮次『富士信仰と富士講』(岩田書院、平成16(2004)年11月)
大谷 正幸『図説!富士信仰 古代~近世初期編』(富士信仰アーカイブズ、2021年2月)
大谷 正幸『富士講とその講紋』(富士信仰アーカイブズ、2021年2月)