この連載は、戦後より神道ジャーナリスト・神道防衛者として活躍した、
思想家・葦津 珍彦氏について卒論に基づいたお話です。
終戦直後の活動ついて、前回のお話の続きをいたします。
【はじめに】
時は、昭和20(1945)年。8月14日に「ポツダム宣言受諾の詔書(しょうしょ)」(終戦の詔書)が発布され、翌15日にはラジオによる「玉音放送」にて停戦の大号令がなされました。
国内では、これより、天皇陛下の思召しによりまして、終戦を徹底するための動きがはじまります。
「玉音放送」がラジオ放送されましたのちの翌16日には、大元帥陛下(だいげんすい へいか)※により、皇族男子の御三方へ、海外の第一線にいます軍隊に終戦の聖旨(せいし)を伝達するようお命じなられまして、翌日に特使{とくし)として、それぞれの戦地へ遣わされました。
そして、東久邇宮稔彦王には、大命が下されまして、17日に東久邇宮内閣が組閣されました。
そして、米軍による占領後は、思想・言論戦へと突入して、更なる動乱期を迎えてゆきます。
葦津 珍彦氏は、連合国軍によって、神道・神社が抹殺されていくことを先読みしていましたので、今後は占領体制に対する対応に全力を尽くすことを決意して、早速行動を開始していきますが、その前に、今回はその考えに至るまでの経緯についてのお話しようと思います。
【玉音放送日 直前までの葦津 珍彦氏の行動】
葦津氏は、昭和初期より、父・耕次郎氏が主張する、神道的理想社会を実現させるための言論活動に助手として協力をはじめ、昭和15(1940)年 6月に父君が帰幽(逝去)された後は、父君の知友等や諸活動を相続して活動を継続。独自の行動をしていかれます。
葦津氏の略歴については、以下の記事にて致しておりますので、よろしければご一読くださいませ。
そして、政府に関わる知人たちや諸 活動家たちに政策についての持論を進言するなどの諸活動をしていくなか、昭和19(1944)年 7月22日には、小磯 國昭 内閣が組閣。
葦津氏と親交のある緒方 竹虎氏が入閣されたことをきっかけに、交際のある陸軍関係者をはじめ、他大臣などの所へも訪問されておりましたので、政府内の正確な情報を事前にいち早く知ることができ、自身の意見も直接言える環境にありました。
そうしたなかで葦津氏は、昭和20(1945)年の正月ごろから、国史上の敗戦史を読みながら、名誉ある降伏について考えていたようで、独自に外国放送や通信を傍受したり、信頼できる知人等から情報の収集をおこなっておりました。
また、緒方氏に直接進言すると同時に、非公開情報の提供を受けていたことから、現状を確認しながら状況改善策を考えられておりました。
そして、昭和20(1945)年 7月26日、連合国より日本政府に向けて「ポツダム宣言」が発表されました。
【ポツダム宣言についての話】
昭和20(1945)年 7月17日~8月2日までの期間、現在のドイツ・ブランデンブルク州の州都ポツダムにおいて、米・英・ソ連※の各首脳が、第二次世界大戦後の処理・対日戦争終結などについて話し合う会談が行われ、米・英・中華民国(現在 中華人民共和国)の共同宣言として、日本政府に対して、直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言をするよう等々の降伏を勧告する宣言が、7月26日に発表されました。
この共同宣言は「ポツダム宣言」といわれております。
この「ポツダム宣言」の内容は英語発表のため、日本語に翻訳してから内容を解釈して対応をしなければならず、日本政府はこの宣言の翻訳をどのように解釈するのか苦慮されつつ、交渉への議論がなされて揉めに揉めました。
そうして、翻訳された文が以下になります。
以上のように翻訳された「ポツダム宣言」は、日本軍に対して無条件に降伏するよう等々を勧告する内容となっており、日本政府はこの文の内容をどのように解釈するのかで戸惑いもあったようです。今読んでも、微妙な翻訳の箇所もあるようにも見受けますので、当然なことだと思いますし、翻訳する人によってニュアンスに微妙な違いがありますので、仕方のないことだとも思います。
この「ポツダム宣言」に対する、当時の政府の協議の様子や反応はどのようなものであったのかというと、上記の内容をみてもわかるように、「日本の国柄」はどうなるのかについては触れられていないため、政府と統帥部※ にて大論争が起こります。政府はどのように解釈してよいのか悩み、連合国軍にその解釈について聞いてみたのですが、あいまいな回答しか返ってこなかったため、閣議にて「ポツダム宣言」を受け入れるかどうかの意見や主張が対立して揉めていました。
【この頃の葦津氏の行動】
この頃の葦津氏は、この「ポツダム宣言」への反対修正案を出して、外交をはじめ、必死に抗戦することによって道が開けていくと考えていたことから、この旨を政府に進言していたのですが聞き入れてもらえず、8月に入って、安倍 源基当時内務大臣のもとを訪問した時に8月6日広島への原子爆弾投下のニュースを知ったそうです。
そして、同月9日に長崎へ原子爆弾が再投下されことにより、政府は降伏する方向へと流れは急転していったようで、こういった状況下において、葦津氏は終戦は間近と悟り、戦後の事態に向けての対応準備を始めていかれました。
この時のことについて葦津氏は、著書「老兵始末記」の中にて、以下のように述べられています。
以上のことから、葦津氏は、終戦以前から敗戦を予想して情報を集め、敗戦後に連合国が日本に対してどのような政策をしてくるのかを予想して、事前に敗戦後の日本への対応について思考していた様子が伺えます。
そうしたなか葦津氏は、発表された上記の「ポツダム宣言」(10)の箇所に着目しました。
以上の文中で、特に「民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙(障害)を除去する 言論、宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は確立されなければならない」という箇所に着目して、以下の点から分析をされました。
以上による視点から思考して分析した結果、
ポツダム宣言における「宗教・思想の自由」とは、「神社を自由の障害」としていると理解することができるという結論に至り、このポツダム宣言に条件をつけないまま承諾すれば、日本の国柄は必ず変更され、神社の存続も危機に立たされる。
また、憲法の改正もしてくるであろうことも予測して、神道指令的な占領政策をしてくることも予見されました。
葦津氏は、このような独自の考えを踏まえて、敗戦後に連合国が神道を解体してくることを確信して、最悪のケースを予測して先手を打つべきであると考え、神職以外の神道者が応援をしないと、神社は危機状況になるとの確信に至りました。
以上の経緯を踏まえた葦津氏は、本格的に敗戦後の対策について考え、戦後の占領体制に対する対応に全力を尽くすことを決意して、昭和20(1945)年8月13日には自身の経営する事業の解散手続きをおこないました。個人的には、当時にこのような危機感を持った決意のもとで迅速に行動を起こされたことは、稀有な例ではないかと思います。
そして8月15日の朝には、自身が経営していた渋谷にある社寺工務所の所員に会社を解散することを発表し、解散するための事務を進めるように指示されたのちに永田町へ行き、玉音放送を謹聴されました。
葦津氏は涙を流しながら、亡き先人たちや先輩たちに想いを馳せ、これからしばらくは、せめて鳥居だけでも残すことに尽力すべき時ではないかと思い、末弟の大成氏を助手にして、神道・神社防衛への行動を起こしていくこととなります。
今回のお話は以上となります。
ご拝読ありがとうございました。拝
【葦津 珍彦 氏の略歴】
【参考文献】
・葦津珍彦『昭和史を生きて―神国の民の心』(葦津事務所、平成19年1月)
・神社新報企画・葦津事務所編『神社新報五十年史(上)』(神社新報社、平成8年7月)
・竹田 恒泰『語られなかった皇族たちの真実』(小学館、平成18年1月)
・国史教科書編纂委員会編『中学歴史 令和2年度文部科学省検定不合格教科書』(令和書籍、令和3年6月 第四刷)
・小堀 圭一郎『昭和天皇』(PHP新書、平成11年8月)
・出雲井 晶『昭和天皇-「昭和の日」制定記念-』(産経新聞出版、平成18年5月)など