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【連載5】戦後の葦津 珍彦/神道防衛の道【はじまりの話】

この連載は、戦後より神道ジャーナリスト・神道防衛者として活躍した、
思想家・葦津 珍彦氏について卒論に基づいたお話です。
終戦直後の活動ついて、前回のお話の続きをいたします。

【はじめに】

時は、昭和20(1945)年。8月14日に「ポツダム宣言受諾じゅだく詔書(しょうしょ)」(終戦の詔書)が発布はっぷされ、翌15日にはラジオによる「玉音放送」にて停戦の大号令がなされました。

国内では、これより、天皇陛下の思召おぼしめしによりまして、終戦を徹底てっていするための動きがはじまります。

「玉音放送」がラジオ放送されましたのちの翌16日には、大元帥陛下(だいげんすい へいか)※により、皇族男子の御三方3名へ、海外の第一線最前線にいます軍隊に終戦の聖旨(せいし)を伝達するようお命じなられまして、翌日に特使{とくし)として、それぞれの戦地へつかわされました。

そして、東久邇宮稔彦王ひがしくにのみや なるひこ おうには、大命がくだされまして、17日に東久邇宮ひがしくにのみや内閣が組閣そかくされました。

大元帥陛下だいげんすいへいか:当時、天皇様は全軍を統率(とうそつ)する総大将でありました。

【註】竹田 恒泰つねやす著『語られなかった皇族たちの真実』(142ページ~144ページ) によりますと、「8月16日、昭和天皇様より突然の御召おめしがありまして、朝香宮鳩彦王あさかのみや やすひこ おう東久邇宮稔彦王ひがしくにのみや なるひこ おう竹田宮恒徳王たけだのみや つねよし おう閑院宮春仁王かんいんのみや はるひと おうの4名様は、終戦をつつがなく行うために、それぞれ大役をおおせつかった。」と述べられております。

参考文献:竹田恒泰『語られなかった皇族たちの真実
(小学館、平成18(2006)年1月、初版第一刷)


そして、米軍による占領後は、思想・言論戦へと突入して、更なる動乱期を迎えてゆきます。

葦津 珍彦あしづ うづひこ氏は、連合国軍によって、神道・神社が抹殺まっさつされていくことを先読みしていましたので、今後は占領体制に対する対応に全力を尽くすことを決意して、早速行動を開始していきますが、その前に、今回はその考えに至るまでの経緯についてのお話しようと思います。

【玉音放送日 直前までの葦津 珍彦あしづ うづひこ氏の行動】

葦津氏は、昭和初期より、父・耕次郎こうじろう氏が主張する、神道的理想社会祭政一致による慈しみ社会を実現させるための言論活動に助手として協力をはじめ、昭和15(1940)年 6月に父君ちちぎみ帰幽きゆう(逝去)された後は、父君の知友等やしょ活動を相続して活動を継続。独自の行動をしていかれます。

【註】いつくしみ:目下の者や弱い者に愛情を注ぐ。かわいがって大事にするという意味合い。

葦津氏の略歴りゃくれきについては、以下の記事にて致しておりますので、よろしければご一読くださいませ。

そして、政府に関わる知人たちやしょ活動家たちに政策についての持論じろん進言しんげんするなどの諸活動しょかつどうをしていくなか、昭和19(1944)年 7月22日には、小磯 國昭こいそ くにあき 内閣が組閣そかく

葦津氏と親交のある緒方 竹虎おがた たけとら氏が入閣にゅうかくされたことをきっかけに、交際のある陸軍関係者をはじめ、他大臣などの所へも訪問ほうもんされておりましたので、政府内の正確な情報を事前にいち早く知ることができ、自身の意見も直接言える環境にありました。

そうしたなかで葦津氏は、昭和20(1945)年の正月ごろから、国史日本史上の敗戦史を読みながら、名誉めいよある降伏について考えていたようで、独自に外国放送や通信を傍受ほうじゅしたり、信頼できる知人等から情報の収集をおこなっておりました。

また、緒方氏に直接進言しんげんすると同時に、非公開情報の提供ていきょうを受けていたことから、現状を確認しながら状況改善策じょうきょうかいぜんさくを考えられておりました。

そして、昭和20(1945)年 7月26日、連合国より日本政府に向けて「ポツダム宣言」が発表されました。

【ポツダム宣言についての話】

昭和20(1945)年 7月17日~8月2日までの期間、現在のドイツ・ブランデンブルク州の州都ポツダムにおいて、アメリカイギリスソ連ソヴィエト※の各首脳かく しゅのうが、第二次世界大戦後の処理しょり対日戦争終結たいにち せんそうしゅうけつなどについて話し合う会談が行われ、米・英・中華民国(現在 中華人民共和国)の共同宣言として、日本政府に対して、直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言をするよう等々の降伏を勧告かんこくする宣言が、7月26日に発表されました。

この共同宣言は「ポツダム宣言」といわれております。

現在はロシア連邦れんぽう。 当時はソヴィエト社会主義共和国連邦。同年8月8日の対日参戦と同時にポツダム宣言に加わりました。

【註】米国のトルーマン大統領は、前日の7月25日に口頭で日本に原子爆弾げんしばくだん投下とうかするよう命じました。このことは、同年7月16日に米国にて人類史上初の核実験かくじっけん (トリニティー実験)が行われて成功したしらせが届いたことと、同月17日に大統領とソ連のスターリン書記長との会談の席にて、ソ連が8月中旬までに参戦することを約束したことによって、米国・ソ連との権益競争けんえききょうそうしょうじ、米国はソ連参戦前さんせんまえに原子爆弾を使用するとの決断に至った。という説があり、この説は有力であると思います。

この「ポツダム宣言」の内容は英語発表のため、日本語に翻訳ほんやくしてから内容を解釈かいしゃくして対応をしなければならず、日本政府はこの宣言の翻訳ほんやくをどのように解釈するのか苦慮くりょされつつ、交渉への議論がなされてめにめました。

そうして、翻訳ほんやくされた文が以下になります。

【ポツダム宣言・翻訳全文(現代語訳は筆者)
国立国会図書館』Webサイト「憲法条文・重要文書」より引用

1945年7月26日
米、英、支三国宣言
(1945年7月26日「ポツダム」において)
(1)吾等われら 合衆国アメリカ大統領、中華民国政府主席および「グレート・ブリテンイギリス」国総理大臣は われらの数億すうおくの国民を代表し 協議の上 日本国に対し 今回の戦争を終結する機会を与えることに意見が一致した

(2)合衆国、英帝国イギリスおよび中華民国の巨大な 陸、海、空軍は 西方(にしかた)り 自国の陸軍および空軍による数倍の増強ぞうきょう を受け 日本国に対し 最後的打撃だげき加へくわえ態勢たいせい整へととのえた軍事力は 日本国が抵抗ていこう終止しゅうしするにいたるまで 同国に対し戦争を遂行すいこうする 一切の連合国の決意に支持しじされ かつ鼓舞こぶされているものである

(3)決起けっきしている世界の自由なる人民の力に対する「ドイツ」国の無益むえきかつ無意義むいぎなる抵抗ていこうの結果は 日本国 国民に対する先例せんれいきわめて明白めいはくしめすものである 現在 日本国に対し 集結しゅうけつしつつある力は 抵抗ていこうする「ナチス」に対し適用された場合において ぜん「ドイツ」国 人民の土地、産業および生活様式を 必然的に荒廃こうはいされた力に比べて はかり知れないほど 更に強大なものである 吾等われらの決意に支持‘しじされた 吾等われらの軍事力の最高度の使用は 日本国軍隊の不可避ふかひかつ完全なる壊滅かいめつを意味する 又 同様必然的また どうようひつぜんてきに日本国本土の完全なる破壊はかいを意味する

(4)無分別むぶんべつなる打算ださん により 日本帝国を滅亡めつぼうふちおとしいれた 我儘わがまま軍国主義的助言者ぐんこくしゅぎてきじょげんしゃり 日本国が引続き統御(とうぎょ)する 又は 理性の経路を日本国がむべきかを日本国が決意すべき時期は到来とうらいした

(5)吾等われらの条件は次のごと
吾等われら上記条件より離脱りだつすることはない 上記る条件は存在せず吾等われら遅延ちえんを認めない

(6)吾等われらは 無責任なる軍国主義が世界より駆逐(くちく)されるに至るまでは 平和、安全および正義の新秩序しんちつじょしょうざることを主張しゅちょうするものをもって 日本国 国民を欺瞞(ぎまん)しこれをして 世界征服せいふく(きょ)にづる 過誤かごおかさしめたる者の権力 及 勢力および せいりょく永久除去えいきゅうじょきょせられざるべからず

※筆者訳:世界征服をするという行動に出る、あやまちをおかした者の権力および勢力せいりょくは永久に除去じょきょされなければならない。

(7)上記ごと新秩序しんちつじょ建設けんせつされ かつ日本国の 戦争遂行すいこう能力が破砕(はさい)されたことの確証あるにいたるまでは 聯合国れんごうこくの指定する日本国領域内りょういきない諸地点しょちてん吾等われらここに指示する基本的目的の達成を確保するため占領せんりょうされる

※筆者訳:戦争をやりとげる能力が完全になくなったという確証と、ここに指示する基本的目的達成の確保があるまでは、日本国の領域内・しょ地点は連合国米国が占領する

(8)「カイロ」宣言※ 条項じょうこう履行りこうされるべく また 日本国の主権は本州、北海道、九州および四国ならび吾等われらの決定する諸小島しょしょとう局限きょくげんされる

※カイロ宣言:昭和18(1943)年11月下旬、エジプト・カイロにて、米・英・中会談にて署名された、連合国による対日本戦への基本方針を明らかにした宣言。昭和18(1943)年12月1日発表。

(9)日本国軍隊は完全に武装ぶそう解除かいじょされた後 各自の家庭に復帰ふっきし平和的かつ生産的の生活をいとな機会きかいられる

(10)吾等われらは日本人を民族として奴隷化どれいかしようとする または 国民を滅亡めつぼうしようとする意図いとゆうするものにあらざるも吾等われら俘虜(ふりょ:捕虜ほりょ)を虐待ぎゃくたいする者を含む 一切の戦争犯罪人に対しては厳重げんじゅうなる処罰しょばつくわえられる 日本国政府は日本国 国民の間にける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙しょうがい(障害)を除去じょきょする 言論、宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重は確立されなければならない

※筆者訳:我々われわれは日本人を奴隷化どれいかまたは滅亡めつぼうしようとする意図いとはないが…

(11)日本国はの経済を支持し かつ公正なる実物賠償ばいしょうの取立を可能にするようなごときの産業を維持することを許される ただし 日本国は戦争のため 再軍備をすことがられるごときの産業は かぎりらず 上記目的のため原料の入手(の支配とはこれを区別する)を許可される 日本国は将来世界貿易ぼうえき関係への参加をゆるされる

(12)前記 しょ目的が達成され かつ 日本国国民の自由に表明する意思にしたがい 平和的傾向をゆうかつ責任ある政府が樹立じゅりつされたときにおいては 聯合国れんごうこくの占領軍はただちに日本国より撤収てっしゅうする

(13)吾等われらは日本国政府がただちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し かつ右行動にける同政府の誠意につき適当 かつ充分な保障を提供することを同政府に対し要求する ※上記以外の日本国の選択せんたく迅速じんそくかつ完全なる壊滅かいめつがあるのみとす

※筆者訳:日本国はこれ以外の選択せんたくをすれば、迅速じんそくかつ完全な壊滅はかいがあるのみである。

(出典:外務省編『日本外交年表並主要文書』下巻 1966年刊)
出来る限り翻訳原文が残るようにしましたが、できるだけ読みやすくなるよう、文中に筆者による現代語訳を少々加えて書きました。

以上のように翻訳ほんやくされた「ポツダム宣言」は、日本軍に対して無条件に降伏するよう等々を勧告かんこくする内容となっており、日本政府はこの文の内容をどのように解釈かいしゃくするのかで戸惑とまどいもあったようです。今読んでも、微妙な翻訳ほんやく箇所かしょもあるようにも見受けますので、当然なことだと思いますし、翻訳ほんやくする人によってニュアンスに微妙な違いがありますので、仕方のないことだとも思います。

この「ポツダム宣言」に対する、当時の政府の協議の様子や反応はどのようなものであったのかというと、上記の内容をみてもわかるように、「日本の国柄天皇の地位の保障」はどうなるのかについては触れられていないため、政府と統帥部とうすいぶ※ にて大論争が起こります。政府はどのように解釈してよいのか悩み、連合国軍にその解釈について聞いてみたのですが、あいまいな回答しか返ってこなかったため、閣議かくぎにて「ポツダム宣言」を受け入れるかどうかの意見や主張が対立してめていました。

※ 統帥部(とうすいぶ)とは、軍の部隊を指揮(統帥)する機関。

【註】当初の米合衆国アメリカ政府案には「天皇の地位を保障する。」という文言が入っておりましたが、「ポツダム宣言」調印ちょういんの直前になって、その一文は削除されました。このことは、アメリカ側が、日本が降伏に応じる絶対条件は「天皇の地位の保障」であることは分析済みだったので、原子爆弾を投下する口実を得るため意図的に削除されたといわれています。

【この頃の葦津氏の行動】

この頃の葦津氏は、この「ポツダム宣言」への反対修正案を出して、外交をはじめ、必死に抗戦することによって道が開けていくと考えていたことから、このむねを政府に進言しんげんしていたのですが聞き入れてもらえず、8月に入って、安倍 源基あべ げんき当時内務大臣のもとを訪問した時に8月6日広島への原子爆弾投下のニュースを知ったそうです。

そして、同月9日に長崎へ原子爆弾が再投下されことにより、政府は降伏する方向へと流れは急転していったようで、こういった状況下において、葦津氏は終戦は間近と悟り、戦後の事態に向けての対応準備を始めていかれました。

この時のことについて葦津氏は、著書ちょしょ老兵始末記ろうへいしまつき」の中にて、以下のようにべられています。

かねてから敗戦の日を予想して、いろいろと考えたことはある。片々へんぺんたる情報を集めて、敵連合国の征服政策せいふくせいさくがいかなるものであるかは予想した。敵は「日本固有」のものの抹殺まっさつほっして日本を占領する。そしてその一つとして、わが国国有の神社と神道との抹殺まっさつをねらっていることも知っていた。 

葦津 珍彦著『昭和史を生きて』(68ページ 13行目~同ページ末)より引用

以上のことから、葦津氏は、終戦以前から敗戦を予想して情報を集め、敗戦後に連合国が日本に対してどのような政策をしてくるのかを予想して、事前に敗戦後の日本への対応について思考していた様子がうかがえます。

そうしたなか葦津氏は、発表された上記の「ポツダム宣言」(10)の箇所かしょ着目ちゃくもくしました。

【葦津氏が着目した、ポツダム宣言文】
(10)吾等われらは日本人を民族として奴隷化どれいかしようとする または 国民を滅亡しようとする意図をゆうするものにあらざるも※ 吾等われら俘虜ふりょ(捕虜)を虐待ぎゃくたいする者を含む 一切の戦争犯罪人に対しては厳重げんじゅうなる処罰しょばつくわえられる 日本国政府は日本国 国民の間にける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙しょうがい(障害)を除去じょきょする 言論、宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重は確立されなければならない

以上の文中で、特に「民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙しょうがい(障害)を除去じょきょする 言論、宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重は確立されなければならない」という箇所かしょに着目して、以下の点から分析をされました。

【葦津氏による分析点】
① なぜ「強化」という文字が入っているのか。

②「宗教 及び 思想の自由」をどのように解釈すべきか。

③ 歴史から見る、戦前のキリスト信者や在日宣教師ざいにちせんきょうしの思想をまえて、「ポツダム宣言」にてべられている「宗教(religionレリジョン)」という言葉の解釈。

米国アメリカの当時の思想傾向、ほう※ の思想を参考にして考察こうさつ

ほう:法律用語においては、おきてさだめ・秩序ちつじょ維持いじするための規範きはん

以上による視点から思考して分析した結果、

ポツダム宣言における「宗教・思想の自由」とは、「神社を自由の障害」としていると理解することができるという結論に至り、このポツダム宣言に条件をつけないまま承諾しょうだくすれば、日本の国柄くにがらは必ず変更され、神社の存続も危機に立たされる。

また、憲法の改正もしてくるであろうことも予測して、神道指令的な占領政策をしてくることも予見よけんされました。

葦津氏は、このような独自の考えを踏まえて、敗戦後に連合国が神道を解体してくることを確信して、最悪のケースを予測して先手を打つべきであると考え、神職しんしょく以外の神道者しんとうしゃが応援をしないと、神社は危機状況になるとの確信に至りました。

以上の経緯けいいまえた葦津氏は、本格的に敗戦後の対策について考え、戦後の占領体制に対する対応に全力を尽くすことを決意して、昭和20(1945)年8月13日には自身の経営する事業の解散手続きをおこないました。個人的には、当時にこのような危機感を持った決意のもとで迅速じんそくに行動を起こされたことは、稀有けうな例ではないかと思います。

そして8月15日の朝には、自身が経営していた渋谷にある社寺工務所の所員に会社を解散することを発表し、解散するための事務を進めるように指示されたのちに永田町へ行き、玉音放送を謹聴きんちょうされました。

葦津氏は涙を流しながら、亡き先人たちや先輩たちに想いをせ、これからしばらくは、せめて鳥居だけでも残すことに尽力すべき時ではないかと思い、末弟まってい大成ふとなり氏を助手にして、神道・神社防衛への行動を起こしていくこととなります。

今回のお話は以上となります。
ご拝読ありがとうございました。拝

【葦津 珍彦 氏の略歴】

【参考文献】

・葦津珍彦『昭和史を生きて―神国の民の心』(葦津事務所、平成19年1月)
・神社新報企画・葦津事務所編『神社新報五十年史(上)』(神社新報社、平成8年7月)
・竹田 恒泰『語られなかった皇族たちの真実』(小学館、平成18年1月)
・国史教科書編纂委員会編『中学歴史 令和2年度文部科学省検定不合格教科書』(令和書籍、令和3年6月 第四刷)
 ・小堀 圭一郎『昭和天皇』(PHP新書、平成11年8月)
・出雲井 晶『昭和天皇-「昭和の日」制定記念-』(産経新聞出版、平成18年5月)など