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【連載9】戦後の葦津 珍彦/神道防衛の道(3)[昭和20年9月編/神社本廰設立に向かって①]

【写真】昭和20(1945)年9月に東京進駐米軍が撮影した鳥居

佐藤 洋一(文・構成)『米軍が見た 東京1945秋 』
(洋泉社、2015年12月)より転載

ごきげんよう。
この連載は、戦後より神道ジャーナリスト・神道の防衛者として活躍。
ペンを武器に言論戦を闘い抜き、戦後の神社界に大きな影響を与えるなどの活動をされた昭和期の思想家・葦津あしづ 珍彦うづひこ氏について、卒業論文学士(文学)に基づいたお話です。

今は、昭和20(1945)年・終戦直後のお話
これより、葦津氏が神社本の設立に向かって携わって行かれる
お話。各月ごとに分けて神社本廰が創立されるまでのお話をいたします。

【前回の話】

【説明】卒論では、葦津氏が「神社新報」新聞の記者(神道ジャーナリスト)として活動する前のことを調べていくうちに、こちらの話もまとめる流れとなりました。
筆者の専門的研究分野ではないため、知識不足で把握していない個所は多々ありますが、当連載では拙論に基づきこちらでの執筆用に改めて少し調べ直し、現在入手出来得る限りで集めた資料等を踏まえて投稿をしております。

以下の記事にて卒論研究当時のお話を致しております。

初見の方へ

葦津あしづ 珍彦うづひこ氏は
(明治42(1909)年7月17日~平成4(1992)年6月10日)
福岡市に鎮座する八幡宮に代々奉仕する神職の家(社家)の一家系出身者の
葦津 耕次郎氏の長男として福岡で生まれ、10歳の時に東京へ転居。

祖父・伯父君は宮司を務められ、父君は神職として約10年奉仕後、
御社殿等の修復や境内を発展させる為に事業家として活動。神道信仰を根底に独自の考えも踏まえた保守言論活動もされておりました。これらの活動をする中で、当時の陸海軍の将軍、大臣・行政府の長官など多く方々と親交されておりました。珍彦氏は、父君がお宮神社を退職された後に誕生されました。

中学生の時に独創的な思想家になる事を志して独学。
種々の主義思想を比較研究をしている最中、社会主義思想と出会い興味をもったことから約8年間社会主義思想研究に没頭するなど経て、自身の思想の方向性を固めたのち、昭和7(1932)年より父君の保守言論活動に助手として協力。父君が創業運営する社寺工務所を引き継ぎながら、政策に関する独自の考えも踏まえての言論活動をしておりました。

今年で歿後30年となります。


葦津 珍彦氏の話

はじめに

葦津氏は、戦前・戦中と政府の政策に対して物申す抵抗活動をされ、
主に日独伊三国同盟に反対、東条内閣の言論統制などを糾弾する活動をされておりました。
この時に憲兵に逮捕され入獄されたり、自身が運営する社寺工務所の営業を妨害される弾圧を受けたりしておりましたが、屈さず抵抗活動を続けられました。

この時の葦津氏は、政府による検閲がなされていたことや目を付けられていたこともあって、複数のペンネームを使用して、主に小新聞・雑誌・自費出版書にて警告文を発表するなどして政府・神道関係者をはじめ多くの人に訴える言論活動や、親交者が大臣を務められた事により政府関係者へ持論を進言するなどしておりました。

そうした中で、連合国が日本国への最後通告として降伏するよう要求した
「ポツダム宣言」に記されている条文の一内容[以下資料1(10)の濃い個所]を独自に解釈した結果、連合国によって「神道・神社が抹殺まっさつされていくこと」を先読みされ、今後は神社を護るための活動に専念する決意をされました。


【資料1】「ポツダム宣言」(訳文)

1945年7月26日 米、英、支那 三国宣言
(1945年7月26日「ポツダム」において)

(1)われら合衆国大統領、中華民国政府首席および英国総理大臣は国民を代表して協議し、日本国に対して今回の戦争を終結する機会を与えることに意見が一致した。
  
(2)合衆国、英帝国及び中華民国の巨大な陸、海、空軍は、西方より自国の陸軍及び空軍による数倍の増強を受け、日本国が抵抗を終止するまで、日本国に対し戦争を遂行しているすべての連合国の決意により支持され、かつ鼓舞されているものである。
  
(3)世界の決起している自由な人民の力に対する、ドイツ国の無益かつ無意義な抵抗の結果は、日本国国民に対する先例を極めて明白に示すものである。現在、日本国に対し集結しつつある力は、抵抗するナチスに対して適用された場合において、全ドイツ国人民の土地、産業及び生活様式を必然的に荒廃に帰させる力に比べて、測り知れない程度に強大なものである。われらの決意に支持されたわれらの軍事力の再高度の使用は、日本国軍隊の不可避かつ完全な破壊を意味し、また同様に、必然的に日本国土の完全な破滅を意味する。
  
(4)無分別な打算により日本帝国の滅亡の淵に陥れた、わがままな軍国主義的助言者により、日本国が引き続き統御されるか、又は理性の経路を日本国がふむべきかを、日本国が決定する時期は到来した。
  
(5)われらの条件は、以下のとおりである。われらは、以下の条件より離脱することはない。以下に代わる条件は存在しない。われらは遅延を認めない。
 
(6)われらは無責任な軍国主義が世界より追い払えるまでは、平和、安全および正義の新秩序をつくり、日本国民をあざむきだまして世界征服の行動に出たあやまちを犯した者の権力および勢力は永久に除去されなければならない。
 
(7)新秩序の建設と日本国が戦争をする能力が完全になくなったという確証があるまでは、連合国の指定する日本国領域内の諸地点は、われらがここに指示する基本的目的の達成を確保するため占領される。
 
(8)日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国並びにわれらが決定する周辺の諸小島に局限される。
 
(9)日本国軍隊は完全に武装を解除された後、各自の家庭に復帰し平和的かつ生産的な生活を営む機会を得られる。
 
(10)われらは日本人を民族として奴隷化して滅亡する意図はないが、わ れらの捕虜を虐待する者を含む戦争犯罪人に対しては厳重な処罰を加える。日本国政府は、日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去しなければならない。言論、宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重は確立されなければならない。
 
(11)日本国は、その経済を支持し、かつ公正な実物賠償の取引を可能にするような産業を維持することを許される。ただし、日本国が戦争のために再軍備をすることができるような産業は、この限りではない。
この目的のため、原料の入手は許可される。日本国は、将来、世界貿易関係への参加を許される。
 
(12)前記の諸目的が達成され、日本国民が自由に表明する意志に従って平和的傾向を有し、かつ責任ある政府が樹立されたときには、連合国の占領軍は直ちに日本国より撤収する。
 
(13)われらは、日本国政府が直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、かつこの行動における同政府の誠意について十分な保障を提供することを要求する。日本国がこれ以外の選択をすれば、迅速かつ完全な壊滅があるだけである。

出典:国立国会図書館ウェブサイト
ポツダム宣言」より筆者現代文訳

そして「ポツダム宣言」を受諾する事が決定したのち
昭和20(1945)年8月15日正午しょうごより、NHKラジオ放送を通して「玉音放送」がなされたあと、神社の鳥居だけでも残したいとの目標を設定して単独行動を開始します。

この行動理由について、葦津氏は著書ちょしょ老兵始末記ろうへいしまつき」の中にて、以下のように述べられております。

敗戦後の反省
終戦のために東久邇ひがしくに内閣成立。そのちゅうすうには、緒方おがたさんがにゅうかく
今までの習慣で、頻々(しくしく)として進言はしたが、今までと心境は変わった。妄想を実現させたいとの熱意ではなく、ただ畏敬いけいする先生への「参考」をていするとの心理だった。無条件降伏の政府に、成し得ることの限界があるのはわかったことだ。(中略)情報知識などは、いささか学んだ。かねてから敗戦の日を予想して、いろいろと考えたことはある。へんぺんたる情報を集めて、敵連合国のせいふくせいさくがいかなるものであるかは、予想した。

敵は「日本固有」のもののまっさつほっして日本を占領する。
そしてその一つとして、わが国固有の神社と神道との抹殺をねらっていることも知っていた。これを抹殺すれば、日本人の精神は、ハワイの土民どみんと同じになるだろう。

私は、全日本国民を動かすような夢想をてて、一万人か三万人のしんしとうすうけいしゃうったえて、「神社」を守ろう。・・・情勢によっては、日本列島のなかに、日本に固有の神社の鳥居だけでも残したい。敗戦亡国の民は、それを未開人の遺物としてれいちょうするだろう。

だがそれが、ただの告朔之餼羊(こくさくのきよう)として残るにすぎないとしても、やがて後世の日本人が、日本固有独自の精神をさぐりもとめるときに、それは一つの拠点となり得るであろう。・・・せいふくしゃマッカーサーが、厚木に到着したころ、私は、そのぼうあつこうして「日本の神社を守る」との一線を中核として、今から後は・・・征服者によってまっしょうしえざる日本固有の神社を守ることに、抵抗のエネルギーを集中し、結集することを決意する。

こくさくよう:『論語』の故事。『論語』は葦津氏が敬読する一書。

出典:葦津 珍彦あしづ うづひこ「老兵始末記」
(『昭和史を生きて』所収)
67~69ページより抜粋

また、御子息ご長男泰國やすくに氏は、自身のブログにて、
当時の珍彦氏について、以下のように述べられております。

仕事を辞めた父
父は敗戦の日を期して、神社建築の事業を辞めた。会社は台湾のヒノキなどを用いて立派な神社や寺院の建築をしており、台湾やその他に出向している社員も多かった。父は敗戦の日が来るのを確信して、鎌倉や東京の世田谷・杉並などの山の手に何軒かの家を買い、また所有の財産を処分して自分の辞めた後の職員家族の救済に充てることにして、資金を集めていた。自分の収入もその後一切受け取らないことにして、これからは向収入で国のために働こうと決意していた。

引用元:gooブログ『葦津泰國の、私の「視角」』
母の命日に思うー44年目の母の命日
平成25(2013)年2月20日付記事より抜粋

終戦直後・葦津氏の初動

葦津氏(当時36歳)は、以上の決意を踏まえて
昭和20(1945)年8月15日以降より
連合国軍 最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥げんすい(当時65歳)が日本に来る前に精一杯の対応を進めておきたい、と早速に単独行動を起こします。

その手始めに、8月17日に再入閣された
 緒方 竹虎 国務大臣 兼 内閣書記官長 兼 情報局総裁大臣(のち自由党総裁)のもとを訪ねまして、「『ポツダム宣言』受諾じゅだく後でも、条件について交渉の余地はまだある。」と進言されます。

ちゅう
葦津氏と緒方大臣とは、父君の紹介によるご縁から、
昭和8(1933)年より親交がはじまり12年程のお付き合いがある仲でした。
出会った当時の緒方氏(当時45歳)は東京朝日新聞社の政治部記者で、
葦津氏(当時24歳)はこの時に情報に目を開いたそうで、週に1・2回は朝日新聞社に通い、情報の集め方や判断の方法などを教わったそうです。

そうしたご縁から、戦中に緒方氏が入閣した時には、大臣室を訪ねて政策について進言するなどされておりましたので、この時に緒方大臣のもとを訪ねる事は、葦津氏にとって普通のことでした。

そして「ポツダム宣言」にある、「宗教・思想の自由」は、神社を自由の障害としていると理解することができるので、この宣言に条件をつけずに承諾しょうだくすれば、日本の国柄は必ず変更され、憲法の改正もしてくるので、神社の存続も危機に立たされるであろう。」というような、自身の解釈による危惧きぐを伝えました。

この話を聞いた緒方大臣は、葦津氏の意見に同意して、急遽きゅうきょ、首相の名義で東大教授等の憲法学者数名に諮問(しもん)したところ、「憲法への干渉かんしょうは、まったくない。」と断言されたとのことでした。

緒方大臣は、次に、山崎やまざき いわお内務大臣に
「事前に手を打つべきだ。」とすすめたそうなのですが、
神祇院じんぎいん※(元神社局)を所管する内務省(現在:総務省)も「そのような懸念けねんは、絶対にない。」として、緒方大臣の意見を受け入れることはなかったとのことでした。

神祇院(じんぎいん):明治の新政府によって、行政・神社制度の改革がなされまして、神道界に大きな変革があったために諸論争が起こり混乱が生じました。こうしたなかで神社制度の整備をた結果、昭和15(1940)年11月9日には内務省の外局がいきょく(特殊な事務を行うための組織)、神社の祭祀さいし専管(せんかん)した官庁として「神祇院」を新設。
昭和21(1946)年1月末に廃止されました。

参考資料:國學院大學日本文化研究所編
縮刷版 神道事典』など


この話を緒方大臣から聞いた葦津氏は、これ以上政府に頼っていては間に合わなくなると判断され、即刻そっこく、親戚と祖父・父君の代より交際のある「神社関係・民間三団体」の基柱人物のもとを訪ねます。

【主な基柱人物】

①財団法人・大日本神祇会だいにほんじんぎかい(元全国神職会)の重鎮である、
親戚の高山 のぼる  ちょうろう

【註1】
大日本神祇会だいにほんじんぎかい
全国規模の神職しんしょくの団体。明治31(1898)年10月に「全国神職同盟会」として設立。昭和16(1941)年7月に「大日本神祇会」と改称かいしょう
事務所は、皇典講究所内にありました。
長老とは:神社界最高の栄誉えいよとされている敬称けいしょう。現在は神社本庁よりおくられる称号しょうごうで、称号と共に「鳩杖はとづえ」が贈られます。
鳩杖:古来より宮中にて、高齢者の長寿と功労をねぎらう意味を込めて、
鳩のお飾りが付けられた杖が下賜かしされるならわしがありました。長さは頭部あたりほどまである長い杖。どのような形かお知りになられたい方は
「 神社本庁 鳩杖 」で検索するとお写真拝見できます。

参考資料:國學院大學日本文化研究所編
『縮刷版 神道事典』など

②財団法人・神宮奉斎会(元神宮教)の宮川 むねのり 専務理事。

【註2】
神宮奉斎会じんぐうほうさいかい
明治の新政府によって、行政・神社制度の改革がなされていくなか、明治5(1872)年には、教部省の設置にともない、神道・仏教合同の宣教せんきょう体制を採用することになった流れをうけて、伊勢の神宮の一神官いちしんかんによる願い出により、伊勢の神宮の崇敬すうけいを中心とした、教会の開設が組織化して行きます。その後に諸々の再編成がなされていった結果、明治15(1882)年には独立して「神宮教」へと改称かいしょう
その後の明治31(1898)年7月16日に「民法みんぽう(法律)」が施行しこうされた流れをうけての決議を行った結果、明治32(1899)年9月に解散して「財団法人・神宮奉斎会」となりました。

参考資料:國學院大學日本文化研究所編『縮刷版 神道事典』など

③財団法人・皇典講究所こうてんこうきゅうじょ(のち國學院大學)の吉田 茂 専務理事。
(元首相ではありません。同姓同名の別人)

【註3】
皇典講究所こうてんこうきゅうじょ
明治新政府により、諸制度の改革がなされていくなかで、日本文化を基盤きばんとした近代的制度を確立していこうという気運が高まり、神道関連制度の諸分離に伴い、神職養成と日本文化の考究(こうきゅう)をになう研究教育機関の創立が求められたことにより、明治15(1882)年に国史・国文などの古典を研究・教授するための機関として設立され、同年9月に開校。神官しんかん神職しんしょくの養成・教育事業にも関与かんよしておりました。

参考資料:國學院大學日本文化研究所編
『縮刷版 神道事典』など

拙論「関係主要人物のご紹介」にて、各方の略歴・お顔写真がございます。
お知りになりたい方は、こちらをご参照ください。


この時に葦津氏のお話を聞かれて
高山 長老は、即座に了承。
宮川 専務理事は、即座に協力することを約束。
吉田 専務理事は、この時にはこころよい返事はしなかった。
とのことでした。

そして、葦津氏によるこの相談の後は、
東京に居る「神社関係・民間三団体」関係者の間で、情報交換や対策への意見交換が始まりますが、しばらくは占領してくる米軍の様子を伺うことしかできなかったので、それぞれが対策準備を整えるための研究が開始されます。

【註】
民間三団体は、密接な関係でありましたので、この時に吉田専務理事の快い返事がなくとも三団体関係者間の意見交換は可能でした。


9月の葦津氏の動き

そして9月に入り、葦津は再び緒方大臣のもとを訪ね、
「日本軍が武装解除された後に、米国軍は日本政府に干渉してくるであろうことを予測して、日本軍が武装解除される前に安全な対応を少しでも進めておくべきだ」と進言されました。

9月半ばには、吉田 専務理事の目白の自宅を訪問して
「神社界独自での対応を急がねばならないため、大臣・官僚経験のある吉田氏の指導と協力が必要だ。」と再度依頼され、この時に吉田氏は協力をすることを約束されました。

また、明確な資料を見たわけではありませんが、
葦津氏のこれまでの行動を踏まえると、この頃には後に配布する
「神社界新体制組織構造の私案」を作成するために、様々な参考資料を読み漁りながら思案されておられたであろうと推測します。

今回の葦津氏のお話は以上となります。


9月の国内の情勢の話

8月末より本格的に米国軍による日本国内の占領が開始。
9月2日には、連合国との「停戦協定文書」の調印式が行われ、
正式に「ポツダム宣言」を受諾しました。
これより言論戦等へと突入していきます。

【写真】署名後日本側が受け取った
 停戦協定文書(複製)
(撮影:筆者/江戸東京博物館にて)

【余談話】
署名当時、カナダ代表のモーレ・コスグレープ大佐が署名欄を一行飛ばして署名されてしまいました。式後に日本側が訂正と訂正印を求めたことによって、サザーランド参謀長による訂正と訂正サインが書かれています。
おそらく、大佐は緊張もあって国名が記されている下部に署名されたのだろうと推察しています(筆者も初見時そう思ってしまいました)

署名欄の下に各国名が書かれています。

ちゅう
連合国とは、昭和17(1942)年1月「連合国宣言」に署名した国および第二次世界大戦において署名国と共同行動をとり、日本、ドイツ、イタリアなどの枢軸諸国と交戦状態にあった国々の総称。


9月5日には、国会議事堂で行われた臨時議会にて、
東久邇宮ひがしくにのみや首相殿下より、敗戦報告の御演説がなされまして、これより国内の情勢は目まぐるしく変わって行きます。

【写真】昭和20年9月4日に撮影された国会議事堂
(『太平洋戦争写真史 東京占領』より転載)

この辺りについてのお話をお知りになられたい方は、
拙論の こちらの記事 をご参照ください。

リンク先:【連載8】戦後の葦津 珍彦/当時の国内情勢・資料編(2/2)
[停戦協定文書調印式の話]

この頃の東京の様子

この頃の国内の通信手段は、主に有線電話・電報・郵送による手紙でした。また、固定電話を所有している家庭は少ない時代でありました。

日本占領後の米軍部隊・第8軍の調査によると、戦災で日本の電話線の25%が破壊されていたため、全国で75%が不通状態。東京・横浜などの大都市の被害は50%で東京では20万台あった電話のうち通信可能なものは5万台だったとのことで、東京でも電話がほとんど繋がらず、電車も不通のところが多かったため、当時の国内は即時の連絡手段等に不便しておりました。
占領軍の通話が自由になったのは10月以降になってからとのことで、
それまで通信網が不自由だったためヤキモキしていたそうです。

【註】
当時の電話は、交換手を呼び出してから電話番号を告げて繋いでもらう
システムでした。

また9月17日14時頃には、通称「まくらざき台風」と称されている台風が鹿児島県枕崎市付近に上陸。九州、四国、近畿、北陸、東北地方を通過して三陸沖へ進みました。この台風の猛烈な風(最大瞬間風速75.5 m/s)によって、各地で甚大な被害がありました。『気象庁HP』によると、「死者2,473名、行方不明者1,283名、負傷者2,452名、住家損壊89,839棟、浸水273,888棟など」とあります。


以下は当時の東京の様子のお写真

【説明】
写真は、佐藤 洋一(文・構成)『米軍が見た 東京1945秋 終わりの風景、はじまりの風景』(洋泉社、2015年12月)写真集から転載。
佐藤氏の説明によると、米国軍隊が昭和20(1945)年に詳細把握の偵察用として空撮したもので、米国立公文書館 所蔵の写真とのこと。

きゅうじょう(皇居)
(昭和20年8/31日撮影)
宮殿
(昭和20年8/28日撮影)
宮殿
【神田方向】
(昭和20年9/2日撮影)

【註】
昭和20(1945)年4月13日23時頃、東京へ来襲してきたB29爆撃機・約170機により約4時間にわたって焼夷しょういだんを投下した無差別爆撃がなされ、きゅうじょう(皇居)の一部の建物で火災が発生。その後5月25日22時30分頃、同機・約250機により約2時間半にわたる無差別爆撃がなされて宮殿は焼失しました。

4/13日の空襲による死者2,450人(警視庁の調べによる)
5/25日の空襲による死者3,352人(東京都の調べによる)

明治神宮周辺
明治神宮は左上森辺り
(昭和20年8/25日~9月上旬頃撮影)

【註】
同上の昭和20(1945)年4月13日23時頃、東京で行われた無差別爆撃により
明治神宮の本殿及びはい殿でんは焼失しました。
この時に、当時の明治神宮・宮司様が水をかぶって本殿に入り、
御神体を救出されたと伺っております。

東京の空襲に関するお話については
『東京大空襲・戦災資料センター』webサイト
東京大空襲とは」をご参照ください。
国会議事堂
(昭和20年8/31日撮影)
霞が関
【日本橋方面】
(昭和20年9/5日撮影)
浅草区(当時)
とりこえ神社周辺

白色で囲っている所が神社
(昭和20年8/25~9/1日撮影)
浅草橋駅周辺
白丸の所は
浅草神社・浅草寺一帯
(昭和20年8/25~9月1日頃撮影)
虎の門 金刀比羅宮
鳥居の向こうの建物は満鉄東京支社
(昭和20年9/24日撮影)
金刀比羅宮境内側から
(昭和20年9/24日撮影)

【註】
金刀比羅宮はマッカーサー元帥が居住した米大使館の近くにあったこともあり撮影されたものと思われます。『太平洋戦争写真史 東京占領』によると、写真の説明書には「東京のゲート(門)」と書かれていたそうです。

東京駅周辺
【丸の内方面】
(昭和20年8/27日撮影)
東京駅プラットホーム
(昭和20年9/18日撮影)

【以下は動画】

視聴時間 約4分

配信元:『 YouTube PPS通信社チャンネル』より


天皇陛下による御親祭(宮中祭祀)

「停戦協定文書調印式」翌日の9月3日
天皇陛下は宮中三殿きゅうちゅうさんでんにおいて、
おごそかに「戦争終結親告しんこく」をりおこなわせられました。

【資料2】昭和20(1945)年9月3日付
「毎日新聞」記事

「毎日新聞 」1面
昭和20(1945)年9月3日付記事より抜粋

【 以下毎日新聞記事文】

聖上せいじょうけふ今日御親告ごしんこく
二日の調印で大東亞戰爭亜戦争は正式に終結をげたので
天皇陛下には三日 かしこどころ 皇靈殿こうれいでん 神殿しんでんにおいて 親告しんこくおこなせられるむねおおいだされた、同日 天皇陛下には御拜ぎょはい親しく 皇祖皇宗(こうそこうそう)に戰爭戦争終結を御親告ごしんこくあそばされ、いで皇后陛下には 同十時五分御拜ごはいあらせらる御豫定ごよていうけたまわ

日刊「毎日新聞」昭和20年9月3日付
1面記事より抜粋

そして、終戦奉告ほうこくのために、掌典長しょうてんちょう以下を勅使ちょくしとして、
神宮じんぐう(伊勢神宮)ならびに歴代天皇の御陵みささぎ参向さんこうせしめられました。

【資料3】昭和20年9月4日付
「朝日新聞」記事

「朝日新聞」昭和20年9月4日付記事(1面)より抜粋
記事文は続きますが枠的理由で省略

【以下朝日新聞記事文】

三殿さんでん御親告ごしんこく御儀おんぎ
  かしこし、戰爭終結の御告文おつげぶみ
大東亞戰爭は正式に終熄しゅうそくを見たので、
かしこくも 天皇陛下には三日
宮中きゅうちゅう賢所かしこどころ皇靈殿こうれいでん神殿しんでんにおいておごそかに戰爭終結御親告ごしんこく御儀おんぎり行はせられた 

陛下には午前十時 おん束帯そくたい黄櫨染御袍こうろぜんのごほうさせられ、側近そっきん奉仕者ほうししゃらをしたがせられて出御しゅつぎょ、うやうやしく御拜禮ごはいれいつげぶみそうたま戰爭終結を御親告あらせられて入御にゅうぎょ

ついで 皇后陛下御 皇太后こうたいごう陛下の御代拜ごだいはい室町むろまち祗候しこうが奉仕、御参列の高松宮、三笠宮、東久邇宮、同盛厚王もりひろおう、竹田宮各殿下御拜禮、近衛このえ國務相国務大臣以下各大臣をはじめ参列の顯官(けんかん)、貴族院総代四條隆徳候しじょうたかのり こうほか、衆議院総代 勝正憲氏ほか拜禮はいれいがあつて御儀おんぎを終させられた

神宮、山陵さんりょう奉告ほうこく御儀おんぎ
かしこき通りでは戰爭終結にあたり
神宮じんぐう(伊勢神宮)ならびにかく山陵さんりょうおよび官國かんこく幣社へいしゃ勅使ちょくしとして掌典しょうてん参向さんこうせしめられ、奉告ほうこく不明を左(下)の通り行しめられるむね 三日みっか おおせいだされた

<神宮 (くう) 六日午前八時、三條掌 典長
   (ないくう) 同日午後一時、同 
<神武天皇(初代)山陵 七日午前九時、室町 掌典、
<大正天皇(第123代)山陵 七日午前九時、不明田 掌典
<仁孝天皇(第120代)山陵 八日午前八時、室町 掌典、
<孝明天皇(第121代)山陵 同日 午前九時、同 
<明治天皇(第122代)山陵 同日午後一時半、同
<靖國神社 同日 午前九時、矢尾板 掌典

上掲「朝日新聞」昭和20年9月4日付
1面記事より抜粋


【資料4】昭和20年9月8日付
「朝日新聞」記事

「朝日新聞」
昭和20(1945)年9月8日付記事より抜粋

【以下上記事文】

神武天皇山稜奉告祭
神武天皇山稜さんりょうでは七日 おごそかに
戦争終結奉告ほうこく祭を執行しっこう、この朝九時半勅使ちょくし室町むろまち 公藤きんふじはく幣物へいもつ奉持ほうじして皇祖こうそ大前おおまえ参進さんしんはいれいの後 うやうやしく祭文さいもん奏上そうじょう、十時十分滞りなく祭儀さいぎを終させられた

「朝日新聞」昭和20年9月8日付
1面記事より抜粋


このようにして9月8日には、奉告の御儀は修められました。

そして9月23日には、
宮中にて「秋季しゅうき皇霊祭こうれいさい」が執り行われます。

【資料5】昭和20年9月24日付
「朝日新聞」記事

「朝日新聞」
昭和20(1945)年9月24日付記事より抜粋

【以下記事文】

秋季皇靈祭 宮中で御儀
秋季皇靈祭の二十三日、宮中では天皇陛下親祭しんさいあらせられて
こうれい殿でん並に神殿においておごそかなおんり行せられた、
天皇陛下には午前十時側近奉仕者をしたがせられてしゅつぎょ
うやうやしく御拜禮はいれいつげぶみそう給ひたまい
次いで皇太后陛下の御代拜を清閑寺せいかんじ奉務官が奉仕、
御参列の秩父宮妃、高松宮、宮、東久邇首相宮各殿下、
おうぎん、同妃両殿下の御拜禮、参列諸員の拜禮があつて御儀を終へさせられた

「朝日新聞」昭和20年9月24日付
記事文より抜粋


米国軍による占領政策 開始

8月30日にマッカーサー元帥が厚木から上陸後、千葉県の富津岬、神奈川県の横須賀などを軍事拠点にして、9月8日にはジープ車に乗って陸路から東京へ進駐しました。

連合国軍 最高司令官 マッカーサー元帥げんすいは、米軍の「進駐式」を行うため、幕僚たちを引き連れて滞留先の横浜のホテル・ニューグランドを出発。東京・赤坂にあるアメリカ大使館に入り、
式終了後、帝國ホテルにて昼食を済ませ横浜に戻ります。

【写真】赤坂・米大使館で行われた進駐式
儀式は米国旗掲揚のみ。掲揚された国旗は
日本の機動部隊がハワイ真珠湾攻撃時に
ワシントンの国会議事堂に掲げられていたもの

【註】
アメリカ大使館は日米開戦から4年近く閉鎖されていました。
このあとマッカーサー元帥は家族と共に日本を去る日まで大使館に居住します。

【写真】ダグラス・マッカーサー元帥

【註】ダグラス・マッカーサー元帥
【明治13(1880)年~昭和39(1964)年】
米アーカンソー州リトルロック生まれの職業軍人。父君も軍人で明治33(1900)年にフィリピン派遣軍司令官兼フィリピン軍事総督を務めた。
陸軍士官学校を首席で卒業後フィリピン勤務を経てフィリピン方面指令官も務め、アジアに関心をもちアジア地域に16年間暮らす。
昭和5(1930)年 米陸軍参謀総長に就任。
昭和16(1941)年 米太平洋陸軍のち米極東陸軍に改編司令官となる。
昭和20(1945)年8月14日夜にトルーマン米大統領より連合国最高司令官に任命される。
昭和26(1951)年4月11日解任され退官。4月16日帰国。帰国の際には羽田空港までの沿道を埋め尽くすほどの日本国民が見送りに来たとのこと。

参考文献:袖井そでい 林二郎りんじろう・福島じゅろう『図説 マッカーサー』
福永 文夫『日本占領史 1945-1952』

こうして米国軍による日本の占領は、約7年(沖縄は27年) 間続きますが、
当時の米国作戦では終戦時期は11月15日頃と想定しており、この時期での
日本の降伏は予想以上に早かったことから、占領当初は米国政府・米軍側の占領体制準備は整っておりませんでした。

また、米国政府は、連合国最高司令官をマッカーサー陸軍元帥か
チェスター・ニミッツ海軍元帥のどちらに任命するのか、直前まで決定されておらず知らされていない状態でありました。

そして8月14日の夜、トルーマン米大統領はホワイトハウスにて勝利宣言をしたのち、マッカーサー元帥を連合国最高司令官に任命すると発表。
元帥はワシントンに戻ることなく、新しい任務について説明を受けていない状態で日本に上陸します。

こうした背景もあったことから、占領米軍側も占領直後は体制を整えている段階で、翌年の昭和21(1946)年末には整っていったとのことでした。

また、米国政府は日本占領後もヨーロッパ方面の終戦処理に集中していたこともあって、実質的には昭和23(1948)年の頭ごろまではマッカーサー元帥を主体とする占領政策であったそうなので、実際には総司令部も一体となって動いていたわけではなく、占領軍もそれほどまとまっていなかったとのことでした。

マッカーサー元帥は個性が強い性格だったそうで、上司の言う事は聞かず、部下に忠誠を求めるタイプであったため、連合各国や米国政府側との確執があったそうです。

このことがよくわかる現象を少々あげますと、占領直後の9月17日に元帥が「日本の占領は成功しつつあり、米軍の人員を6カ月以内に8月段階での推定50万人から20万人に減らすことができる」との声明を発表したことを受けて、2日後の19日にアチソン米国務次官が記者会見にて「占領軍は政策の道具であって、政策の決定者ではない」と元帥に釘を刺す声明を発表。

昭和26(1951)年4月11日には、トルーマン米大統領は緊急記者会見を開いて「マッカーサー元帥を指揮官としてのすべての権限から解任する」として、その理由は「公務に関し米国政府と国際連合国連(昭和20(1945)年10月24日設立) の政策を心から支持していないため」と述べられておることから、この話は事実であることを物語っていると思います。

【註】
後任の司令官は、マシュー・リッジウェイ大将。占領が解除されるまで務められます。

【参照資料】

当時の「ニューヨーク・デイリー・ニュース」紙が
「ミカドになったマッカーサー」として
戯画化した漫画

また、日本政府側は、マッカーサー元帥とアチソン米国務次官の声明などについて、昭和20(1945)9月30日付で外務省より提出された「降伏後に於ける米国初期対日方針」説明文書にて触れられております。

【以下文書の一部】

左から5行目 (2)の個所
資料元:『国立国会図書館』webサイト
日本国憲法の誕生/資料と解説」より

上掲の文書内では、9月17日のマッカーサー元帥の声明に関して
「元帥の声明が各種の論議を誘発する結果となり、明確なる米国政府の対日方針を発表している事に対し、よしとしていない事など、権限問題に関する紛争があることを考慮した方がよい」というような内容が述べられております。

また、「ポツダム宣言発出後の和平交渉に際し、日本の国柄国体に関しては、占領軍の到着まで細部は明らかにされておらず、到着後に発せられた諸命令・指令により部分的に明瞭にはなってくるものの、根本的に明確でない点が多く、米国側とピントが合わない点が少なくない。」とも述べられております。

以上のような経緯もあって、実質的には軍政のトップである元帥を主体とする、マッカーサー司令部による占領政策でもあったようではありますが、
占領政策の基本としては「ポツダム宣言」と、9月22日に米国務省より発表された「初期の対日方針」、昭和20(1945)年11月3日に米国政府から出された非公表の正式指令「日本占領および管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期の基本的指令」(当時日本側はこの指令の事は知らない) の3つに従って進められおり、非軍事化・民主化することに重点を置いた占領政策が進められました。

また、直接の軍政といった一方的な政策ではなく、
天皇陛下・日本政府を通した間接統治で、当時のマッカーサー元帥は「全て日本人の手でやらせる。」というようなことを言われていたそうで、実際に国会の決定を尊重して国会が決めたことに関してはあまり介入されなかったそうで、のちに行われる国会にて地方税法の否決がなされた時に「腹は立つけれども認める。」と言われたというエピソードもあったとのことです。

また、日本政府側により論理的説明がなされた事などについては、
許可・許容する所もあったそうですが、官庁がやろうとしたことについては介入していたとのことで、時には「住宅を1万戸すぐ造れ」などの途方もない要求がなされる事もあったり(経費は日本側の負担)、耐え難い指令も発せられるので、日本政府関係者の御苦労は多かったのですが、日本政府・官僚側も言葉の壁を利用しながら頓知を使うなどして思考を巡らせ、様々な言論戦を繰り広げられながら新体制が整って行った背景がありました。


武装解除開始

さて、これよりマッカーサー元帥による政策がなされていきます。
(占領政策の基軸は「非軍事化・民主化」)

最初に武装解除と復員を徹底的に行います。
この武装解除は、物理的な武器を取り上げる事と、
精神的な武装を解除するという両側面がありました。

ジェームズ・バーンズ 米国務長官は、武装解除に関する事について、
9月2日に行われた「停戦協定文書調印式」終了後に声明しており、
この内容は新聞にて報道されています。

【資料6】昭和20(1945)年9月4日付
「朝日新聞」記事

【写真】日刊「朝日新聞」
昭和20(1945)年9月4日付記事

【新聞記事抜粋文に関する説明】
( ) カッコ内は筆者ちゅう
・当時の記事文のまま書いています。
・「◆」は漢字の画数が多く文字が潰れて判別できなかった箇所。
・当時使用されていた「きゅう仮名かなづかい」
 では、小さい「っ」は使わず、通常の「つ」の文字で表記されています。

【以下記事 抜粋文】

日本の精神的な武装も解除
 米國務長官 敎育の改變かいへん(変)強調
【ワシントン二日発 同盟(通信社)】
日本の降伏文書調印式終了にあたりバーンズ國務長官は次の聲明せいめいを発した

日本の物的ぶってき武装ぶそう解除かいじょ目下もっか進捗しんちょく中であり、われわれはやがて日本の海陸空三軍の佛拭ふっしょくと軍事資材、施設の破壊とにより日本の戰爭戦争産業の除去乃至ないし破壊とにより日本の戰爭戦争能力を完全に◆◆不明することが出るだう 日本國民に戰爭でなく平和不明させようとする第二段階の日本國民の「精神的武装解除」はある点で物的武装解除より一層いっそう困難こんなんである。

精神的武装解除はじゅうけん(剣)の行使こうしや命令の通達によつて行はれるものではなく、過去において眞理しんりを閉ざして壓迫あっぱく的な法律や政策のごとき一切の障碍しょうがいを除去して日本に民主主義の自由な発達を養成することにある

われわれは日本の校における極端な國家主義および全体主義的育を一掃いっそうすると共に戰爭指導者の軍事哲學てつがくを受け入れるに至った極端な日本國民の國家主義および全体主義的敎育を完全に掃蕩(掃討そうとう)するだう、われわれは日本に平和的傾向を有しかつ他の國家の権利を尊重するうな國民の全分子を基礎きそとする政府が出現することを期待するのである

聯合國(連合国)は かくして出現した日本政府が世界の平和と安全に貢献こうけんするかいなかを認定する裁判官の役目をつとめるのだ、われわれは言葉でなく実際の行動によつてこの日本政府を判断するのだ

日刊「朝日新聞」
昭和20(1945)年9月4日付
記事より抜粋
写真は当時の宮古島で行われた
武器の海中投棄の様子

本土や太平洋各地でも
同じような事が行われました。
(『太平洋戦争写真史 東京占領』より転載)

この武装解除は短期間で行われ、このように軍を解体させることは世界史上、先例のない事でありました。

武装解除などについては、昭和20(1945)年9月8日付の新聞で報じられていて、当時の「朝日新聞」記事(次項「情報統制開始」資料2記事内)によると、「マッカーサー元帥は、9月5日には日本政府に明確な命令を発し、完全武装解除の期日は10月10日と指定されている。」と報じられております。

米軍は徹底的に武器を奪っていったとのことで、日本軍は小銃などに刻まれた菊の紋章を削り取るよう兵士に要求したとのことでした。

【註】
終戦時の本土人口7千5百万の日本の軍事力は
5,795機の第一戦機を含む飛行機16.220機
燃料なしではありましたが空母4、戦艦1を含む軍艦88隻
 本土兵力 4,335,500
 外地兵力 3,523,900
  計   7,889,100
海外に展開していた日本軍の兵力は、約350万人。
中国本土112万人、満州66万人、朝鮮33万人、台湾19万人、
その他の太平洋各地には、約120万人がおられたとのことです。
【日本軍人 犠牲者】
陸軍・軍人の死者140, 429名(14万4百29名)
負傷・行方不明者295,247名(29万5千2百47名)
海軍・軍人の死者414,879名(41万4千8百79名)
負傷・行方不明者14,055名(1万4千55名)
軍人軍属の死者1,555,308名(155万5千3百8名)

参考文献:『太平洋戦争写真史 東京占領』
『写真でわかる事典 日本占領史』

この武装解除ついて、当時東日本に進駐していた第8軍
当時の司令官・アイケルバーガー中将は、昭和23(1948)年10月10日に米デトロイト市の商工会議所にて行われた昼食会の席で「われわれは日本人から300万艇の小火器、9万の火砲、数千の飛行機をとりあげた。日本は丸はだかになった。日本の武装を解除したわれわれは、あまりにも完全にやりすぎた」と述べられたとのことです。

【写真1】武装解除される日本軍
(昭和20年9/20日米軍撮影)
【写真2】皇居二重橋の前で何かを読み上げられている復員軍人と4人の少女たち
(昭和20年9/21日米軍撮影)

そして、大本営は9月13日、軍令部は10月15日、
参謀本部、陸軍省・海軍省は11月30日に廃止となり、
当時780万人の日本の軍隊は解体され、
10月15日には国内部隊約500万の復員が完了します。

完了後、マッカーサー元帥は全世界に向かって放送を行い
「歴史上、戦時、平時を問わず、かくも迅速かつ円滑に実施された復員のあったことを知らない」と述べられました。

このようにして、占領後約1カ月程度で日本国内地における日本陸軍の武装解除は終わり、武装解除までの間の日本国内は比較的おだやかな状態であったとのことでした。

この武装解除が円滑に行われていった背景には、
天皇陛下の将兵たちによる軽挙をいましめられた勅語が、
陸海両軍大臣をはじめ、軍将兵方へ下賜されていたことが大きな力となっており、この統一性を米国政府・米軍はおそれました。

【註】
海外には、軍人・軍属、民間人を含める生存者が、約660万人余りおられたとのことで、昭和22(1947)年12月31日までに624万人程の方々が復員・引揚げを完了したとのことですが、外国地にいた兵員、特にソ連の捕虜となった方々の帰国については、更なる年月を費やしました。

そして、9月20日には、緊急勅令「『ポツダム』宣言の受諾に伴い発する命令に関する件」が公布され、GHQの要求にかかわる事項を実施する際には、政府の命令を以て行う旨が発せられました。

【註】
この勅令は 陛下による御署名・御押印はなされておらず
ぎょめい ぎょ」とのみ記載されている文書となっております。
(上リンクの原本をご参照ください)

リンク元:『国立公文書館』webサイト

GHQによる「日本占領政策」の発表


武装解除を見届けた米国政府は、
9月22日
には米国務省により「降伏後における初期の対日方針」
という、日本の政策に関する最初の声明が発表されました。

これを受けて日本では、外務省を中心に日本語訳が作られた後、
9月24日付の各紙新聞にて全文が発表されました。

この文書の目的については、
当時の「朝日新聞」(【資料7】参照)記事によると

【ワシントン22日発SF=同盟(通信社)】
「降伏後の日本に関する米国の最初の政策」の全文書内容つぎの通り
本文書の目的

本文書は降伏後の日本に対する全般的な最初の政府に関する声明である。
本文書は大統領の承認を得て連合軍最高司令官および米国の関係各省その他の諸機関に対し指針として配布される。但し政策の決定を必要とする日本占領に関する一切の問題は取り扱われていない。諸問題は現在までに別個に取り扱われているか、あるいは将来別個に取り扱われることになろう。

「朝日新聞」昭和20(1945)年9月24日付
記事より引用

と述べられております。
その主な内容は、

日本国民は個人の自由および基本的人権の尊重、特に信教、集会、言論、出版の自由に対する希求を強めるよう助長され、民主主義的な民意を代表する諸組織を結成することを助長される。占領直後、信教の自由が宣言されるのみならず、同時に国家主義的および軍事主義的諸団体等の運動が、宗教の内部を保護するための構造の陰に隠れることが許されぬ旨、日本国民によって明らかにされよう(省略)人種、国籍、信教等、政見を理由として差別待遇を規定する法律、命令、規則は廃止され本文書に述べられてある諸目的ならびに政策と対立するものは廃止・停止もしくは必要な程度に修正される。

というようなものでありました。

【資料7】昭和20(1945)年9月24日付
「朝日新聞」記事

左上紫色の部分は春季皇霊祭に関する記事欄

上掲新聞記事写真の黄色でマーキングした個所に注目して頂くと、
「軍国主義」という文言が使用されております。筆者が当時の「朝日新聞」8~9月までの記事をざっと目を通して見ましたが、この辺りまで軍国主義という文言は見当たらなかったように思います(見間違い・勘違いならすみません)

また、こちらの朝日新聞に掲載されている「日本管理政策の正文」の内容は、英語で発表されたものを日本政府側が日本語に翻訳したものであるということなので
『国立国会図書館蔵・米国務省発表の原文「U.S. Initial Post-Surrender Policy for Japan(初期の対日方針)」文書』(リンク『国立国会図書館』webサイトより) 
②上掲「朝日新聞」掲載翻訳文
の以上2点を筆者が照らし合わせて読んでみましたところ

Militarismミリタリズム」は「軍国主義」
militaristミリタリスト」は「軍国主義者」
militantミリタント nationarismナショナリズム」は「軍国的国家主義」
ultraウルトラ-nationalisticナショナリスティック」は「超国家主義」
ultraウルトラ-nationalismナショナリズム」は「過激な国家主義」

と翻訳されておりました。

また、佐久田 しげる 編『太平洋戦争写真史 東京占領』によると、
「進駐軍」という用語は、8月19日「占領軍の第1目的は、混乱防止にある」という米陸軍省の見解を報じた「朝日新聞」記事にて使用されたのが初めで、「占領軍」の文言より「進駐軍」が一般化した背景には、「敗戦」を「終戦」と変換した時と同じように、現実認識を甘くする効果を持ったと述べられております。


情報統制開始(新聞・ラジオの検閲)

東京に進駐した翌日の9月9日
マッカーサー元帥は、日本管理方針に関する、
間接統治・軍国主義の根絶・自由主義を助長する声明を発表。
新聞・ラジオ放送の検閲を指示します。

このことについて、9月8日付の「朝日新聞」の武装解除関連と同記事内にて「新聞、ラジオは検閲を受けることになる模様で、このため特殊の訓練を受けた米軍の検閲班がすでに横浜に到着している」と報じられています。

【資料8】昭和20(1945)年9月8日付
「朝日新聞」記事

「朝日新聞」
昭和20(1945)年9月8日付記事より抜粋

そしてこれより情報統制がはじまります
9月10日には「言論及び新聞の自由に関する」覚書が通達され
米国軍による検閲が開始されます。

9月14日には、当時の日本で唯一の通信社であった
「同盟通信社」(昭和11(1936)年1月発足) は業務停止命令を受けて、
同盟通信社による、海外向けの外国語ニュースの配信は遮断しゃだんされますが、情報局総裁、同盟通信社長、放送協会長、日本タイムス社長が、放送協会内にあるマッカーサー司令部(以後GHQ)・情報宣伝本部を訪問して実情を説明した結果、翌15日正午には業務停止は解除されて活動が再開されますが、これ以後はGHQによる事前検閲がなされました。

GHQによる業務停止命令の件は各紙でも報じられ、各紙や出版界でも事前の緊急対策について考えられていくようになります。

9月18日には 、「朝日新聞」の9月15日以降の記事で占領政策にふれる記事があるとして、午後4時から48時間発行停止処分を受けて19、20日付の新聞が休刊となりました。

9月19日には日本に与える新聞遵則に関する」通称「プレス・コードに関する覚書」覚書を日本政府に発令して、連合国・占領軍に不利となる報道、日本側の意見を国民に宣伝するようなことなどが禁止され、原爆に関する報道などをした新聞社を発刊停止処分するなどがなされます。

写真は「朝日新聞」
昭和20(1945)年9月8日付の紙面で
報じられていた原爆関連記事

【註】
その他にも学校教科書では教科書検閲基準が適用され「国体・国家・我が国」という言葉の使用は禁止され、日本神話をはじめ皇室・皇族の歴史や
神社関係などのことについて教えることは禁止されました。

新聞の事前検閲は、最初の1カ月の間は「ニッポンタイムス」紙のみが事前検閲されていたそうなのですが、10月9日からは「朝日」「読売」「読売報知」「日本経済」「東京」新聞の5紙の事前検閲もなされるようになり、
その後、東京40紙、大阪10紙、地方60紙でも事前検閲がなされるようになります。

検閲の仕方は、新聞が印刷される出版前に、すべての記事の試し刷りゲラ刷りをGHQ各検閲班へ提出後「許可・不許可、保留、削除」の朱印が押されて戻ってくるという形式で、広告も検閲の対象となりました。

9月22日には「ラジオ・コードに関する覚書」(通称「ラジオコード(ラジオ遵則)」) の通達がなされ、9月23日には「米軍部放送組織 AFRS」が開設されました。
  
そして9月24日には新聞・通信社に対する政府の統制廃止政府から新聞を分離する件」、
27日
には「新聞言論の自由に関する追加措置」の覚書通達がなされました。

この「新聞言論の自由に関する追加措置」では、出版物、映画、郵便、電信電話などに対する「戦時諸法令」の廃止がなされ、戦時に公布施行された、
新聞紙法、国家総動員法、新聞紙等掲載制限令などの13の諸法令は撤廃され、言論に関する一切の制限令が撤廃されました。

このことにより「同盟通信社」は自発的に解散。
「朝日新聞」「毎日新聞」「読売新聞」の3社など全国14新聞社の代表と
「日本放送協会」が設立委員となって、昭和20(1945)年11月1日に社団法人「共同通信社」が設立され、同時に業界などへ通信を提供する「時事通信社」も設立されて現在に至っております。

また戦時中、新聞の統制機関であった「日本新聞公社」も解散して、
「日本新聞連盟」(翌21(1946)年10月に新聞共販連盟へ改組) が発足。
翌年の昭和21(1946)年7月には、全国の新聞が集まって
「日本新聞協会」が設立されました。

【註】
昭和20(1945)年12月に発表された戦犯容疑者名簿のなかには、新聞関係者の名前があり、のちにGHQより行われる「公職追放」では、戦時中に新聞社の要職であった351名は公職から追放されました。

ラジオ放送では、9月9日には、戦後はじめて軽音楽と歌謡曲が流れるようになり、9月19日には「実用英語会話」がはじまり、9月23日には敵性音楽と規制されていたジャズやダンス音楽が流れ始め、9月29日には、市民参加のインタビュー番組がはじまります。

 ちゅう
当時はテレビもインターネットも無い時代で、ラジオ放送と新聞が主要な情報源でした。動画映像は映画館で視聴するのが一般的で、毎週映画館にて映像のニュースが放映されていました。
テレビ放送は、8年後の昭和28(1953)年になってから開始されます。


戦争犯罪人の逮捕命令下る

9月11日、戦争犯罪者として東條元首相ほか38名の逮捕命令が発せられました。

当時、戦争犯罪者として挙げられた数千人の軍部および民間指導者の名簿が米国により作成済みであるとの内容が新聞で報じられ、誰が戦争犯罪者に指名されるのか、また、どのような刑が科せられるのかについては占領軍によって決められることであったので、日本の指導者層をはじめ全国民が不安と恐怖に追い込まれていったとのことで、この後、政府・軍関係者で自決する方が相次ぎました。

【資料9】昭和20(1945)年9月12日付
「朝日新聞」記事

「朝日新聞」
昭和20(1945)年9月12日付記事
上記事より抜粋

【資料10】昭和20(1945)年9月15日付
「朝日新聞」記事

相次ぐ自決の報道

「朝日新聞」
昭和20(1945)年9月15日付記事

東条英機 元首相 自決未遂

逮捕命令が発せらた9月11日の午後2時、拘引(こういん)のため
東条邸を訪れた米官を外に待たした状態で、東條元首相はピストル自決をされましたが即死には至らず、突入した米軍の応急処置と治療により一命をとりとめます。

翌9月12日付の「朝日新聞」記事によると、この時に何か言おうとされている東条元首相のお言葉を記者が傍で聞いたとあり、その内容が掲載されております。

【資料11】

上掲【資料9】「朝日新聞」
昭和20(1945)年9月12日付記事より

【以下記事一部抜粋】

 【東条大将の遺言】
一発で死にたかった。時間を要したことを遺憾に思う。大東亜戦争は正しい戦いであった。国民と大東亜諸民族には実に気の毒である。十分自重して大局の処置を誤らぬことを希望する。責任者の引き渡しは全部責任を負うべきである― 復員することは更に困難なことである― 法廷に立ち連合国の前に裁判を受けるのは希望するところではない。むしろ歴史の正当な批判につ―  切腹を考えたが、ややもすれば間違えもある。ひと思いに死にたかった。あとから手を降して生きかえるようなことはしないでくれ。

陛下の御多幸を行く末までお守りして、どこまでも国家の健全な発展を続けることが出来れば幸いである。責任者としてとるべきことは多々あると思うが、勝者の裁判にかかりたくない。勝者の勝手な裁判を受けて国民の処置を誤ったら恥辱だし、家の事は広瀬伯爵にまかせてある。その通りにやればよい。家のことは心配ない。

天皇陛下万歳、身は死しても護国の鬼となって最期を遂げたいのが願念である。不明山水をくれ―  腹を切って死ぬことは知っているが、間違って生きたくはない。

責任は了した。死体は引渡したらよい。俺の死体はどうなってもよい。遺族には言い渡してある。死体は遺族に引渡さなくともよい。しかし見せ物ではないとマッカーサーに言ってくれ。

上掲 「朝日新聞」
昭和20(1945)年9月12日付
写真記事文より抜粋


そしてその後の9月24日には「戦争犯罪人規程(BC級)」が発表されました。


神社に奉納された刀剣 米軍に持ち去られる

9月14日には、民間にある銃砲じゅうほう刀剣とうけん等の提出命令が発せられます。

この命令により、神社に奉納されていた刀剣も対象となり、
米将兵により神社所有の刀の数々が宝物庫から持ち去られていきます。
神社が御霊代みたましろとしている神剣まで持ち出そうと、占領軍の係員が神殿の開扉かいひせまったり、土足で社殿の中に入って没収ぼっしゅうするといった事が、全国の神社で相次あいつぎました。

当時の神職方の懸命の努力で未遂に終わった話などがあり、
このような事例が起きた理由については、大東亜戦争を通じて日本兵の勇敢さを目の当たりに見て、国家神道というものが日本人を強く勇敢にさせたと同時に日本人を狂信的な戦闘にかりたてていた源であるとみて、神社に奉納された刀剣等も武器として押収するに至ったといわれております。


天皇陛下 マッカーサー元帥との初会見

天皇陛下は宮中三殿にて
9月3日「戦争終結親告しんこく
9月23日「秋季しゅうき皇霊祭こうれいさい」を
親祭しんさいあそばされました。

そののちの9月27日の午前中には
マッカーサー元帥の居住場所、赤坂・虎の門にある
「アメリカ合衆国大使館」(地図リンク)を御訪問あそばされます。

この時、石渡 荘太郎 宮内大臣、藤田 尚徳 侍従じじゅう長、
かけい 素彦 行幸ぎょうこう主務官、通訳の奥村 勝蔵 外務省参事官など6名がずいこうされました。

そして天皇陛下、マッカーサー元帥、通訳の奥村参事官のみで37分ほどの会見がなされました。

【写真】会談がなされたお部屋
杉田 米行よねゆき『GHQカメラマンが撮った 戦後ニッポン』
(アーカイブス出版、2007年5月)より転載

この時の会見のご様子につきまして、筆者が参考にした文献では、

(1)奥村勝蔵 参事官「『マッカーサー』元帥との御会見録」
奥村参事官が会見直後に宮内省・外務省に提出したレポート。昭和50(1975)年『文藝春秋』(11月号)にて、作家・児島 のぼる氏によって発表。
平成14(2002)年に、宮内省・外務省より公開された文書。
「奥村元外務次官談話記録」
奥村参事官が後年、人に洩らした話が記録されたもの。
【註】「奥村元外務次官談話記録」は、小堀 桂一郎『昭和天皇』にて、『昭和の民のこころ』所収と記されております。筆者はこちらまで辿り着けておりませんがおそらく、天皇陛下御在位六十年奉祝委員会 編『昭和の民のこころ』(天皇陛下御在位六十年奉祝委員会、昭和62(1987)年) に所収されているものと思われます。

(2)藤田 尚徳 侍従長が「忘備録」としてまとめた話
奥村参事官が会見直後に宮内省へ提出したレポート(外務省にも提出されている)に目を通した同侍従長が、昭和36(1961)年10月、当時の記憶に基づいて
陛下の御発言の内容を公表したもの。当時のレポートついて「宮内省の用箋ようせんに5枚ほどあったと思う」と述べられているとのこと。

(3)重光 まもる外務大臣(当時)が「読売新聞」に寄稿した
「天皇陛下を賛えるマ元帥ー新日本産みの親、御自身の運命問題とせず」
(昭和30年9月14日付「読売新聞」に掲載)

重光外相が昭和30(1955)年夏に日米会談で渡米した際、マッカーサー元帥を訪問。約1時間会談した際に語り聞かされた話をまとめて寄稿したもの。


(4)マッカーサー元帥の専任通訳で副官のフォービアン・バワーズ少佐
が証言した、会談直後に元帥から聞いた話。
以下は証言動画。視聴時間 約1分

配信元:『YouTube chiwassu3923 チャンネル』

(5)マッカーサー元帥の著書『マッカーサー回想記』
元帥84歳死の直前に完成した回想記。昭和39(1964)年に米Time社より刊行。
この回想記は「朝日新聞」にて、昭和39年1月6日から6月23日まで間、
計169回に渡って全体の3分の1が抄訳しょうやくされて掲載。
のちに翻訳された書籍が日本でも刊行された。

以上が参考にされて、まとめられております。
それぞれのお話で言葉の表現が異なりますので、明確は御発言は定かではありませんが、以上などを踏まえまとめたお話をいたします。

会見では、奥村参事官による通訳を通してお話がなされ、
マッカーサー元帥が力強い語調で20分程の雄弁をふるった後、
陛下は「責任はすべて私にある」としてお話なされております。

(1)奥村勝蔵 参事官による御会見録

「奥村元外務次官談話記録」
(奥村氏が後年、人に洩らした話が記録されたものによる)
陛下は「今回の戦争の責任は全く自分にあるのであるから、自分に対してどのような処置をとられても異存はない。次に戦争の結果 現在国民は飢餓に瀕している。このままでは罪のない国民に多数の餓死者が出るおそれがあるから、米国に是非食糧援助をお願いしたい。ここに皇室財産の有価証券類をまとめて持参したので、その費用の一部に充てて頂ければ仕合せである」と仰せられて、立ち上がって大きな風呂敷包を元帥の机の上に差し出された。それまで姿勢を変えなかった元帥がやおら立ち上がって陛下の前に進み、抱きつかんばかりにして御手を握り、「私は初めて神の如き帝王を見た」と述べて、陛下がおかえりの時は、元帥自ら出口までお見送りの礼をとった。

(2)藤田 尚徳 侍従長が「忘備録」としてまとめた話の一部

陛下が元帥に仰られた御言葉の一部
「敗戦に至った戦争の色々の責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武ぶんぶ百官ひゃっかん(筆者註:全ての役人)は私の任命するところだから、彼らに責任はない。私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委ねする。このうえは、どうか、国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい。」

(3)重光 まもる外務大臣(当時)が「読売新聞」に寄稿した手記の一部

マッカーサーは、
「数千年の世界歴史のなかで、民族は興っては亡びということをくりかえしてきました。しかし、そのなかで国民を庇って自分の命を捨てようという君主のあることを知らなかった。・・・私は戦前には、天皇陛下にお目にかかったことはありません。初めてお会いしたのは、東京の米国大使館であった。どんな態度で、陛下が私に会われるかと好奇心をもってお出会いしました。しかるに実に驚きました。陛下は、まず戦争責任の問題をみずから持ち出され、つぎのようにおっしゃいました。

『私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにもまた事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分の運命について貴下の判断が如何様なものであろうとも、それは自分には問題ではない。構わずに総ての事を進めていただきたい。(go ahead!) 私は全責任を負います。』
これが天皇の御言葉でした。

私はこれを聞いて、興奮のあまり陛下にキスしようとしたくらいです。
もし国の罪をあがなうことが出来れば進んで絞首台にのぼることを申し出る、という、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます深まるばかりでした。

陛下はご自身にたいして、いまだかつて恩恵を私に要請したことはありませんでした。と、ともに決して、その尊厳を傷つけた行為に出たこともありませんでした。どうか日本にお帰りの上は、自分の温かいご挨拶と親しみの情を陛下にお伝えください。その際、自分の心からなる尊敬の念をも同時にささげてください・・・」

等々を重光外務大臣に打ち明けられたとのこと。


(4)マッカーサー元帥の専任通訳で副官のフォービアン・バワーズ少佐
の証言の一部

少佐が会見直後に元帥から聞いた陛下の御言葉の一部
「すべての事は私の名のもとになされたのだから私が全責任をとる。だから、東郷や東條や重光らを罰さずに、私を罰せよ。と仰せられた。」

(5)『マッカーサー回想記』の一部

私が東京について間もないころ、私の部下たちは、権力を示すため、天皇を司令部に招き寄せてはどうかと、私に強くすすめた。私はそういった申し出をしりぞけた。
「そんなことをすれば、日本の国民感情をふみにじり、天皇を国民の目に殉教者に仕立てあげることになる。いや、私は待とう。そのうちには、天皇が自発的に私に会いにくるだろう。いまの場合は、西洋のせっかちよりは、東洋の辛抱強さの方がわれわれの目的にはいちばんかなっている」というのが私の説明だった。

実際に、天皇は間もなく会見を求めてこられた。モーニングにシマのズボン、トップ・ハットという姿で、裕仁天皇は御料車のダイムラーに宮内大臣と向かいあわせに乗って、大使館についた。

私は占領したはじめから天皇の扱いを粗末にしてはならないと命令し、君主にふさわし、あらゆる礼遇をささげることを求めていた(略)私は天皇が戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴えはじめるのではないか、という不安を感じた。連合国の一部、ことにソ連と英国からは、天皇を戦争犯罪者に含めろという声がかなり強くあがっていたからだ。現にこれらの国が出した最初の戦犯リストには、天皇がいちばん先に記されていたのだ。

私は、そのような不公正な行動が、いかに悲劇的な結果を招くことになるかが、よくわかっているので、そういった動きには強力に抵抗した。ワシントンが英国の考えに傾きそうになった時には、私は、もしそんなことをすれば、少なくとも百万の将兵が必要になると警告した。天皇が戦争犯罪者として起訴され、おそらく絞首刑に処せられることにでもなれば、日本に軍政をしかねばならなくなり、ゲリラ戦がはじまることは、まず間違いないと私はみていた。結局天皇の名はリストからはずされたのだが、こういったいきさつを、天皇は少しも知っていなかったのである。

しかし、この私の不安は根拠のないものだった。
天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。

「私は、国民が戦争をなしとげるにあたって、政治、軍事両面でおこなったすべての決定と行動に対する、全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国のさばきにゆだねるためにおたずねした」

私は大きい感動にゆさぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知りつくしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引きうけようとする。

この勇気にみちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じとったのである。

(略)天皇との初対面以後、私はしばしば天皇の訪問をうけ、世界のほとんどの問題について話し合った。私はいつも、占領政策の背後にあるいろいろな理由を注意ぶかく説明したが、天皇は私が話しあったほとんど、どの日本人よりも民主的な考え方をしっかりと身につけていた、天皇は日本の、精神的復活に大いに役割を演じ、占領の成功は天皇の誠実な協力と影響力におうところが極めて大きかった。


また、随行していた、かけい 素彦 行幸ぎょうこう主務官は、著書『今上陛下と母宮貞明皇后』(日本教文社、昭和62(1987)年)にて、「先刻までは傲然ごうせんとふんりかえっているように見えた元帥が、まるで侍従長のような、鞠躬如(きっきゅうじょ)として、とでも申したいように敬虔けいけんな態度で、陛下のやや斜めうしろとおぼしき位置で現れた」と述べられています。

このようにして初会見は終わり、GHQにより記念写真が撮影されました。
これ以降、翌年の昭和21(1946)年から昭和26(1951)年4月15日までの間に
計11回の会見がなされました。

会見の写真報道

天皇陛下とマッカーサー元帥の初会見について、
主要各新聞社は、宮内庁発表の記事とGHQ提供の会見写真とをあわせて掲載して翌28日の紙面で報じようとしましたが、お写真をはじめ
陛下と米人記者との応答を掲載することは不敬だとして、内閣情報局は発売禁止処分を下します。このことにより28日付けの各新聞紙面では、
会見写真・米記者との応答記事は無掲載で報じられました。

提供した会見写真が掲載されていないことを不審に思ったGHQは、
翌29日に会見写真を掲載した新聞に対する、政府の発禁処分の取消しを指示。「戦時諸法令」廃止の指令を発しまして、9月27日まで遡って言論に関する一切の制限令撤廃を指令。検閲、監督権がGHQに移されます。

この指令を受けて、会見時のお写真等は29日に各新聞で改めて掲載されました。天皇陛下とノーネクタイ姿で腰に手を当てているマッカーサー元帥が並んでいるお写真は、当時の国民にとって「おそれ多い」とショックを与えました。

【資料12】昭和20(1945)年9月29日付
「毎日新聞」記事

「毎日新聞」
昭和20(1945)年9月29日付記事
当時の横文字見出しは右から左へと読みます。

上掲「毎日新聞」記事には、9月25日に東京滞在中の米国UP通信社長のヒュー・ペリー氏とニューヨーク・タイムス紙太平洋方面支配人のフランク・クルックホーン氏が前後して単独えっけんおおせ付けられまして、当日ペリー氏は25分にわたって謁見。その時の手記が掲載されています。

【以下記事文一部抜粋】

米國UP通信社長ヒュー・ペリー氏手記
廿二十五日記者は 天皇陛下にえっけんおおせけられたが 
陛下は記者がまえもって提出申上げて置いた質問書にたいし書式を以て 
とうべんあそばされ
『日本はいまや全く新しい立場に立つてる、日本は際社の一員となる資格のあることを證明しょうめいするであう』とおおせられた

陛下はつづけてそうばんはったつするであう日本の民主主義的な政治形體けいたいは必ずしも米英の民主主義の型をそのまとうしゅうしないかも知れぬ、
しかし 陛下の臣民が民主主義的な政府の價値かちを十分理解するうになることは 
陛下の御希望であり御意志である旨おおせられた、

また陛下は『日本はいま食糧に極めて困難してる』と仰せられたが
陛下はすうひゃくまんの日本人が衣服、住居、燃料を持たないるべき冬を痛く軫念しんねんになつて

鄭重ていちょうな御態度 謁見えっけん廣範圍こうはんいな御話題
宮中のつづきしたがの質問は謁見をたまる数日前に文書にして提出されたが、余が宮内省を立ち去るとき右の質問と文書にしたためられた
陛下の御答弁が余に手渡された謁見は廿五25分間つづいたが、
その間お茶のきょうおうがあり、その謁見中、陛下は 陛下が近くマッカーサー元帥と御会見遊ばされる御ていであるとおおせられた

えっけんおおせけられたのは午後四時かつきりであり、四時廿五25分に記者はぜん退たいした、しょう四時、謁見室の二重扉が開かれ 陛下がフロックコートを御着用になつてましになつた、しまズボン、少しやわらのカラー、そして蝶ネクタイをけ遊ばされてた、石渡 宮相、藤田 侍従長、武井 式部長官がぞくじゅうして現れた、陛下はかたわらに小さな茶卓を配した大きい御椅子に御着席遊ばされ、記者は 陛下を御正面にしてり傍らに小さな茶卓を配した大きな椅子に着席した、属従の三人もそば近くそれぞれかたわらに小茶卓を配した椅子に腰を下したが、外務省の奥村勝蔵氏による通訳で進められる 
陛下との謁見中には三人は発言することをさしひかえて

謁見は宮城きゅうじょう内の宮殿の一洋間で行れた、そのはフランス製の家具と日本の花瓶、ついたてが並び 
陛下がぎょくを御運びになつた扉の上には飾りのない時計が掛つてた、元の謁見室は不明日本式にしつらられてゐたとうけたまわるが、それは爆撃で破壊されたのである

記者は謁見に先たち宮殿が空襲によつて破壊され居住不可能になつてらい 
陛下が宮城きゅうじょう内の仮御殿できょ遊ばされてよしを承つた、ひろい宮城庭園内の諸建築物はその半分が破壊されてゐると推定される、
記者は外務省のうら 書記官にともなれ坂下門からさんだいした、この御門は以前の公式通用御門が破壊のために通行できなくなつたので宮城きゅうじょう内に入る正面入口として現在使用されてゐるのである

事前交渉通り時間定表には何らの故障もなかつた、た門の所で米軍のしょうが米憲兵司令官発行の通過証を調べ更にとうちょく将校を呼んで記者の通過証をぎんさんだい目的を質問する間のちよつとの遅延があつただけである、
記者が直士官に誠意をれきし 陛下が四時に記者に謁見、ちゃたまていであるといふ証言をもつて十分納得させる間、じゅうけんを持つた二人のヘルメット姿の米しょうは記者の自動車の窓から中をぎょうしてた、だが豫定の時間も次第に迫って來たので遂に通過することを許されたのであつた

謁見中米國機は何となく宮城上空へらいした、その頭上近い低空飛行ぶりは謁見室の内部からもめいりょうに聞きとれた、きゅうじょうに近づき、われわれがかしこどころの反側の点を通過した時、記者の案内者は脱帽した、宮城内に参入したとき われわれの出しゃのすべてはていねいそうちょうこうべれた、われわれが車を下りた建物のくるまよせからの上り口は深々とじゅうたんいた階段になつてり、そこから多くの長い廊下をつたつて行くと数にわたつて侍者が深くこうべれた、お茶のかいばいせきたまつた人々はすべてフロックコート姿をしてをり、記者だけが従軍特派員の制服を着用してゐた

陛下の御態度は御ていちょうであり、何らのおへだてもなく、おりもはいせられなかつた、御話は通訳を通じてよどみなくすらすらと流れ出るがごとく拜した、通訳が英訳したり、日本語訳したりするとき、
陛下は屢々しばしば御なごやかに御微笑をらされ、またうなづかれた、正式の質問にする御おうとうに加へて御談話はその御話題もこうはんにわたり、その多くは御鄭重なる御言葉に拜せられた

陛下には記者が日本訪問は初めてであることを御承知あり、記者に第一印象をおたずあそばされた、記者が御返答申上げると 陛下には、現在のやうな状態では日本の最善の印象を得る好い時期ではないと仰せられた、つづいてゴルフ、野球、生物に話題に上り 
陛下には生物學は陛下の御専攻ではなくた御趣味に過ぎないと仰せられたが 陛下には戰前に生物學実験室を御持ちになり御自ら実験を進められたことは周知のことである

陛下には御見中數(数)回にわたり恒久的平和確立をねつぼう遊ばされる旨強調され平和確立に全力をつくしたいと仰せられた

【註】濃い所は文字が大きく表記されている個所

「毎日新聞」
昭和20(1945)年9月29日付
記事より一部抜粋

東久邇宮首相殿下 マッカーサー元帥と会談

東久邇ひがしくにのみや首相殿下は当初、8月30日厚木で元帥をお出迎えあそばされるおつもりだったそうなのですが、連合国側から「日本側の出迎えは一切不要」との通達があったため実現しませんでした。

そして9月15日になって、ようやく会談が実現します。
首相宮殿下は、米軍により接収された「横浜関税本庁舎 (現在:横浜税関)」に置かれていた当時の総司令部へ元帥のもとを公式に御訪問なされます。
この時の会談は約50分行われ、元帥はお部屋の入口で首相宮殿下をお出迎えなされたのち、親しくお話をされたとのことでした。

殿下は、「ポツダム宣言を忠実に実行し、平和新日本を建設するために努力したい」旨など述べられ、元帥は、「敗戦国の政治はもっとも困難なことで、その再建には大なる忍耐と努力が必要であるから、総理大臣は一層努力して、この難局を処理してもらいたい」等々述べられたとのことで、
最後はお部屋の入口で握手されたとのことでした。

その後、殿下は9月29日に東京に移られた元帥のもとを再度御訪問なされまして、「私は封建的遺物である皇族であるから、私が内閣を組織していることは民主主義の見地からいけないのではないか。もし元帥が不適当とみられるならば、率直にいけないと言ってください。私は明日にでも総理大臣をやめます」と申され、元帥は参謀長としばらく小声で話しあったのち「あなたの思想、現行は非民主主義とは思われない。現にあなたが総理大臣を務めているのは、現実に封建的ではなくて、もっとも民主主義的のことである。あなたは続いて総理大臣を務めるべきでしょう」などというようなお話がなされたとのことでした。

また、9月18日には首相官邸の大広間にて、約100名の外国人記者団との初会見がなされ、首相宮殿下はインタビューに応じられました。

この時に、米記者より「米軍飛行士に対する処刑問題、捕虜の虐待に対する問題、戦争責任のあり方を追求する」ことなど、鋭い日本語で通訳される質問がなされ、殿下はこれらの質問にお答えされるため、たいへん骨を折られたとのことでした。

このとき殿下は、米記者へ日本に対する感想を聞かれました。
そうすると「空襲による破壊の跡が想像を超えてひどいのに驚いた」
「一般民衆が戦争の原因や経過について何も知らないのを不思議に思った」「日本の婦人が各方面に進出しており、すこぶる優秀なのに感心した」
というような感想が述べられたとのことでした。

そして最後に、「今日は裁判所で私がじんもんされいるようだったが、次回からもっとくつろいでやりましょう」と御挨拶されて一同の笑いを誘ったとのことでした。

また、首相宮殿下は8月31日付の新聞を通じて
国民に向けて「嬉しいこと、悲しいこと、不平不満、私事、公の問題でもなんでもよろしいので、率直に真実を書いて直接手紙を戴きたい」旨のメッセージを掲載されました。

こちらの呼び掛けに対する反響は大きく、投書数は多い日で1日2000通届くこともあったそうで、殿下は毎日登庁されるとお手紙に目を通され、
読み切れない分は御自宅に持ち帰ってお読みになられたとのことでした。

お手紙の中でいちばん多かった要望は「食糧問題」で、
その他にも「衣服・住居の問題や学校に関すること、戦災家族の復帰など」の要望が多かったとのことで、首相宮殿下はこれらの問題に精力的に取り組まれ、すぐできることは直ちに対処なされました。
(竹田 恒泰『語られなかった皇族たちの真実』による)

今回のお話は以上となります。
ご拝読ありがとうございました。拜

お話の続きは こちら


【参考文献】

(発行年の書き方は書籍による)
葦津 珍彦神社新報編集室記録(神社新報社、昭和31年5月)
神社新報企画・葦津事務所編神社新報五十年史(上)(神社新報社、平成8年7月)
神社新報創刊六十周年記念出版委員会編戦後の神社・神道-歴史と課題-(神社新報社、平成22年2月}
神社新報社編神道指令と戦後の神道(神社新報社、昭和46年7月)
神社新報政教研究室編近代神社神道史(神社新報社、平成元年7月)
神社本庁研修所編わかりやすい神道の歴史(神社新報社、平成19年6月)
葦津珍彦選集編集委員会編葦津珍彦選集 第三巻(神社新報社、平成8年11月)

吉田茂伝記刊行編集委員会編吉田 茂(明好社、昭和44年12月)
栗田 直樹緒方 竹虎(吉川弘文館、平成13年3月)
小堀 桂一郎『昭和天皇』(PHP研究所、1999年8月)
出雲井 晶『昭和天皇 ―「昭和の日」制定記念―』(産経新聞出版、平成18年5月、第7刷)
竹田 恒泰『語られなかった皇族たちの真実』(小学館、2006年1月)
福永 文夫『日本占領史 1945-1952』(中央公論新社、2014年12月)

【写真等参考文献】
佐久田 しげる 編『太平洋戦争写真史 東京占領』(月刊沖縄社、昭和54年9月)
袖井そでい 林二郎りんじろう・福島鑄郎じゅろう『図説 マッカーサー』(河出書房新社、2003年10月)
佐藤 洋一(文・構成)『米軍が見た 東京1945秋 終わりの風景、はじまりの風景』(洋泉社、2015年12月)
平塚 柾緒まさお『写真でわかる事典 日本占領史 1945年8月-1952年5月』(2019年5月、PHPエディターズ・グループ)

【参考新聞関連】
「朝日新聞縮刷版 [復刻版] (昭和20年下半期)」
池田 一秀 編『新聞復刻版 昭和史下 激動編』(研秀出版、1978年1月)
羽島 友之 編『新聞の歴史3 現代の新聞』(日本図書センター、1997年2月)