ごきげんよう。
この連載は、戦後より神道ジャーナリスト・神道の防衛者として活躍。
ペンを武器に言論戦を闘い抜き、戦後の神社界に大きな影響を与えるなどの活動をされた昭和期の思想家・葦津 珍彦氏について、卒業論文に基づいたお話です。
今は、昭和20(1945)年・終戦直後のお話。
これより、葦津氏が神社本廰の設立に向かって携わって行かれる
お話。各月ごとに分けて神社本廰が創立されるまでのお話をいたします。
【前回の話】
初見の方へ
葦津 珍彦氏は
(明治42(1909)年7月17日~平成4(1992)年6月10日)
福岡市に鎮座する八幡宮に代々奉仕する神職の家(社家)の一家系出身者の
葦津 耕次郎氏の長男として福岡で生まれ、10歳の時に東京へ転居。
中学生の時に独創的な思想家になる事を志して独学。
種々の主義思想を比較研究をしている最中、社会主義思想と出会い興味をもったことから約8年間社会主義思想研究に没頭するなど経て、自身の思想の方向性を固めたのち、昭和7(1932)年より父君の保守言論活動に助手として協力。父君が創業運営する社寺工務所を引き継ぎながら、政策に関する独自の考えも踏まえての言論活動をしておりました。
葦津 珍彦氏の話
はじめに
葦津氏は、戦前・戦中と政府の政策に対して物申す抵抗活動をされ、
主に日独伊三国同盟に反対、東条内閣の言論統制などを糾弾する活動をされておりました。
この時に憲兵に逮捕され入獄されたり、自身が運営する社寺工務所の営業を妨害される弾圧を受けたりしておりましたが、屈さず抵抗活動を続けられました。
この時の葦津氏は、政府による検閲がなされていたことや目を付けられていたこともあって、複数のペンネームを使用して、主に小新聞・雑誌・自費出版書にて警告文を発表するなどして政府・神道関係者をはじめ多くの人に訴える言論活動や、親交者が大臣を務められた事により政府関係者へ持論を進言するなどしておりました。
そうした中で、連合国が日本国への最後通告として降伏するよう要求した
「ポツダム宣言」に記されている条文の一内容[以下資料1(10)の濃い個所]を独自に解釈した結果、連合国によって「神道・神社が抹殺されていくこと」を先読みされ、今後は神社を護るための活動に専念する決意をされました。
【資料1】「ポツダム宣言」(訳文)
そして「ポツダム宣言」を受諾する事が決定したのち
昭和20(1945)年8月15日正午より、NHKラジオ放送を通して「玉音放送」がなされたあと、神社の鳥居だけでも残したいとの目標を設定して単独行動を開始します。
この行動理由について、葦津氏は著書「老兵始末記」の中にて、以下のように述べられております。
また、御子息の泰國氏は、自身のブログにて、
当時の珍彦氏について、以下のように述べられております。
終戦直後・葦津氏の初動
葦津氏(当時36歳)は、以上の決意を踏まえて
昭和20(1945)年8月15日以降より
連合国軍 最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥(当時65歳)が日本に来る前に精一杯の対応を進めておきたい、と早速に単独行動を起こします。
その手始めに、8月17日に再入閣された
緒方 竹虎 国務大臣 兼 内閣書記官長 兼 情報局総裁大臣(のち自由党総裁)のもとを訪ねまして、「『ポツダム宣言』受諾後でも、条件について交渉の余地はまだある。」と進言されます。
そして「ポツダム宣言」にある、「宗教・思想の自由」は、神社を自由の障害としていると理解することができるので、この宣言に条件をつけずに承諾すれば、日本の国柄は必ず変更され、憲法の改正もしてくるので、神社の存続も危機に立たされるであろう。」というような、自身の解釈による危惧を伝えました。
この話を聞いた緒方大臣は、葦津氏の意見に同意して、急遽、首相の名義で東大教授等の憲法学者数名に諮問(しもん)したところ、「憲法への干渉は、まったくない。」と断言されたとのことでした。
緒方大臣は、次に、山崎 巌内務大臣に
「事前に手を打つべきだ。」と勧めたそうなのですが、
神祇院※(元神社局)を所管する内務省(現在:総務省)も「そのような懸念は、絶対にない。」として、緒方大臣の意見を受け入れることはなかったとのことでした。
この話を緒方大臣から聞いた葦津氏は、これ以上政府に頼っていては間に合わなくなると判断され、即刻、親戚と祖父・父君の代より交際のある「神社関係・民間三団体」の基柱人物のもとを訪ねます。
【主な基柱人物】
①財団法人・大日本神祇会(元全国神職会)の重鎮である、
親戚の高山 昇 長老。
②財団法人・神宮奉斎会(元神宮教)の宮川 宗徳 専務理事。
③財団法人・皇典講究所(のち國學院大學)の吉田 茂 専務理事。
(元首相ではありません。同姓同名の別人)
拙論「関係主要人物のご紹介」にて、各方の略歴・お顔写真がございます。
お知りになりたい方は、こちらをご参照ください。
この時に葦津氏のお話を聞かれて
高山 長老は、即座に了承。
宮川 専務理事は、即座に協力することを約束。
吉田 専務理事は、この時には快い返事はしなかった。
とのことでした。
そして、葦津氏によるこの相談の後は、
東京に居る「神社関係・民間三団体」関係者の間で、情報交換や対策への意見交換が始まりますが、しばらくは占領してくる米軍の様子を伺うことしかできなかったので、それぞれが対策準備を整えるための研究が開始されます。
9月の葦津氏の動き
そして9月に入り、葦津は再び緒方大臣のもとを訪ね、
「日本軍が武装解除された後に、米国軍は日本政府に干渉してくるであろうことを予測して、日本軍が武装解除される前に安全な対応を少しでも進めておくべきだ」と進言されました。
9月半ばには、吉田 専務理事の目白の自宅を訪問して
「神社界独自での対応を急がねばならないため、大臣・官僚経験のある吉田氏の指導と協力が必要だ。」と再度依頼され、この時に吉田氏は協力をすることを約束されました。
また、明確な資料を見たわけではありませんが、
葦津氏のこれまでの行動を踏まえると、この頃には後に配布する
「神社界新体制組織構造の私案」を作成するために、様々な参考資料を読み漁りながら思案されておられたであろうと推測します。
今回の葦津氏のお話は以上となります。
9月の国内の情勢の話
8月末より本格的に米国軍による日本国内の占領が開始。
9月2日には、連合国との「停戦協定文書」の調印式が行われ、
正式に「ポツダム宣言」を受諾しました。
これより言論戦等へと突入していきます。
9月5日には、国会議事堂で行われた臨時議会にて、
東久邇宮首相殿下より、敗戦報告の御演説がなされまして、これより国内の情勢は目まぐるしく変わって行きます。
この頃の東京の様子
この頃の国内の通信手段は、主に有線電話・電報・郵送による手紙でした。また、固定電話を所有している家庭は少ない時代でありました。
日本占領後の米軍部隊・第8軍の調査によると、戦災で日本の電話線の25%が破壊されていたため、全国で75%が不通状態。東京・横浜などの大都市の被害は50%で東京では20万台あった電話のうち通信可能なものは5万台だったとのことで、東京でも電話がほとんど繋がらず、電車も不通のところが多かったため、当時の国内は即時の連絡手段等に不便しておりました。
占領軍の通話が自由になったのは10月以降になってからとのことで、
それまで通信網が不自由だったためヤキモキしていたそうです。
また9月17日14時頃には、通称「枕崎台風」と称されている台風が鹿児島県枕崎市付近に上陸。九州、四国、近畿、北陸、東北地方を通過して三陸沖へ進みました。この台風の猛烈な風(最大瞬間風速75.5 m/s)によって、各地で甚大な被害がありました。『気象庁HP』によると、「死者2,473名、行方不明者1,283名、負傷者2,452名、住家損壊89,839棟、浸水273,888棟など」とあります。
以下は当時の東京の様子のお写真。
【以下は動画】
天皇陛下による御親祭(宮中祭祀)
「停戦協定文書調印式」翌日の9月3日
天皇陛下は宮中三殿において、
厳かに「戦争終結親告の儀」を執りおこなわせられました。
【資料2】昭和20(1945)年9月3日付
「毎日新聞」記事
【 以下毎日新聞記事文】
そして、終戦奉告のために、掌典長以下を勅使として、
神宮(伊勢神宮)ならびに歴代天皇の御陵へ参向せしめられました。
【資料3】昭和20年9月4日付
「朝日新聞」記事
【以下朝日新聞記事文】
【資料4】昭和20年9月8日付
「朝日新聞」記事
【以下上記事文】
このようにして9月8日には、奉告の御儀は修められました。
そして9月23日には、
宮中にて「秋季皇霊祭」が執り行われます。
【資料5】昭和20年9月24日付
「朝日新聞」記事
【以下記事文】
米国軍による占領政策 開始
8月30日にマッカーサー元帥が厚木から上陸後、千葉県の富津岬、神奈川県の横須賀などを軍事拠点にして、9月8日にはジープ車に乗って陸路から東京へ進駐しました。
連合国軍 最高司令官 マッカーサー元帥は、米軍の「進駐式」を行うため、幕僚たちを引き連れて滞留先の横浜のホテル・ニューグランドを出発。東京・赤坂にあるアメリカ大使館に入り、
式終了後、帝國ホテルにて昼食を済ませ横浜に戻ります。
こうして米国軍による日本の占領は、約7年(沖縄は27年) 間続きますが、
当時の米国作戦では終戦時期は11月15日頃と想定しており、この時期での
日本の降伏は予想以上に早かったことから、占領当初は米国政府・米軍側の占領体制準備は整っておりませんでした。
また、米国政府は、連合国最高司令官をマッカーサー陸軍元帥か
チェスター・ニミッツ海軍元帥のどちらに任命するのか、直前まで決定されておらず知らされていない状態でありました。
そして8月14日の夜、トルーマン米大統領はホワイトハウスにて勝利宣言をしたのち、マッカーサー元帥を連合国最高司令官に任命すると発表。
元帥はワシントンに戻ることなく、新しい任務について説明を受けていない状態で日本に上陸します。
こうした背景もあったことから、占領米軍側も占領直後は体制を整えている段階で、翌年の昭和21(1946)年末には整っていったとのことでした。
また、米国政府は日本占領後もヨーロッパ方面の終戦処理に集中していたこともあって、実質的には昭和23(1948)年の頭ごろまではマッカーサー元帥を主体とする占領政策であったそうなので、実際には総司令部も一体となって動いていたわけではなく、占領軍もそれほどまとまっていなかったとのことでした。
マッカーサー元帥は個性が強い性格だったそうで、上司の言う事は聞かず、部下に忠誠を求めるタイプであったため、連合各国や米国政府側との確執があったそうです。
このことがよくわかる現象を少々あげますと、占領直後の9月17日に元帥が「日本の占領は成功しつつあり、米軍の人員を6カ月以内に8月段階での推定50万人から20万人に減らすことができる」との声明を発表したことを受けて、2日後の19日にアチソン米国務次官が記者会見にて「占領軍は政策の道具であって、政策の決定者ではない」と元帥に釘を刺す声明を発表。
昭和26(1951)年4月11日には、トルーマン米大統領は緊急記者会見を開いて「マッカーサー元帥を指揮官としてのすべての権限から解任する」として、その理由は「公務に関し米国政府と国際連合(昭和20(1945)年10月24日設立) の政策を心から支持していないため」と述べられておることから、この話は事実であることを物語っていると思います。
【参照資料】
また、日本政府側は、マッカーサー元帥とアチソン米国務次官の声明などについて、昭和20(1945)9月30日付で外務省より提出された「降伏後に於ける米国初期対日方針」説明文書にて触れられております。
【以下文書の一部】
上掲の文書内では、9月17日のマッカーサー元帥の声明に関して
「元帥の声明が各種の論議を誘発する結果となり、明確なる米国政府の対日方針を発表している事に対し、よしとしていない事など、権限問題に関する紛争があることを考慮した方がよい」というような内容が述べられております。
また、「ポツダム宣言発出後の和平交渉に際し、日本の国柄に関しては、占領軍の到着まで細部は明らかにされておらず、到着後に発せられた諸命令・指令により部分的に明瞭にはなってくるものの、根本的に明確でない点が多く、米国側とピントが合わない点が少なくない。」とも述べられております。
以上のような経緯もあって、実質的には軍政のトップである元帥を主体とする、マッカーサー司令部による占領政策でもあったようではありますが、
占領政策の基本としては「ポツダム宣言」と、9月22日に米国務省より発表された「初期の対日方針」、昭和20(1945)年11月3日に米国政府から出された非公表の正式指令「日本占領および管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期の基本的指令」(当時日本側はこの指令の事は知らない) の3つに従って進められおり、非軍事化・民主化することに重点を置いた占領政策が進められました。
また、直接の軍政といった一方的な政策ではなく、
天皇陛下・日本政府を通した間接統治で、当時のマッカーサー元帥は「全て日本人の手でやらせる。」というようなことを言われていたそうで、実際に国会の決定を尊重して国会が決めたことに関してはあまり介入されなかったそうで、のちに行われる国会にて地方税法の否決がなされた時に「腹は立つけれども認める。」と言われたというエピソードもあったとのことです。
また、日本政府側により論理的説明がなされた事などについては、
許可・許容する所もあったそうですが、官庁がやろうとしたことについては介入していたとのことで、時には「住宅を1万戸すぐ造れ」などの途方もない要求がなされる事もあったり(経費は日本側の負担)、耐え難い指令も発せられるので、日本政府関係者の御苦労は多かったのですが、日本政府・官僚側も言葉の壁を利用しながら頓知を使うなどして思考を巡らせ、様々な言論戦を繰り広げられながら新体制が整って行った背景がありました。
武装解除開始
さて、これよりマッカーサー元帥による政策がなされていきます。
(占領政策の基軸は「非軍事化・民主化」)
最初に武装解除と復員を徹底的に行います。
この武装解除は、物理的な武器を取り上げる事と、
精神的な武装を解除するという両側面がありました。
ジェームズ・バーンズ 米国務長官は、武装解除に関する事について、
9月2日に行われた「停戦協定文書調印式」終了後に声明しており、
この内容は新聞にて報道されています。
【資料6】昭和20(1945)年9月4日付
「朝日新聞」記事
【以下記事 抜粋文】
この武装解除は短期間で行われ、このように軍を解体させることは世界史上、先例のない事でありました。
武装解除などについては、昭和20(1945)年9月8日付の新聞で報じられていて、当時の「朝日新聞」記事(次項「情報統制開始」資料2記事内)によると、「マッカーサー元帥は、9月5日には日本政府に明確な命令を発し、完全武装解除の期日は10月10日と指定されている。」と報じられております。
米軍は徹底的に武器を奪っていったとのことで、日本軍は小銃などに刻まれた菊の紋章を削り取るよう兵士に要求したとのことでした。
この武装解除ついて、当時東日本に進駐していた第8軍
当時の司令官・アイケルバーガー中将は、昭和23(1948)年10月10日に米デトロイト市の商工会議所にて行われた昼食会の席で「われわれは日本人から300万艇の小火器、9万の火砲、数千の飛行機をとりあげた。日本は丸はだかになった。日本の武装を解除したわれわれは、あまりにも完全にやりすぎた」と述べられたとのことです。
そして、大本営は9月13日、軍令部は10月15日、
参謀本部、陸軍省・海軍省は11月30日に廃止となり、
当時780万人の日本の軍隊は解体され、
10月15日には国内部隊約500万の復員が完了します。
完了後、マッカーサー元帥は全世界に向かって放送を行い
「歴史上、戦時、平時を問わず、かくも迅速かつ円滑に実施された復員のあったことを知らない」と述べられました。
このようにして、占領後約1カ月程度で日本国内地における日本陸軍の武装解除は終わり、武装解除までの間の日本国内は比較的おだやかな状態であったとのことでした。
この武装解除が円滑に行われていった背景には、
天皇陛下の将兵たちによる軽挙をいましめられた勅語が、
陸海両軍大臣をはじめ、軍将兵方へ下賜されていたことが大きな力となっており、この統一性を米国政府・米軍は畏れました。
そして、9月20日には、緊急勅令「『ポツダム』宣言の受諾に伴い発する命令に関する件」が公布され、GHQの要求にかかわる事項を実施する際には、政府の命令を以て行う旨が発せられました。
GHQによる「日本占領政策」の発表
武装解除を見届けた米国政府は、
9月22日には米国務省により「降伏後における初期の対日方針」
という、日本の政策に関する最初の声明が発表されました。
これを受けて日本では、外務省を中心に日本語訳が作られた後、
9月24日付の各紙新聞にて全文が発表されました。
この文書の目的については、
当時の「朝日新聞」(【資料7】参照)記事によると
と述べられております。
その主な内容は、
というようなものでありました。
【資料7】昭和20(1945)年9月24日付
「朝日新聞」記事
上掲新聞記事写真の黄色でマーキングした個所に注目して頂くと、
「軍国主義」という文言が使用されております。筆者が当時の「朝日新聞」8~9月までの記事をざっと目を通して見ましたが、この辺りまで軍国主義という文言は見当たらなかったように思います(見間違い・勘違いならすみません)
また、こちらの朝日新聞に掲載されている「日本管理政策の正文」の内容は、英語で発表されたものを日本政府側が日本語に翻訳したものであるということなので
①『国立国会図書館蔵・米国務省発表の原文「U.S. Initial Post-Surrender Policy for Japan(初期の対日方針)」文書』(リンク『国立国会図書館』webサイトより)
②上掲「朝日新聞」掲載翻訳文
の以上2点を筆者が照らし合わせて読んでみましたところ
と翻訳されておりました。
また、佐久田 繁 編『太平洋戦争写真史 東京占領』によると、
「進駐軍」という用語は、8月19日「占領軍の第1目的は、混乱防止にある」という米陸軍省の見解を報じた「朝日新聞」記事にて使用されたのが初めで、「占領軍」の文言より「進駐軍」が一般化した背景には、「敗戦」を「終戦」と変換した時と同じように、現実認識を甘くする効果を持ったと述べられております。
情報統制開始(新聞・ラジオの検閲)
東京に進駐した翌日の9月9日
マッカーサー元帥は、日本管理方針に関する、
間接統治・軍国主義の根絶・自由主義を助長する声明を発表。
新聞・ラジオ放送の検閲を指示します。
このことについて、9月8日付の「朝日新聞」の武装解除関連と同記事内にて「新聞、ラジオは検閲を受けることになる模様で、このため特殊の訓練を受けた米軍の検閲班がすでに横浜に到着している」と報じられています。
【資料8】昭和20(1945)年9月8日付
「朝日新聞」記事
そしてこれより情報統制がはじまります。
9月10日には「言論及び新聞の自由に関する」覚書が通達され
米国軍による検閲が開始されます。
9月14日には、当時の日本で唯一の通信社であった
「同盟通信社」(昭和11(1936)年1月発足) は業務停止命令を受けて、
同盟通信社による、海外向けの外国語ニュースの配信は遮断されますが、情報局総裁、同盟通信社長、放送協会長、日本タイムス社長が、放送協会内にあるマッカーサー司令部(以後GHQ)・情報宣伝本部を訪問して実情を説明した結果、翌15日正午には業務停止は解除されて活動が再開されますが、これ以後はGHQによる事前検閲がなされました。
GHQによる業務停止命令の件は各紙でも報じられ、各紙や出版界でも事前の緊急対策について考えられていくようになります。
9月18日には 、「朝日新聞」の9月15日以降の記事で占領政策にふれる記事があるとして、午後4時から48時間発行停止処分を受けて19、20日付の新聞が休刊となりました。
9月19日には「日本に与える新聞遵則に関する」覚書を日本政府に発令して、連合国・占領軍に不利となる報道、日本側の意見を国民に宣伝するようなことなどが禁止され、原爆に関する報道などをした新聞社を発刊停止処分するなどがなされます。
新聞の事前検閲は、最初の1カ月の間は「ニッポンタイムス」紙のみが事前検閲されていたそうなのですが、10月9日からは「朝日」「読売」「読売報知」「日本経済」「東京」新聞の5紙の事前検閲もなされるようになり、
その後、東京40紙、大阪10紙、地方60紙でも事前検閲がなされるようになります。
検閲の仕方は、新聞が印刷される出版前に、すべての記事の試し刷りをGHQ各検閲班へ提出後「許可・不許可、保留、削除」の朱印が押されて戻ってくるという形式で、広告も検閲の対象となりました。
9月22日には「ラジオ・コードに関する覚書」(通称「ラジオコード(ラジオ遵則)」) の通達がなされ、9月23日には「米軍部放送組織 AFRS」が開設されました。
そして9月24日には「新聞・通信社に対する政府の統制廃止」、
27日には「新聞言論の自由に関する追加措置」の覚書の通達がなされました。
この「新聞言論の自由に関する追加措置」では、出版物、映画、郵便、電信電話などに対する「戦時諸法令」の廃止がなされ、戦時に公布施行された、
新聞紙法、国家総動員法、新聞紙等掲載制限令などの13の諸法令は撤廃され、言論に関する一切の制限令が撤廃されました。
このことにより「同盟通信社」は自発的に解散。
「朝日新聞」「毎日新聞」「読売新聞」の3社など全国14新聞社の代表と
「日本放送協会」が設立委員となって、昭和20(1945)年11月1日に社団法人「共同通信社」が設立され、同時に業界などへ通信を提供する「時事通信社」も設立されて現在に至っております。
また戦時中、新聞の統制機関であった「日本新聞公社」も解散して、
「日本新聞連盟」(翌21(1946)年10月に新聞共販連盟へ改組) が発足。
翌年の昭和21(1946)年7月には、全国の新聞が集まって
「日本新聞協会」が設立されました。
ラジオ放送では、9月9日には、戦後はじめて軽音楽と歌謡曲が流れるようになり、9月19日には「実用英語会話」がはじまり、9月23日には敵性音楽と規制されていたジャズやダンス音楽が流れ始め、9月29日には、市民参加のインタビュー番組がはじまります。
戦争犯罪人の逮捕命令下る
9月11日、戦争犯罪者として東條元首相ほか38名の逮捕命令が発せられました。
当時、戦争犯罪者として挙げられた数千人の軍部および民間指導者の名簿が米国により作成済みであるとの内容が新聞で報じられ、誰が戦争犯罪者に指名されるのか、また、どのような刑が科せられるのかについては占領軍によって決められることであったので、日本の指導者層をはじめ全国民が不安と恐怖に追い込まれていったとのことで、この後、政府・軍関係者で自決する方が相次ぎました。
【資料9】昭和20(1945)年9月12日付
「朝日新聞」記事
【資料10】昭和20(1945)年9月15日付
「朝日新聞」記事
相次ぐ自決の報道
東条英機 元首相 自決未遂
逮捕命令が発せらた9月11日の午後2時、拘引(こういん)のため
東条邸を訪れた米官を外に待たした状態で、東條元首相はピストル自決をされましたが即死には至らず、突入した米軍の応急処置と治療により一命をとりとめます。
翌9月12日付の「朝日新聞」記事によると、この時に何か言おうとされている東条元首相のお言葉を記者が傍で聞いたとあり、その内容が掲載されております。
【資料11】
【以下記事一部抜粋】
そしてその後の9月24日には「戦争犯罪人規程(BC級)」が発表されました。
神社に奉納された刀剣 米軍に持ち去られる
9月14日には、民間にある銃砲刀剣等の提出命令が発せられます。
この命令により、神社に奉納されていた刀剣も対象となり、
米将兵により神社所有の刀の数々が宝物庫から持ち去られていきます。
神社が御霊代としている神剣まで持ち出そうと、占領軍の係員が神殿の開扉を迫ったり、土足で社殿の中に入って没収するといった事が、全国の神社で相次ぎました。
当時の神職方の懸命の努力で未遂に終わった話などがあり、
このような事例が起きた理由については、大東亜戦争を通じて日本兵の勇敢さを目の当たりに見て、国家神道というものが日本人を強く勇敢にさせたと同時に日本人を狂信的な戦闘にかりたてていた源であるとみて、神社に奉納された刀剣等も武器として押収するに至ったといわれております。
天皇陛下 マッカーサー元帥との初会見
天皇陛下は宮中三殿にて
9月3日「戦争終結親告の儀」
9月23日「秋季皇霊祭」を
御親祭あそばされました。
その後の9月27日の午前中には
マッカーサー元帥の居住場所、赤坂・虎の門にある
「アメリカ合衆国大使館」(地図リンク)を御訪問あそばされます。
この時、石渡 荘太郎 宮内大臣、藤田 尚徳 侍従長、
筧 素彦 行幸主務官、通訳の奥村 勝蔵 外務省参事官など6名が随行されました。
そして天皇陛下、マッカーサー元帥、通訳の奥村参事官のみで37分ほどの会見がなされました。
この時の会見のご様子につきまして、筆者が参考にした文献では、
以上が参考にされて、まとめられております。
それぞれのお話で言葉の表現が異なりますので、明確は御発言は定かではありませんが、以上などを踏まえまとめたお話をいたします。
会見では、奥村参事官による通訳を通してお話がなされ、
マッカーサー元帥が力強い語調で20分程の雄弁をふるった後、
陛下は「責任はすべて私にある」としてお話なされております。
(1)奥村勝蔵 参事官による御会見録
(2)藤田 尚徳 侍従長が「忘備録」としてまとめた話の一部
(3)重光 葵外務大臣(当時)が「読売新聞」に寄稿した手記の一部
(4)マッカーサー元帥の専任通訳で副官のフォービアン・バワーズ少佐
の証言の一部
(5)『マッカーサー回想記』の一部
また、随行していた、筧 素彦 行幸主務官は、著書『今上陛下と母宮貞明皇后』(日本教文社、昭和62(1987)年)にて、「先刻までは傲然とふん反りかえっているように見えた元帥が、まるで侍従長のような、鞠躬如(きっきゅうじょ)として、とでも申したいように敬虔な態度で、陛下のやや斜めうしろと覚しき位置で現れた」と述べられています。
このようにして初会見は終わり、GHQにより記念写真が撮影されました。
これ以降、翌年の昭和21(1946)年から昭和26(1951)年4月15日までの間に
計11回の会見がなされました。
会見の写真報道
天皇陛下とマッカーサー元帥の初会見について、
主要各新聞社は、宮内庁発表の記事とGHQ提供の会見写真とをあわせて掲載して翌28日の紙面で報じようとしましたが、お写真をはじめ
陛下と米人記者との応答を掲載することは不敬だとして、内閣情報局は発売禁止処分を下します。このことにより28日付けの各新聞紙面では、
会見写真・米記者との応答記事は無掲載で報じられました。
提供した会見写真が掲載されていないことを不審に思ったGHQは、
翌29日に会見写真を掲載した新聞に対する、政府の発禁処分の取消しを指示。「戦時諸法令」廃止の指令を発しまして、9月27日まで遡って言論に関する一切の制限令撤廃を指令。検閲、監督権がGHQに移されます。
この指令を受けて、会見時のお写真等は29日に各新聞で改めて掲載されました。天皇陛下とノーネクタイ姿で腰に手を当てているマッカーサー元帥が並んでいるお写真は、当時の国民にとって「畏れ多い」とショックを与えました。
【資料12】昭和20(1945)年9月29日付
「毎日新聞」記事
上掲「毎日新聞」記事には、9月25日に東京滞在中の米国UP通信社長のヒュー・ペリー氏とニューヨーク・タイムス紙太平洋方面支配人のフランク・クルックホーン氏が前後して単独謁見を仰せ付けられまして、当日ペリー氏は25分にわたって謁見。その時の手記が掲載されています。
【以下記事文一部抜粋】
東久邇宮首相殿下 マッカーサー元帥と会談
東久邇宮首相殿下は当初、8月30日厚木で元帥をお出迎えあそばされるおつもりだったそうなのですが、連合国側から「日本側の出迎えは一切不要」との通達があったため実現しませんでした。
そして9月15日になって、ようやく会談が実現します。
首相宮殿下は、米軍により接収された「横浜関税本庁舎 (現在:横浜税関)」に置かれていた当時の総司令部へ元帥のもとを公式に御訪問なされます。
この時の会談は約50分行われ、元帥はお部屋の入口で首相宮殿下をお出迎えなされたのち、親しくお話をされたとのことでした。
殿下は、「ポツダム宣言を忠実に実行し、平和新日本を建設するために努力したい」旨など述べられ、元帥は、「敗戦国の政治はもっとも困難なことで、その再建には大なる忍耐と努力が必要であるから、総理大臣は一層努力して、この難局を処理してもらいたい」等々述べられたとのことで、
最後はお部屋の入口で握手されたとのことでした。
その後、殿下は9月29日に東京に移られた元帥のもとを再度御訪問なされまして、「私は封建的遺物である皇族であるから、私が内閣を組織していることは民主主義の見地からいけないのではないか。もし元帥が不適当とみられるならば、率直にいけないと言ってください。私は明日にでも総理大臣をやめます」と申され、元帥は参謀長としばらく小声で話しあったのち「あなたの思想、現行は非民主主義とは思われない。現にあなたが総理大臣を務めているのは、現実に封建的ではなくて、もっとも民主主義的のことである。あなたは続いて総理大臣を務めるべきでしょう」などというようなお話がなされたとのことでした。
また、9月18日には首相官邸の大広間にて、約100名の外国人記者団との初会見がなされ、首相宮殿下はインタビューに応じられました。
この時に、米記者より「米軍飛行士に対する処刑問題、捕虜の虐待に対する問題、戦争責任のあり方を追求する」ことなど、鋭い日本語で通訳される質問がなされ、殿下はこれらの質問にお答えされるため、たいへん骨を折られたとのことでした。
このとき殿下は、米記者へ日本に対する感想を聞かれました。
そうすると「空襲による破壊の跡が想像を超えてひどいのに驚いた」
「一般民衆が戦争の原因や経過について何も知らないのを不思議に思った」「日本の婦人が各方面に進出しており、すこぶる優秀なのに感心した」
というような感想が述べられたとのことでした。
そして最後に、「今日は裁判所で私が訊問されいるようだったが、次回からもっとくつろいでやりましょう」と御挨拶されて一同の笑いを誘ったとのことでした。
また、首相宮殿下は8月31日付の新聞を通じて
国民に向けて「嬉しいこと、悲しいこと、不平不満、私事、公の問題でもなんでもよろしいので、率直に真実を書いて直接手紙を戴きたい」旨のメッセージを掲載されました。
こちらの呼び掛けに対する反響は大きく、投書数は多い日で1日2000通届くこともあったそうで、殿下は毎日登庁されるとお手紙に目を通され、
読み切れない分は御自宅に持ち帰ってお読みになられたとのことでした。
お手紙の中でいちばん多かった要望は「食糧問題」で、
その他にも「衣服・住居の問題や学校に関すること、戦災家族の復帰など」の要望が多かったとのことで、首相宮殿下はこれらの問題に精力的に取り組まれ、すぐできることは直ちに対処なされました。
(竹田 恒泰『語られなかった皇族たちの真実』による)
今回のお話は以上となります。
ご拝読ありがとうございました。拜
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【参考文献】
(発行年の書き方は書籍による)
葦津 珍彦『神社新報編集室記録』(神社新報社、昭和31年5月)
神社新報企画・葦津事務所編『神社新報五十年史(上)』(神社新報社、平成8年7月)
神社新報創刊六十周年記念出版委員会編『戦後の神社・神道-歴史と課題-』(神社新報社、平成22年2月}
神社新報社編『神道指令と戦後の神道』(神社新報社、昭和46年7月)
神社新報政教研究室編『近代神社神道史』(神社新報社、平成元年7月)
神社本庁研修所編『わかりやすい神道の歴史』(神社新報社、平成19年6月)
葦津珍彦選集編集委員会編『葦津珍彦選集 第三巻』(神社新報社、平成8年11月)
吉田茂伝記刊行編集委員会編『吉田 茂』(明好社、昭和44年12月)
栗田 直樹『緒方 竹虎』(吉川弘文館、平成13年3月)
小堀 桂一郎『昭和天皇』(PHP研究所、1999年8月)
出雲井 晶『昭和天皇 ―「昭和の日」制定記念―』(産経新聞出版、平成18年5月、第7刷)
竹田 恒泰『語られなかった皇族たちの真実』(小学館、2006年1月)
福永 文夫『日本占領史 1945-1952』(中央公論新社、2014年12月)
【写真等参考文献】
佐久田 繁 編『太平洋戦争写真史 東京占領』(月刊沖縄社、昭和54年9月)
袖井林二郎・福島鑄郎『図説 マッカーサー』(河出書房新社、2003年10月)
佐藤 洋一(文・構成)『米軍が見た 東京1945秋 終わりの風景、はじまりの風景』(洋泉社、2015年12月)
平塚 柾緒『写真でわかる事典 日本占領史 1945年8月-1952年5月』(2019年5月、PHPエディターズ・グループ)
【参考新聞関連】
「朝日新聞縮刷版 [復刻版] (昭和20年下半期)」
池田 一秀 編『新聞復刻版 昭和史下 激動編』(研秀出版、1978年1月)
羽島 友之 編『新聞の歴史3 現代の新聞』(日本図書センター、1997年2月)