【連載4】昭和20(1945)年 玉音放送と葦津 珍彦氏
【令和5(2023)年8月15日 加筆版】
本日(投稿日)は、お盆・戦没者を追悼し平和を祈念する日でございます。
天皇皇后両陛下の御臨席のもと、政府主催の全国戦没者追悼式が行われ、全国各地で慰霊祭・追悼式・平和祈念式の式典が行われました。謹んで御霊がお安らかであらんことをご祈念致し、御祭・遙拝致しました。
この連載は、戦後より神道ジャーナリスト・神道防衛者として活躍した、
思想家・葦津 珍彦あしづ うづひこ氏について卒論に基づいたお話です。
時は遡りまして、76年前の今日、
在りし日の葦津 珍彦氏のお話をいたします。
(文字数 約14,000字)
これまでの葦津氏の動き
戦時中の葦津氏は、東条 英機内閣により言論統制や情報・思想宣伝をおこなう政策に対して糾弾する活動や、戦局収拾・和平に向けての活動などを亡父君の知友や信頼できる方々などと行なわれておりました。
そうしたなか、昭和19(1944)年7月22日に東条内閣は解散。
小磯 國昭(こいそ くにあき)内閣となり、葦津氏と親交のある緒方 竹虎(おがた たけとら)氏が国務大臣兼情報局総裁として入閣されたことをきっかけに、大臣室を訪問して緒方氏に政策についての持論を進言されたり、交際のある陸軍関係者をはじめ、他大臣などの所へも訪問されておりましたので、政府内の情報を事前にいち早く知ることができる環境にありました。
当時36歳の葦津氏は、昭和20(1945)年8月13日には戦争が終結する旨を、
翌日には玉音放送の予定について、当時内閣顧問を務めていた緒方氏から知らされます。
このことを知った葦津氏は、今後の占領体制に対する対応に全力を尽くすことを決意して、終結の旨を知らされた13日には自身の経営する社寺工務所の解散手続きをおこない、翌14日には末弟の大成(当時20歳)氏を連れて帰ります。
そして、昭和20(1945)年8月14日に「ポツダム宣言受諾の詔書(しょうしょ)」(通称:終戦の詔書)が発布。同日に「官報号外」にて告示され、その夜と翌朝のラジオニュースにて、15日の正午に天皇陛下御親らによる重大放送があるので、全国民は必ず聞くようにと報じられました。
当時の「官報号外」
昭和20(1945)年8月15日 葦津氏の動き
この日の東京は晴天。
朝は渋谷区にある自身が経営する社寺工務所の工務所員に、台湾・朝鮮に居る所員の帰還と同時に会社を解散するので、解散に向けての事務を進めるよう伝えたのち、末弟の大成氏を連れて永田町へ向かいます。
そして、正午(昼12時)にラジオによる重大放送がはじまり、37分ほど放送されます。葦津兄弟は首相官邸の玄関前の前庭にて、直立して謹聴(きんちょう)。兄弟共に自然と涙が流れてきたそうです。
当時のラジオ放送
葦津氏の著書「老兵始末記」(『昭和史を生きて』所収)によると、
放送時に米軍の戦闘機が2機が飛来してきて小型爆弾を投下しているように見えたそうで、この時彼らは勝利を知っているはずなので、人間なら命令があったとしても一人の市民も傷つけるべきではないと思い、許しがたいと怒りと憎しみを感じたと述べられております。
その夜、兄弟は暗い夜道を徒歩で帰宅。
帰宅途中、大成氏は
「これからの日本はどうなるのでしょうか。」と珍彦氏に聞かれました。
珍彦氏は
「分からん。占領軍の占領政策が具体的にどのようなものになるかで違ってくる。今はっきり言えることは、日本人がこれから敵・味方に分裂して行く事と、日本のすべてにアメリカナイズが浸透して行く事だろう」と返答されたそうで、大成氏はこの話を聞いた時、一体となって戦った日本人が敗れたからといって分裂していくことになるとは信じられかったそうなのですが、実際には珍彦氏のおっしゃる通りになっていきます(現在も進行中)
そして葦津氏は、この日以降より神道防衛のために全力を尽くしていかれます。
当時の決意について、葦津氏は著書「老兵始末記」の中にて以下のように述べられております。
これまでの葦津氏は、社寺工務所と関連会社を運営しながら、アジア諸国の独立運動家の支援活動や、日本の国柄をよりよくしていくための言論活動などをされてきましたが、戦後からは、社寺工務所・関連会社の運営を辞めて、占領米軍をはじめ、反対思想者・反対者などを相手に神道と神社の防衛・伝統文化の護持のための言論活動などをされていかれます。
また、葦津氏は著書「老兵始末記」のなかで「敗戦がのちの転身の拠点となった (『昭和史を生きて』69ページ)」と述べられております。
【参考文献】
葦津珍彦『昭和史を生きて―神国の民の心』(葦津事務所、平成19年1月)
葦津大成『父、兄、私と大東亜戦争 -次代への伝言-』(神社新報社、平成11年4月)
玉音放送にまつわるお話(令和3年11/3加筆)
玉音放送にまつわるお話に関しては勉強不足もあり、不十分な個所もあると思いますが、現時点で私が知るお話をまとめようと思います。
1.詔書が完成するまで
昭和20(1945)年7月26日に連合国からポツダム宣言が発せられたことにより、この宣言にまつわる議論がなされておりました。
8月9日午前11時より会議が開かれ、午後に臨時閣議が開かれますが、22時になっても意見がまとまらなかったため閣議を打ち切り、天皇陛下の御臨席を仰ぎ、10日午前0時過ぎより宮中防空壕・御文庫附属室にて、「ポツダム宣言」を受諾すべきかどうかを巡る御前会議(ごぜんかいぎ)が行われました。
この「ポツダム宣言」の要点は、連合国側より日本に戦争を終結する機会を与えるとして、政府が全日本国軍隊の無条件降伏を宣言して、完全武装解除をすることを決意しなければ、完全に壊滅するという内容でした。
外務大臣の「宣言を受け入れて戦争をおわらすべき」という意見と、陸軍大臣の「宣言の受け入れを反対」とする意見とで衝突し、約2時間半の時間をかけて参加者11名全員が意見を述べらますが、意見一致には至らず、鈴木 貫太郎総理は決心して、天皇陛下へ御裁可(ごさいか)を仰がれます。
陛下は、外務大臣の意見に賛成であることなど率直なご意見を仰せられ、ポツダム宣言を受諾して戦争を終結することが決定し、全員落涙。翌10日の午前2時30分頃に会議は終了しまして、それぞれか終息に向けての動きがはじまります。
そして、10日の午前中に連合国へポツダム宣言を条件付きで受諾する旨と、宣言で明確にされていない天皇制の保障について確認する通知が電報でなされました。
そして、12日に米国 国務長官ジェームス・バーンズ氏の名で英語による返答があり(通称 バーンズ回答)この返答を翻訳しますと、天皇の地位が保証がされるのかどうかが明確にされていなかったため、翻訳文言の解釈などで再び議論が蒸し返されて紛糾(ふんきゅう)しました。
一刻の猶予も許されない状態のなか、鈴木総理の発案により、14日午前11時に再度ポツダム宣言受諾に関する最後の御前会議が開かれました。受諾賛成の外務大臣と反対の陸軍大臣との大論争の末、鈴木総理が再度、天皇陛下へ御裁可を仰がれます。
結果、再度のポツダム宣言受諾と戦争終結の御聖断(御決断)がくだり、閣議決定されたのち大臣全員の署名がなされて「ポツダム宣言受諾の詔書」が渙発(かんぱつ)されます。
陛下はこの時、なすべきことがあれば何でもいとわない。国民に呼びかけることがよければ、私はいつでもマイクの前にも立つと仰せになられ、詔書を出す必要もあると思うので、早速に起草してもらいた、との勅命(ちょくめい)がくだりました。
これにて御前会議は終わり、閣僚は首相官邸に戻り、御詔勅(しょうちょく)の草案があがったあと、15時に詔書案の審議がなされ、20時頃に審議は終了。
21時に陛下の御裁可を受けて清書されたのち、21時30分には詔書(しょうしょ)は陛下のお手許に差し出されて御名御璽が付されたのちに、大臣全員の署名がなされて完成いたしました。
この時のポツダム宣言受諾に関する詳しいお話については、作家・竹田 恒泰氏が、史料をあげられながら最新研究による解説を穏やか丁寧にされており、正確性が高いかと思いましたので、こちらを添附いたします。
2.玉音放送
ラジオ放送時の詔(御言葉)は、どのような形式で放送すのかで議論されたのち、録音を放送することが決定。東京放送局(現在NHK放送局)の職員に録音を依頼します。
放送時間についても議論がなされ、明日の正午に決定しました。
詔書完成後、当時の宮中政務室内にて、14日の23時30分過ぎから15日の午前1時にかけてレコード録音機により2度の録音がなされ、天皇陛下御親ら詔書をお読み上げになり、録音は正・副 2種類のレコード盤に収められ、2つの缶の中に収められたのち、木綿の袋に入れられました。
収録後、放送まで時間があるため、玉音盤の保管場所を巡る相談後、録音に立ち会っていた徳川義寛侍従が預かることとなり、小型の金庫に事務官室に保管して隠されました。
そして、昭和20(1945)年8月15日正午にラジオを通して放送され、停戦の大号令がなされました。
また、当時は天皇陛下の御声は玉音(ぎょくおん)と申され、
録音レコード盤は「玉音盤」、放送は「玉音放送」と言われました。
14日の21時と翌朝、ラジオにて天皇陛下による重大放送があることが呼び掛けられておりましたので、国民はそれぞれラジオのある場所に集合。この放送にて、当時の国民は初めて天皇陛下の御声をお聞きした時でありました。
当時のラジオは今のように小型で手軽なものはなく、外枠が木製の真空管ラジオというもので、現在の家庭用プリンター程の重さがありました。特に戦時中のラジオは性能も悪く、電波状況の悪い地域では、雑音もあり声も途切れ途切れにしか聞こえなかったそうなので、降伏を受け入れたのか決戦奮起のどちらかわからなかった方々も多かったそうです。
また、私が聞いた話では、何をおっしゃられているのかわからないけれど、戦争が終結したことを理解したという方もいらしたそうです。
【8月15日の新聞】
お話はかわりまして、この日の新聞は、玉音放送後にあわせて午後に配達されて、詔書の全文、ポツダム宣言の全文が掲載されました。
池田一秀編『新聞復刻版 昭和史(下) 激動編』 (研秀出版、1978年)の中にて述べられている当時の毎日新聞記者のお話によると、当時は大本営発表の報道しか許されなかったのですが、政府に見つからないよう注意しながら極秘で海外通信を傍受して情報を入手していたので、発表とは事実が異なっている事はわかっていたそうで、アリューシャン列島における戦闘あたりから、発表報道がおかしくなっていったと語られております。
また、日本国内が攻撃された時、どこで攻撃があり、どれだけ被害があったのかの情報を事細かく書いてまとめていたそうなのですが、米軍により焼却処分されたとのことで、いまとなっては貴重な史料がなくなってしまったことが悔やまれると語られておりました。
そして、15日の玉音放送にて停戦の大号令がくだされた後、9月2日に東京湾上のアメリカ海軍戦艦ミズーリ号の艦上にて、ポツダム宣言を受諾する文書の調印式が行われて停戦協定がなされ、連合国(米国)により約7年におよぶ占領がはじまります。
終戦の日にまつわる話
日本では、8月15日に終戦したと通説的に言われておりますが実際には、終戦していませんでした。
8月8日23時にソヴィエト連邦が参戦の宣戦布告を通告。翌9日午前0時より一斉攻撃(満州国と朝鮮)を開始してきたソヴィエト軍と15日以降も戦闘しており、9月5日までの間に千島列島が占領されてしまいました。そして、昭和31(1956)年10月19日に「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言」の署名がなされ、同年12月12日に発布して終結するまでの間、戦闘状態は続きます。
また、のちに残酷非道な行いをする人たちも多くなっていきましたので、
カオスな状態は続いていきます。
第2回 玉音放送のお話
玉音放送は、翌年の昭和21(1946)年5月24日に、第2回目の放送がなされました。この時には、国内では動乱が起こり、食糧難が深刻化しておりました。
この時の玉音放送は「食糧問題に関する御言葉」と称されまして、第1回目と同様にレコード盤録音による詔(お言葉)がラジオにて放送されました。
両玉音放送を謹聴いたしますと、8月15日のラジオ放送時は、アナウンサーによって起立を促されて、当時内閣の情報局総裁により「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、畏くも御親ら大詔(たいしょう)をのらせ給うことになりました。これより謹みて『玉音』をお送り申します。」と申されているのに対して
翌年の5月24日の放送時には、アナウンサーより「ただいまより、食糧事情に関する天皇陛下の御言葉でございます」とのみ申されて、当時のニュース映像では、一国民による批判のインタビューも放映されておりますことから、報道機関においてのお取扱いが一変している様子がよくわかります。
玉音放送を阻止するクーデター未遂事件(令和4年5月7日加筆)
8月10日のポツダム宣言を受諾する決定に納得がいかず反発した、陸軍の青年将校が近衛師団を巻き込み、15日未明に受諾を阻止して戦争を遂行しようとするクーデター未遂事件が起きました。
13日にはクーデター計画がなされ、決起に向けて陸軍大臣へ訴え、周囲を説得していきます。そして、14日陸軍内では午前10時を機にクーデター計画がありましたが、森 赳 (たけし)近衛第一師団長、
梅津 美治郎参謀総長は応じませんでした。
そして、夜には戦争終結決定の公表の動きを知った、
陸軍省 軍務課の畑中 健二少佐ら数人が決起。
15日午前0時過ぎより行動を開始します。
師団長室を訪れて決起を促すも、拒否する森 近衛師団長を
午前1時頃に殺害したのち、午前2時には師団長官の判子を押印した「命令偽書」を作成して、近衛師団は宮城(皇居)を占拠して、皇宮警察 警士の武装を解除。
そして、詔書をねつ造すべく御璽を探して、宮内省庁舎内を大捜索します。
その後に玉音盤の存在を知って、玉音盤も大捜索しますが見つからず、時間と共に、師団長が殺害されて偽命令が作成されたことが周囲にも明らかとなり東部軍は反乱鎮圧に乗り出します。午前4時40分、阿南 惟幾(あなみ これちか)陸軍大臣が切腹自決(7時10分絶命)をしたことによって沈静化していき、東部軍により鎮圧されますが、
放送直前まで放送を阻止しようとする兵もおりました。
当時の新聞記事
日刊「朝日新聞 」(昭和20年8月16日付)
この事件は「宮城(きゅうじょう)事件」または「8・15事件」と呼ばれております。
また、他にも「国民神風隊」と称する、佐々木 武雄予備役陸軍大尉ら横浜高等工業学校の学生を含む有志約20名が、15日午前4時30分頃に首相官邸に乱入して放火。鈴木首相が不在と知り、5時30分頃には、本郷丸山町にある首相私邸を襲撃して放火(首相一家は事前に逃れて身を隠していたため無事)
7時頃には西大久保にある平沼 騏一郎枢密院議長 邸を放火するなどの反乱事件も起きました。
宮城事件のお話については、前掲に続き、
竹田 恒泰氏による解説を添附いたします。
また、この事件にまつわる話が映画化されており、東宝による岡本 喜八監督作品『日本のいちばん長い日』(昭和42[1967]年:モノクロ映画)は、ジャーナリストでノンフィクション作家の大宅 壮一氏が、当時の関係者などの話を実録されたものが原作となり、岡本監督は事実に基づいて撮影することを心がけた作品とのことで、演出も含まれますが
ドキュメンタリータッチで描かれており、当時の実際の映像や写真(御遺体の写真も含まれております)も一部使用されております。
また、冒頭に経緯説明がされているので、初めて知る・見る方でもわかりやすい内容となっておりましたので、ご紹介させていただきます(名作でありました)
また、松竹により平成27(2015)年・原田 眞人監督・脚本作品『日本のいちばん長い日』(アスミックエース、松竹)もございますが、前掲の竹田氏の動画にて触れられておりますので、お話は差し控えさせていただきますが、個人的には、史実的参考視点で観るのであれば、岡本監督作品の方をおすすめ致します。
今回のお話は以上です。ご拝読ありがとうございました。拝
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【参考文献】
小堀 圭一郎『昭和天皇』(PHP新書、平成11年8月)
出雲井 晶『昭和天皇-「昭和の日」制定記念-』(産経新聞出版、平成18年5月)
竹田 恒泰『語られなかった皇族たちの真実』(小学館、平成18年1月)
国史教科書編纂委員会編『中学歴史 令和2年度文部科学省検定不合格教科書』(令和書籍、令和3年6月 第四刷) など