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【連載 6】戦後の葦津 珍彦/神道防衛の道(2)[終戦直後8月中旬以降編]
この連載は、戦後より神道ジャーナリスト・神道防衛者として活躍した、
思想家・葦津 珍彦氏について卒論に基づいたお話です。
終戦直後の活動ついて、前回のお話の続きをいたします。
【葦津 珍彦氏の終戦直後の行動】
昭和20(1945)年8月15日の正午、NHKラジオを通して「玉音放送」がなされたあとの葦津氏は、
今後は神社を守るための活動に集中することを決意し、神社の鳥居だけでも残したい、との目標を設定して活動を展開していかれました。
葦津氏は、戦後におけるこの行動の理由について、著書「老兵始末記」の中にて、以下のように述べられております。
私は…一万人か三万人の神道崇敬者に訴えて、「神社」を守ろう。…情勢によっては、日本列島のなかに、日本に固有の神社の鳥居だけでも残したい。(中略)やがて後世の日本人が、日本固有独自の精神を探りもとめるときに、それは一つの拠点となり得るであろう。(中略)征服者マッカーサーが、厚木に到着したころ、私は、その暴圧に抗して「日本の神社を守る」との一線を中核として…征服者によって抹消しえざる日本固有の神社を守ることに、抵抗のエネルギーを集中し、結集することを決意する。
(68ページ~69ページ)より引用
以上のことから、敗戦直後の葦津氏は、この決意のもとに活動を開始したことがわかります。
また、御子息の泰國氏は自身のブログにて、当時の珍彦氏について、以下のように述べられております。
仕事を辞めた父
父は敗戦の日を期して、神社建築の事業を辞めた。会社は台湾のヒノキなどを用いて立派な神社や寺院の建築をしており、台湾やその他に出向している社員も多かった。父は敗戦の日が来るのを確信して、鎌倉や東京の世田谷・杉並などの山の手に何軒かの家を買い、また所有の財産を処分して自分の辞めた後の職員家族の救済に充てることにして、資金を集めていた。自分の収入もその後一切受け取らないことにして、これからは向収入で国のために働こうと決意していた。
「母の命日に思うー44年目の母の命日」より引用
日本を占領する米軍から神社を死守することに専念する決意をされた葦津氏は、連合国軍 最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥が日本に来る前に、精一杯の対応を進めておきたいと考えて、早速行動をおこしていきます。
【註】8月15日にまつわるお話は、以下の記事にて致しております。
この頃の政府の動向
同年8月17日、東久邇宮稔彦 王に組閣の命が下りまして、かねてから葦津氏と親交のある、緒方 竹虎氏は、国務大臣 兼 内閣書記官長 兼 情報局総裁に就任いたしました。
【註】上のニュース映像にて各大臣の御姿を拝見することができます。
当時はインターネットもテレビも無い時代でしたので、当時の映像ニュースは、毎週映画館にて放映されていました。
テレビ放送は、8年後の昭和28(1953)年になってから開始されますので、
ラジオ放送と新聞が主要な情報源で、動画映像は映画館で拝見するのが一般的な時代でありました。
『NHK アーカイブス』Webサイト「NHK 戦争証言アーカイブス ニュース映像」より
また、手元に資料がないため詳細には触れられませんが、大戦以前に創建されました海外各神宮は廃絶となり、速やかに昇神の儀が執り行われ、命がけで御神体をお護りされました神職方の奮闘もございました。
この頃の葦津氏の行動
葦津氏は手始めとして、内閣に「ポツダム宣言」受諾後でも、条件について交渉の余地はまだあることを訴えるために緒方氏のもとを訪ね、
「ポツダム宣言」にある、「宗教・思想の自由」は、神社を自由の障害としていると理解することができるので、この宣言に条件をつけずに承諾すれば、日本の国柄は必ず変更され、憲法の改正もしてくるので、神社の存続も危機に立たされるであろう。」というような、自身のポツダム宣言の解釈による危惧を伝えました。
これを聞いた緒方氏は、葦津氏の意見に同意して、急遽、首相の名義で数名の東大教授等に諮問(しもん)したところ、「憲法への干渉は全くない」と断言されたそうです。
次に、山崎 巌内務大臣へ「事前に手を打つべきだ。」と勧めたそうなのですが、神祇院※(元神社局)を所管する内務省(現在 総務省)も「そのような懸念は絶対にない。」として、緒方氏の意見を受け入れることはなかったとのことでした。
※ 神祇院(じんぎいん):明治の新政府によって、行政・神社制度の改革がなされまして、神道界に大きな変革があったために諸論争が起こり混乱が生じました。こうしたなかで神社制度の整備を経た結果、昭和15(1940)年11月9日には内務省の外局(特殊な事務を行うための組織)、神社の祭祀を専管(せんかん)した官庁として「神祇院」を新設。昭和21(1946)年12月15日に廃止されました。
この様子を緒方氏から聞いた葦津氏は、これ以上政府に頼っていては間に合わなくなると判断して、即刻、神社関係者に呼びかける行動に移ります。
そして、当時の神社関係の民間団体でありました、財団法人・神宮奉斎会※の専務理事・宮川 宗徳氏。
※神宮奉斎会:明治の新政府によって、行政・神社制度の改革がなされていくなかで、明治5(1872)年には、教部省の設置に伴い、神仏合同の宣教体制を採用することになった流れをうけて、伊勢の神宮の一神官による願い出により、伊勢の神宮の崇敬を中心とした教会の開設が組織化していき、その後に諸々の再編成がなされていった結果、明治15(1882)年には独立して「神宮教」へと改称。
その後の明治31(1898)年7月16日に「民法(法律)」が施行された流れをうけての決議を行った結果、明治32(1899)年9月に解散して「財団法人・神宮奉斎会」となりました。
主な活動は、神宮大麻(伊勢神宮の神札)を頒布(広く配って行き渡らせる)することなどを致しておりました。
財団法人・皇典講究所の専務理事・吉田 茂氏(元首相ではありません。同姓同名の別人です。)
※皇典講究所:明治の新政府により、諸制度の改革がなされていくなかで、日本文化を基盤とした近代的制度を確立していこうという気運が高まりまして、神道関連制度の諸分離に伴い、神職養成と日本文化の考究(こうきゅう)を担う研究教育機関の創立が求められたことにより、明治15(1882)年に国史・国文などの古典を研究・教授するための機関として設立され、同年9月に開校。神官神職の養成・教育事業にも関与しておりました。
神社界の長老※で、財団法人・大日本神祇会※2(全国神職会)や、内務省・神祇院 の顧問などを務め、葦津氏とは親戚関係にあった、高山 昇氏など、当時の神社界の中枢人物に相談に行かれました。
※ 長老とは:神社界最高の栄誉とされている敬称。現在は神社本庁より贈られる称号で、称号と共に「鳩杖」が贈られます。
一例として、以下の記事を添附いたします。
「『長老』の称号を授与された宮司様の記事 」のリンク
※2 大日本神祇会:全国規模の神職の団体で、明治31(1898)年10月、全国神職同盟会として設立。昭和16(1941)年7月、大日本神祇会と改称。事務所は、皇典講究所内にありました。
そして、高山 昇氏。吉田 茂氏。宮川 宗徳氏は、葦津氏の個人的見解によるお話を聞きまして、宮川氏は即座に協力することを約束しました。
吉田氏は、このときには快い返事はしなかっとのことでした。
そして、神社界の長老である高山氏から了承を得たことにより、その後は、「皇典講究所」「大日本神祇会」「神宮奉斎会」の3団体の関係者との間で、情報交換や対策の意見交換が行われていきますが、この時点では、しばらくは占領してくる米軍の様子を伺うしかなかったようです。
その一方で
当時、神社関係の監督官庁でありました、内務省の神祇院(じんぎいん)は、8月18日付で、各都道府県知事および官国幣社 宮司に対して「大東亜戦争終結に伴ふ神職奉務に関する件」という通牒を出しまして、「神社の祭祀は、あらゆる困難を排し、できる限りの方途(ほうと)を尽くして、之が厳修を期すことをはじめ、毅然たる態度をもって臨機の措置により、あくまで神聖奉護に万全を期すること」との指示を出したとのことでした。
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(神社新報社、平成19年、第3版)より転載
また、「ポツダム宣言」受諾の通告がなされたあと、連合軍は東京湾周辺地域に進駐(しんちゅう)していき、占領の準備がなされていきます。
このお話の続きは、次回にいたします。
【参考文献】
・葦津珍彦『昭和史を生きて―神国の民の心』(葦津事務所、平成19年1月)
・神社新報企画・葦津事務所編『神社新報五十年史(上)』(神社新報社、平成8年7月)
・神社新報社編『神道指令と戦後の神道』(神社新報社、平成18年9月、第4版)
【関係主要人物のご紹介】
今回の話より登場人物が多くなりますので、主要となる関係人物のご紹介をいたします。
(1) 緒方 竹虎氏
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『GHQカメラマンが撮った戦後ニッポン』
(アーカイブス出版)より転載
【略歴/卒論註より抜粋】
緒方 竹虎[明治21(1888)年~昭和31(1956)年]
明治21(1888)年、山形県 書記官(当時)・緒方道平の三男に生まれる。
明治25(1892)年 4歳の時、父が福岡県書記官に転任したため福岡に移住。
明治4(1911)7月、早稲田大学専門部政治経済科卒業。
同年11月、大阪朝日新聞社に入社。大阪通信部勤務となる。
大正12(1923)年4月、東京朝日新聞社整理部長に就任。
昭和11(1936)年5月、朝日新聞社主筆と専務取締役に就任。
同19(1944)年7月、朝日新聞社取締役・副社長を辞任し社友となる。
小磯内閣の国務大臣兼情報局総裁に就任。
昭和20(1945)年4月、小磯内閣総辞職にともない退官。
同年5月、鈴木内閣の内閣顧問となる。
同年8月、東久邇宮内閣の国務大臣兼内閣書記官長兼情報局総裁に就任。
同年10月、東久邇宮内閣総辞職にともない退官。
同26(1951)年9月、福岡県人会副会長に就任。
同27(1952)年9月、自由党に入党。
同年10月、第4次吉田内閣の国務大臣兼内閣官房長官に就任。
同29年(1954)年12月、自由党総裁に就任。
吉田内閣総辞職にともない退官。
昭和31(1956)年1月28日、帰幽(逝去)。享年68歳。
【参考文献】
栗田直樹『緒方 竹虎』(吉川弘文館、平成13年3月)
葦津珍彦選集編集委員会編『葦津珍彦選集 第三巻』(神社新報社、平成8年11月)
(2)宮川 宗徳氏
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【略歴 卒論 註より抜粋】
宮川 宗徳[明治19(1886)年~昭和38(1963)年]
熊本出身。明治43(1910)年、國學院大學国史科卒業。
翌44(1911)年、日本大学政経科を修了して内務省に入り、文部省を経る。
昭和16(1941)年、東京市会議員に当選。
同18(1943)年、國學院大學 理事に就任。
同20(1945)年5月、神宮奉斎会 専務理事に就任。
同年8月中旬頃より、神宮奉斎会を代表して、大日本神祇会・皇典講究所等と連絡を取り、対応策を練り、三団体が合併して神社本庁を設立する上で大きな役割を果たした。
同21(1946)年2月、神社本庁 初代事務総長に就任。
同年7月、資金・用紙の確保等困難な状況の中で機関紙「神社新報」を創刊して社長に就任。
神社の護持を図った。靖國神社廃止説が出されると保全につとめ、GHQとも交渉した。
同22(1947)年、占領軍によって実施された「公職追放令」によって「神社新報社」社長を退任。
同23(1948)年3月、神社本庁 事務総長を辞任。顧問を委嘱(いしょく)された。以後、伊勢の神宮信仰の弘布につとめた。
昭和38(1963)年1月18日、帰幽(逝去)。享年76歳。
(出典:『神道人名辞典』より)
【補註】宮川氏は、熊本県阿蘇の神社に代々神職を務める家系(社家)出身で、葦津氏とは、お互いの父親同士が親交していた経緯でのつながりがあります。
(3) 吉田 茂氏
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【略歴 卒論 註より抜粋】
吉田 茂[明治18(1885)年~昭和29(1954)年]
大分県出身。銀行員の父の転勤により東京に移住。
明治44(1911)年、東京帝国大学法科卒業。内務省に入省。
大正3(1914)年、石川県警視。
同6(1917)年、明治神宮造営局書記官外苑 課長。
昭和2(1927)年、内務省神社局長 兼 造神宮副使 となり、第58回神宮式年遷宮の準備に当った(神宮とは、伊勢神宮の正式名称)
同12(1937)年1月、貴族院議員。
同15(1940)年1月16日~7月22日、厚生大臣。
同18(1943)年7月、福岡県知事等を歴任。
同19(1944)年12月19日~翌年4月7日、軍需大臣。
昭和20(1945)、皇典講究所 専務理事。
同年11月、一私人としてGHQを訪問。
バンス宗教課長と会談したことにより、神社は国家管理を離れ民間法人として自立する他はないこと、また、國學院大學は私立の神道大学として存続可能であることなど、GHQの意向を政府に先がけて確認した業績は高く評価され、神社本庁設立に尽力した。
同22(1947)年、「公職追放令」によって公職を去る。
昭和28(1953)年6月、神社本庁 第5代事務総長に就任。
翌29(1954)年12月9日、帰幽。享年70歳。
(出典:『神道人名辞典』など)
【補註】吉田氏は、父耕次郎氏の知友で、小磯 國昭内閣の時には、軍需(ぐんじゅ)大臣を務められておりました。余談話としましては、吉田 茂 元首相とのお付き合いがあり、同姓同名なため、勘違いによるさまざまなエピソードがあったそうです。私が知るお話の一つとしては、お中元・お歳暮の届け先の間違いはよくあったそうで、お互いに「間違ってこっちに届いていたよ。」と笑いあっていたそうです。
(4)高山 昇氏
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【略歴 卒論 註より抜粋】
高山 昇[元治元(1864)年~昭和25(1950)年]
文久3(1863)年頃、群馬県原町にて大宮巌鼓神社・祀職の子に生れる。
明治19(1886)年、皇典講究所卒。
同28(1895)年、静岡県大宮の浅間神社宮司を拝命し、翌年国幣中社より官幣大社に昇格、八合目以上境内地認定等のことを実現する。
同29(1896)年、父帰幽のため巌鼓神社 社司に就任。
明治35(1902)年、皇典講究所、國學院大學全焼に伴う復興事業のため皇典講究所主事に就任。
大正2(1913)年、厳島神社宮司に転任。
同13(1914)年、伏見稲荷神社宮司に転任。稲荷信仰の宣揚に努力、東伏見稲荷神社創建。地方稲荷奨学資金の設定等を行う。
昭和12(1937)年、叙従四位。同年稲荷神社宮司を退職し、皇典講究所 専務理事に就任。乃木神社 社司兼務、神社局参与、神祇院参与、大日本神祇会顧問等に任ぜられた。
同20(1945)年、乃木神社 社司を退職。
同21(1946)年、神社本庁顧問となる。
昭和25(1950)年、帰幽(逝去)。享年87歳。
(出典:『神道人名辞典』など)
【補註】祖父・葦津 磯夫氏とのお付き合いからのご縁で、珍彦氏の妹君が高山家へ嫁がれ親戚関係にありました。祖父君が神社界にて諸活動されていた時に目を掛けて頂いていたとのことで、頂戴した博多帯を大切にされて、大事なことを決める時には必ずこの帯を巻いて臨まれたそうです。
(5)賢夫人(葦津 テル夫人)
戦後、珍彦氏は国という家を護るための言論活動をされていかれますが、その陰には葦津家を護るための活動と夫の活動を支えておられた、奥様のテル夫人もいらっしゃいますので、ご紹介いたします。
【余談話】夫人のお名前。調べておりますと文献などの表記には「テル・照子・テル子」の複数ありましたので、連載前に面識があった親族の方に正確なお名前をお伺いしたことがあったのですが「そのように書かれているのだから、どれもそうなのでしょう。」との謎返答を頂きましたので、墓標によりました。
このことは、卒論研究時に泰國氏より、珍彦氏の妹君がご病気になられた際に改名されたお話をお聞きしたことがありましたので、夫人のご病気をきっかけに改名した可能性を推察しております。
(この世代の他の方からも、同様の例での改名話もお伺いしております)
夫人に関するお話は、御子息の泰國氏のブログの上掲記事「母の命日に思うー44年目の母の命日」(平成25(2013)年2月20日付)などにて語られております(御家族のお写真も掲載されております)
泰國氏のお話によりますと、テル夫人は心優しく気丈な女性で「心に太陽を」というお言葉がお好きでモットーとされ、戦後の苦しい中でも明るくふるまって人生を全うした人であった。と語られております。
福岡県(九州筑後)出身で、夫人の祖父君は陸軍の中将を務められていた御家とのことで、珍彦氏とのご縁は、珍彦氏の父母君を介してのお見合いにより昭和10(1935)年10月に結婚。結婚後は、珍彦氏より教えてもらった諸々の知識を吸収されていかれたとのことで、3人のお子様をお産みになられました。
テル夫人は、家事・子育てと同時に珍彦氏の助手役も務められ、珍彦氏の書いた原稿の整理、珍彦氏が集めた資料をいつでも参照できるように準備され、訪問者のご応対もされておられたそうで、珍彦氏のお仕事仲間や御親族方は「あの家には珍彦さんが2人いる。テルさんは、小珍彦氏だ」と言われていたそうです。
昭和20(1945)年当時、テル夫人は27歳。
戦中に御家族が集団疎開することになった時、夫の活動を最後まで手伝いたいと自宅に残り、終戦直後の米軍上陸の際には、葦津家の御先祖様が代々奉仕しております、筥崎宮をお守りする為に、同居している末弟の大成氏と共に福岡県へ行かれたり、占領後は、米軍将校用の住宅にと米軍が葦津邸を訪ねてきた際、夫人は機転をきかせて追い返されたそうです。
このように珍彦氏の陰で、夫も家庭も支え続けてこられた夫人でございますが、昭和45(1970)年2月7日の早朝、くも膜下出血により、52歳という若さで帰幽(逝去)されました。
戦後動乱期の諸活動中においても気丈でありました珍彦氏ですが、最も信頼していた夫人の死に大きなショックを受けておられたご様子だったそうで、葬儀後、寝室に御遺骨を安置し続けられ、見かねた御家族の強い説得により、半年後の8月になってようやく墓地に納めることを同意されたという悲しきお話もございます。
そして、その後の同年6月に、テル夫人も刊行にあたりお手伝いされておりました、葦津 珍彦 著『葦津耕次郎 追想録』が私家版で刊行されました。
【註】珍彦氏のお話(記憶が正しければ上記著書にて書かれていたと思います)によると、ご自身よりも父 耕次郎氏の身近におられたテル夫人の方が父君についてご存知な所が多いだろうと、父君の追想録を刊行するにあたり資料等のまとめをまかせて、ほとんどテル夫人がまとめられたとのことでしたので共著といっても過言ではないように思います。
ですので、私が作成した略年譜内には、あえて「妻と共著」とお書きいたしました。
今回のお話は以上でございます。ご拝読ありがとうございました。拝