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論考│幻の連峰——風景と「わたし」

 繰り返される日常のうちに、「いま、わたしはここに在る」というつよい実在感が胸のなかに呼び起こされる瞬間がある。

 大学からの帰り道を歩いていた秋の夕暮れ、わたしは、葉を落としつつある雑木林や掘り起こされた畑越し、遠く西日を浴びて光るビル群の背後に、白く輝く山脈を見た。そびえる山々は、刻々と移りゆく夕映えのなかで、美しい幻想のようにゆらめいて見えた。

 もちろん、それは錯覚に過ぎなかった。関東平野に位置する海沿いのこの町で、市街の背後にそびえる連峰など見えるはずがない。港のビル群の背後にあるのは、狭苦しい東京湾と、のっぺりとした輪郭の房総半島だけだ。それでもあのとき、わたしはたしかに美しい山々の稜線を見たように思った。それが、夕日に照らされたはるか彼方の雲の峰であったとしても。あの瞬間、わたしは、わたしを衝き動かそうとする強い感動を、涙とともにこらえ、やり過ごさねばならなかった。そして、同時に胸のうちに生じたのは、まさに、「いま、わたしはここに在る」という実在感だった。それは、眼前にひろがる日常を超えた美しい風景と対峙してこそ得られる、きわめて繊細な感覚だ。

 思い返してみれば、高校のころのわたしもまた、こうした感覚をみずから得ようとしていた。駅への道をいそぐ朝の時間、目を細めることで街道の奥に見える大きなビルを青く霞む連峰に見立てて、いま見知らぬ山麓の町にいるのだと自分を錯覚させるという遊戯をしばしば行っていた。高校のわたしも大学のわたしも、「山」につよい郷愁を感じていたわけだが、もしわたしが山あいの町に生まれ育っていたなら、「海」にこそ同様の郷愁を抱いていたのかもしれない。

 いずれにせよ、こうした経験においてわたしは、眼前の風景を瞬時に「ここでないどこか」に転換し、日常を超えた美しい風景のなかに自分をおくことにつよい感動と実在感を覚えていた。

 こうした感覚は、たとえば故郷からとおく離れた旅先においても実感されるものだが、それでも日常というサイクルのうちで味わうからこそ、予期しない喜びによってその風景が深い感動に印象づけられるのかもしれない。

 つげ義春は、とくに「日常」や「旅」という主題に向き合いつづけた作家だが、かれは、多摩川河川敷の朝鮮人集落を描いた『近所の景色』で、「梶井基次郎の小説「檸檬」に次のような一節がある」といって、『檸檬』のつぎの箇所を引用している。

 何故だか其頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えてゐる。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしても他処他処しい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗いてゐたりする裏通りが好きであった。雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまふ、と云ったやうな趣きのある街で、土塀が崩れてゐたり家竝が傾きかかっていたり――勢ひのいいのは植物だけで、時とするとびっくりさせるような向日葵があったりカンナが咲いてゐたりする。
 時どき私はそんな路を歩きながら、不圖、其処が京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎――そのやうな市へ今日自分が来てゐるのだ――といふ錯覚を起さうと努める。

つげ義春『近所の景色』(ちくま文庫刊『つげ義春コレクション 近所の景色/無能の人』より)  

 さらにつげは「私は梶井のこの繊細な感覚が好きだ。これは梶井の存在の不確かさに揺れ動く不安な心をみごとに表している」とつづける。存在の不確かさ。してみれば、梶井は遠い町にいるという幻想に自身をおくことによってのみ、自身の存在をたしかな手触りで見定めえたのかもしれない。とくに後期のつげの作品においても、社会とのかかわりを絶ち、どこか気の抜けた絶望と孤独を感じながら自然のなかを彷徨する人物がしばしば描かれる。それは、現在の場所に自身の実存を見出せずに、茫漠な自然に吸収されることを志向するつげ自身の姿にほかならない。

 わたしはこうした感覚——日常の風景をまったく目新しいものとして眺めて、その風景のなかに在る自分の存在をかみしめるという感覚に共感を覚えるが、それは、変わりゆく「風景」のなかで、その風景とは関係なく「いま、ここに在るわたし」をはっきりと自覚することができるからだ。もちろん、「わたし」もまた、常に変わりゆくものであるが。

 日常において、「風景」の時間と「わたし」の時間とは、並行してまじわることなく流れつづける。だとすれば、述べてきたような感動や実在感とは、このふたつの時間が、日常というレールを外れてまじわった瞬間に生じるものであるようにも思う。その瞬間、目に映る風景のうちには、ある「意味」や「美しさ」が必然のものとして浮かびあがる。

 それは、ふと小説から顔をあげて窓外の風景を目にしてため息をつくような、映画館から出て眼前の風景のあざやかさに呆然とするような、そんな感覚とも似通う。その感覚とは、つきつめれば、あまりに巨大なこの世界や自然に対する本能的な感動と、そのさなかに生きる自分自身の驚異にほかならない。それは前述したように「風景」と「わたし」とが一致し、調和するその瞬間にえられるものであるが、一方で坂上弘という作家は、『土手の秋』のなかで、日常において「風景」と「わたし」とが無関係に在りつづけることへの感慨も述べている。

 町並みを抜け、畑を抜け、土手に行くというコースが頭の中に描かれていたときの気持ちと、今土手をあるいている気持ちとはまた別のものだ。土手の上ならば自由だ。駆け足出張のことを自分でねぎらうのもよし、できそこないのアバンチュールを想うのもよし、来し方行く末を占うのもよし、この行動は私にあることを約束してくれる。
 それは、他人から離れるという習慣だ。つまり、この瞬間に何かよそでドラマが起こっているということを強く感じさせる予感と、それに対する距離と、また醒めることにもつながっているあの誰かが与えてくれる約束だ。物を考える知性がかくも頼りないものかと思える瞬間でもある。

坂上弘『土手の秋』(講談社文芸文庫刊『田園風景』より)

 どうにもむずかしい。「物を考える知性が頼りない」とは、何を意味するのか?彼の文章はおおくの余白を残すが、それでもわたしは、この一節のなかの「土手の上ならば自由だ」という一文に無性に惹かれてしまう。外界の空間や時間とは関係なく、「わたし」というものは自由に在りつづける。この一文は、そのことを簡潔に、そしてつよく訴えかける。

 ここでいう「わたし」とは、たとえばベルクソンのいう「持続」にほかならない。外界のいかなるものにも侵しえない、純粋でどこまでも自由な「わたし」だ。坂上は、とくに素朴な自然のなかを散歩する「わたし」を描くことで、外界の風景と「わたし」の内面のふたつに同時にスポットライトを当て、それぞれののびやかな美しさを互いに強調させあうことに成功した。それは作中の巧みな自然描写や心理描写を読めばおのずと納得されるが、『土手の秋』が収録されている『田園風景』(講談社文芸文庫刊)の巻末、佐伯一麦の解説でもそのことが指摘されている。

 悲惨だったり陰惨だったりする出来事の渦中にあっても、それとは無関係に成立している外側の世界にも照明は強く当てられて焦点は合わせられており、描かれたキャンバスは曇りない相貌を見せている。そこには日常についてのさまざまなイメージが、同時に並立的に立ち現れているようだった。

佐伯一麦「「私」の内なるサイクル」(講談社文芸文庫刊『田園風景』より)

 考えてみれば、「風景」すなわち外界・世界が「わたし」すなわち個人と接触をもつその瞬間こそ、あらゆる芸術の出発点であるようにも思える。すくなくとも、わたしにとって、美しい風景とは、ひとつの書く動機になりうる。あるいは、美しくなくとも、そこに「意味」が感じられる風景ならば。そうした風景にであうとき、わたしの心はどうしようもなく揺すぶられ、かき乱され、突き動かされる。それは、わたしが乗代雄介という作家に学んだ態度でもある。

 あくまでその感動をこらえ、「風景」と「わたし」とを別個のものとして描きえたとき、両者のあいだに見えない関係性が透明な糸のように現れ、「意味」がひとつのかたちをとって結実するのではないか。そんな瞬間がいつか訪れることを願って、わたしは、幻の連峰を見つめつづける。

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