天地神名(Unique ancient Japanese Gods) 回峯院弥雲(えほういんみくも) 制作雑記
こんにちは!
はじめましての方ははじめまして
カワバタロウです!
今回の神様は
天地神名シリーズのラストの神様#008!!
「零(こぼ)れ落ちた衆生を救う」
「拾う神」
そして
「回峰(かいほう)し苦行する」
「蜘蛛見(くもみ)の神」
になります……!
前回の神様、
#007「丹金ノ赫座」(あかがねのかぐら)と同時タイミングでの発表となった今回ですが、
実は、シリーズ当初は描く予定が無かった神様で、
本来であれば
前回(#007)で一先ずの区切りとなる予定でした。
しかし、#004の神様
「甲斐湖ノ白姫」(かいこのしらひめ)制作中のロケハンがきっかけとなり、
突如として
「描きたい……!」
……というか
「描かなくては……!」
というある種の思いがきっかけとなり、
追加で筆をとることとなった次第です。
「福慈」(ふじ)周辺にまつわる様々な情報を調べて行くと、
きらびやかに光る歴史や史実、
いわくつきの伝説・史跡など、
数多(あまた)の名残に触れることがあるのですが、
しかし、それら多くの事象の中には、
妙に気になる、なんともすっきりしないお話がいくつかあって、
それはまるで
「魚の骨が喉に刺さり、唾を飲むたびに思い出すような感覚」
であって、
それは一体なんだろうと整理していくと、
どうやらそれは
「零(こぼ)れ落ち」
「救われず」
「消え去った者たち」
または、
「冷遇され」
「なくなったり」
「いわれなき負のイメージを植え付けられたもの」
そして
「排斥され」
「細々と現代に受け継がれているもの」
などであり、
これら一切合切をどう呼称すればよいか悩みましたが、
現代で言うところの
「多様性」
が近いのではないかと思い、(全然違っていたらスミマセン…)
それら気になる要素を独断と偏見で寄せ集め、
どうにかこうにかして再構築し、
さらには
私の好きな要素をあれこれと添加した、自由な発想による神様、
それが、今回最後を飾る
「回峯院弥雲」(えほういんみくも)となります。
【 回峯院弥雲(えほういんみくも)】
(制作のきっかけ)
まずは、
当初描く予定の無かった今回の神様を、
なぜ描こうと思ったのか?
その動機のようなものについて
紹介していきたいと思います。
#007のラストでも少し触れましたが、
この「天地神名」というシリーズに
「全力を注いだ理由……!」
いわゆる
「頑張らなければならない……!」と、
思わせる、とある1つの出来事がありました。
これについては、言うべきかどうか悩みましたが、
しかし、
「事実なのでしょうがない……」と、いうことと、
さらには、
この出来事がきっかけで今回の神様を創作したわけですから、
ここに、ありのままを紹介させていただこうと思います。
結論から言えば、
それは「オカルト(霊)」に関連した出来事になるのですが、
「心霊写真」のようなものが撮れてしまったことに起因します。
それが一回であれば、まあ……「何かの偶然だろう」で済んだのですが、
比較的短期間に2回撮れてしまったことから、
あまりそういったことを気にしない私ではありますが、
「これは…………」
「何かが……」
「何かを訴えているのでは……?」
―と、
思うに至った次第です。
私自身は、
あまりこういった、いわゆる霊的なものに傾注する性格ではなく、
過去に何度か霊っぽいものを見たような気はするのですが、
ただそれだけで、
「話のネタとしてたまに話したかなー……」
ぐらいの経験しか持ち合わせていません。
「人の興味を惹きつける」点において、
心霊系の話はとても魅力的で、私もよくYoutubeなどで見るのですが、
「大々的に紹介する理由」より、「そうしない理由」の方が
私的には圧倒的に多く見つかってしまうため、
特に言及することはなく、今の今に至っています。
しかし、こと今回に限っては
「天地神名シリーズ」の最後を迎えることもあり、
拙い出来ながらも
「めっちゃ頑張ったなあ……」と思えるような作品で感慨深く、
さらに、
「このことがきっかけで創作した#008の神様」とも言えますので、
いわゆる「ワーカーズハイ」的なものが大いに関与しているのかもしれませんが、
前向きな思いとともに、
あえて今回、言及する運びとなりました。
しかし、熟慮を重ねた結果、
「写真自体を直接noteに載せるのは止めよう」
と判断しました。
以下、文章だけになりますが、
簡単に経緯などを紹介したいと思います。
まず、
一つ目の写真は、2021年9月に撮ったもので、
これは、「天地神名」という名称を
シリーズ名として冠する前の出来事、
さらにいえば、
このシリーズを本格的に始めるほんの少し前の出来事であり、
山梨県のとあるキャンプ場で
焚火(たきび)をしていた時に撮った写真になります。
その写真を撮ったのは夜で、
たぶん19時~21時頃だったかと思います。
辺りは真っ暗でしたが、
たき火は煌々(こうこう)と燃え盛り、
写真中央に写る焚火台の向こう側に
「赤白く光る」
「結構な大きさの、謎の人影のようなもの」が、
ガッツリと写り込んでいた写真になります。
キャンプを終え、家に帰ってからそれに気付いたのですが、
見つけた時はさすがに「ギョッ」となってしまい、
しばらく固まった事を覚えています。
「…………なにこれ……??……なんか写ってる……??」
と、
得体のしれぬ恐怖に包まれながら、しばらくまごまごとしていましたが、
よく見ると
「大きな光」と「小さな光」がくっついて
偶然と人の形に見えるような気がしたので、
「おそらくは焚火のせいなのだろう……」と、
最終的にはそんな風に思い至りました。
そして、
その後はあまり気にすることなく日々が過ぎ去っていったわけですが、
もし、キャンプ中にこの写真を見つけていたら、たぶん怖すぎて寝れなかったと思うので、
そういった意味ではラッキーだったのかもしれません。
訪れたキャンプ場について説明すると、
そこは星が良く見えるロケーションで、山の上にあり、
そんなに有名ではありませんが、施設はしっかりとしていて
とても居心地が良いキャンプ場でした。
一年前の当時においてもキャンプ人気は凄かったため、
有名なキャンプ場はすぐに予約で埋まってしまう状態でしたが、
当時このキャンプサイトにおいては私一組しかおらず、
ほぼ貸し切りの状態でした。
設営したテントの目の前は、一面、深い森が広がっており、
鬱蒼(うっそう)としていたのですが、
しかし、なぜか
非常に見通しが良い森でもあり、
森の奥から何かに見られているような……
そんな感覚がある場所だったことは覚えています。
とりあえずこの写真については、
何かしらの偶然による一枚か、
仮にもし霊的なものが写ってしまったのだとしても
「霊がたき火に当たりに来たのではないか」
という考えに落ち着き、
それ以外は取り立てて変なことはかったかと思います。
しいて上げるならば、
真夜中に満点の星空と、UFOのような流れ星を2~3個見ることができ
「霊がたき火のお返しに、良いものを観させてくれたのでは?」
とすら思い、
むしろ感謝したような気もします。
そして、
この時はまだ
「神様を創作して描く」という行為にほとんど畏怖の感情もなく、
ただの創作活動の一環として捉えていましたが、
次に撮った写真と、この時の写真とを合わせて、
身を引き締める思いを新たにすることとなりました。
2枚目の写真は2021年の11月、
つまり一枚目の写真から2か月後に撮影したものになるのですが、
比較的短期間でこのような写真が再び撮れてしまったのは初めてで、
見つけた時は正直、
背筋に冷たいものが走ったような感覚を覚えました。
これは#004の「甲斐湖ノ白姫」(かいこのしらひめ)のロケハンの際に立ち寄った
「北口本宮冨士浅間神社」で撮ったもので、
神社を案内する電子パネルに写り込んでしまった、
「なんとも険しい表情をしておられる(ように見える)」
「謎の顔」になります。
当時私は、養蚕のルーツを取材するべく
それら御神徳を持ちあわせていた
「コノハナサクヤヒメ」を頼ってこの場所を訪れ、あちこち撮影をしていたのですが、
またもや撮った数日後くらいに異変に気が付き、
「え……?なんか写ってないこれ……」
と、
最初は自分の顔が写り込んでしまったのかな、と思い、何度も見比べてしまいましたが、
私とは似ても似つかない面持ちだったので、
「絶対違う……」と判断し、
これを消すべきかどうか、思い悩みましたが、
「消すと起きるかもしれない謎のリスク」をたくましく想像した結果、
とりあえずそのままにしておくことにしました。
「私以外の誰かが写っちゃったのかなあ……」
とも思いましたが、
当時、その場所は人がほとんどおらず、
後ろには誰もいなかったような記憶があり、
一応、北口本宮冨士浅間神社に電話して確認してみましたが、
「ここには、人の顔は出てこない」
とのことで
「パネル自体がとても反射しやすいので、誰かの顔が写り込んでしまったのではないか?」
とも言っておられました。
確かにおっしゃる通り……!
その可能性が一番高いとは思うのですが、
連写したもう一枚の写真には何も写っていなかったため、
やはり「何かしら」が写ってしまった可能性も否めない……
とも感じました。
そしてしばらく考えた末、一番最初に思い浮かべたのは、
「ひょっとしてこれ……」
「イワナガヒメでは……?」
というもので、
当時私は富士山の歴史にあまり明るくなく、
「イワナガヒメが」
「コノハナサクヤヒメに会いに来たのかなあ……」
などと、
畏れ多い妄想に耽(ふけ)っておりましたが、
しかし、
富士山の歴史を調べるうちに気づいたもう一つの可能性としては、
「北口本宮冨士浅間神社」というのは、
かつて江戸時代、
「富士講」で大いに栄えた場所でもあり、
富士講と言うのは
富士山を参拝するための代参講、
つまり
講の仲間が少しづつお金を出し合い、代表者を選び
順番に富士登拝をさせていた組織、となりますが、
ここ、富士吉田においては
御師(おし)による宿泊施設の提供、案内などの連携もあってか
富士講が爆発的に発展するきっかけを作った場所でもあり、
多くの人々が富士山を登るために
「北口本宮冨士浅間神社」を起点として
禅定道(ぜんじょうどう)を踏み出していった特別な地でもあります。
のちに富士講中興の祖として崇められることとなる
「食行身録」(じきぎょうみろく)も、
富士山で入定死(にゅうじょうし)する際は、
ここ吉田口から登山したと言われており、
そういった面においても
様々な「念」のようなものが渦巻いていても、なんらおかしくはない領域とも言え、
で、あるならば、
仮にこの写真に何者かの霊が写ったとするならば、
富士登拝の為にこの地に集まり、信仰し、踏み出していった、
「富士講徒」か「修験者」のような方なのではないだろうか……。
とも、思うようになり、
そう考えると、よりイメージに具体性ができ、
「これは……」
「なんというか…………」
「私に描けということなのだろうか……」
という
謎の使命感のようなものが沸々と湧き上がってきたことを思い出します。
まあ…………
正直、普通の生きている人間の顔が写り込んでしまったか、
もしくは、影か模様のようなものである可能性が一番高いとは思いますが、
仮に霊的なものが写っていたとして、
この険しいお顔を見ていると
「ちゃんとやりなさい……」
「見ているからな……」
と訴えられているような気がして、
真実はどこにあるのかは分かりませんが、
#003「冥応丸」(みょうおうまる)で記した
「お天道様」
つまり、大いなる何かしらの存在に見られていると仮定して、
「本気でやらなきゃ……!!」
とも、思ようになったわけです。
しかし正直、こういった写真は見つかっていないだけで
きっとあちこちにあると思うのですが、
見つけてしまった以上、何かしらの縁もあると思うので、
そういった意味においても
大切にやらせていただいたシリーズとなります。
【 イワナガヒメの呪い 】
#008制作における動機の一端は上述した通りですが、
富士山周辺に関わる情報をあれこれと調べて行くと
「追加で描いてみたいなあ」
と思う題材に巡り合うことがあり、
ある種それらも、今作を描く動機の一つとなっています。
一番最初のきっかけは、先の心霊(?)写真でも言及した
「イワナガヒメ」という
日本神話における悲劇の女神を知ったことに関係するのですが、
これがまた、とにかく無慈悲な話で、
「なぜこれを正史に書いてしまったのか……」
と、今でも普通に思ったりします。
イワナガヒメは山神の総元締め「オオヤマツミ」の娘で、
「コノハナサクヤヒメ」と言う、
とても美しい神様のお姉ちゃんに当たる神様になりますが
コノハナサクヤヒメは「桜」の語源ともされ
見目麗しく、儚いとされる一方、
後に三柱の御子を出産する母神でもあり、
「火の神」「水の神」と崇められ、
現在においては富士山の神様とされるなど、
二物も三物も与えられた
愛すべきヒーロー的神様となります。
では、
片や、お姉ちゃんの方はどうかと言うと……。
彼女……イワナガヒメは
美しい妹とは違い、
「容姿は醜く」
「岩のような体躯(たいく)をしている」
とされ、
しかし、それ以外の情報については
詳しい描写が少なく、
彼女がもともと、どういった性格で何を考えていたかなど分からず、
謎多き神様であるとも言えます。
しかし、同じ父を持つ姉妹であるにもかかわらず、
二人の性質は極端なほどまでに対照的に描かれており、
美醜に、長寿、
短命など
とても興味深い関係であるのは間違いありません。
そして二人は、後に
「アマテラスオオカミ」の孫、
「ニニギノミコト」
という神様に揃って嫁ぐことになるわけですが、
美しいサクヤヒメは、ニニギノミコトに見染められ、
速攻で結婚を迫られるものの、
一方、姉であるイワナガヒメは、
その醜さから
ミコトに受け入れてもらえず、
一人だけ親元へ突き返されるという
無慈悲な仕打ちを受けることとなります。
イワナガヒメは、父であるオオヤマツミに
サクヤヒメと一緒にミコトの元へと嫁ぐよう仰せつかったわけではありますが、
その際、
オオヤマツミは何と言ってイワナガヒメに伝えたのか……
そこらへんもちょっと気になるところです。
「ミコトから婚姻の了承は得ている」
と伝えたのか、
それとも
「ダメかもしれないけど、とりあえず準備して嫁ぎなさい」
的な感じだったのか……。
ここら辺はすべて私の妄想になりますが、
おそらくオオヤマツミは
「ミコトから結婚の確約は取っている」
「待っているはずだから、早く行きなさい……!!」
ぐらいの勢いで
イワナガヒメを焚きつけていたんじゃないかなあ……
と妄想せずにはいられません。
―というのも、
断られた後の彼女の様子を見てみると、
なかなかの荒(すさ)みっぷりで、
拒絶されたことに対して
相当ショックを受けていたであろうことは容易に想像でき、
つまりイワナガヒメは
「ノリノリで嫁入りの準備をして」
「綺麗に着飾り」
ミコトの御前に出るその瞬間まで
「心躍らせていた」
……そんな気さえしています。
しかし、
結果は無慈悲な「門前払い……!」
その時イワナガヒメの胸中は
いかがなものだったか……。
察するに余りあります。
確かに、ニニギノミコトからすれば
お嫁に欲しかったのはサクヤヒメだけであって、
美人の妹とは似ても似つかぬ醜い容姿の者が突然やってきて
「あなたの嫁になる!」
と言われても、
困惑するのは当然で
しかし、
ちゃんと確認しなかったニニギも悪いとは思うのですが
ひょっとしたら
「オオヤマツミにしてやられた……!」
ぐらいの感情はいだいていたのかもしれません。
ですが、
雑に追い払って以降、ニニギノミコトが何か一つでも
イワナガヒメを気遣い、フォローするような事をしたのかと言えば、
そういった話は一切見られず、
おそらくはそのまま
「無慈悲なほったらかし状態」
が続いたのではないかと思います。
ゆえに、
耐えがたい辱(はずかし)めを受けたイワナガヒメは
誰からも慰められることはなく、
「呪いの言葉」を吐き
そのせいで天孫の御子の寿命は、
短命になってしまったと言われています。
そしてここで余談ですが、
このお話は、日本書記と古事記では少し違うようで、
古事記においては二人の親「オオヤマツミ」が
「ミコトは浅はかな決断をしたものだ」と言い、
二人の姉妹を嫁がせた真の意味を語るのですが、
日本書紀においてはこれが
イワナガヒメが発した呪いの言葉となっています。
―とまあ……
そもそもとして、
ニニギノミコトが彼女を突き返した後、
すぐに何かしらの「埋め合わせ」をしていれば、
おそらくはこんな惨事には、なっていなかったであろう可能性は高く、
この件でイワナガヒメは自尊心を破壊され、
いわゆる
「闇落ち」してしまったのではないか……??
とすら、個人的には考えています。
そして、
その後のイワナガヒメはどうなってしまったのかというと、
正史に綴(つづ)られることはなく、
地方の伝承にのみ語り継がれ、
ミコトに負わされた心の傷を
暗に後世へと知らしめるものとなっています。
宮崎に伝わる話によれば、
イワナガヒメは自身の醜さを嘆き、
鏡を放り投げ、山に籠り、
生きて行くためにお米を育てて暮らした……
という描写が残っていたり、
静岡に伝わる伝承では
彼女は一人、伊豆の山に籠り、
美しい富士山と比較され続け、
1000年以上の時を経てもなお、
呪いをまき散らすような話が残っていたりと、
とにもかくにも、
なんとも報われない有様です。
私がこの話を知った時、
どうにもこうにも、いたたまれない気持ちになり、
ふと気づくと、
なんとなしにイワナガヒメに思いを馳せるようになっていたわけですが、
あれこれと妄想を膨らませていくうちに
「本来のイワナガヒメとは……」
「そもそも、どういった性質の神様だったのか……?」
と
思うようになり、
その答えとして、彼女は
おそらく
「心優しき神」であり、
もともと
「誰かを呪うような性分ではなかったのではないか……」
と考えるようになりました。
というのも、妹のコノハナサクヤヒメは
美しくも儚い神様ではあるものの、
不貞を疑われた折、突如として火中出産を成し遂げるなど
「心の強さ」をふんだんに表すエピソードが見られるのですが、
イワナガヒメは、
そんなサクヤヒメと対照的に描写されていることから推察すると、
外見だけではなく、その性質においてもサクヤヒメの逆……
つまり、
見た目は「気丈に振る舞う頼もしい姉」ではあるものの、
本来は、「とても撃たれ弱い」性質の持ち主であり、
まともに本心を話すことすらできない、
色々と内側に貯め込んでしまう、
「心の弱い」神様……
だったのではないかと思い至りました。
つまり
日本版
「原初のツンデレ」
的な存在だった可能性も捨てきれず、
これは私の妄想上の話なので
ファンタジー以外の何物でもないのですが、
そう考えてみると、
私の中で育まれた「イワナガヒメ像」というものが
整合性を帯びてどんどんと鮮明になっていき、
さらに言えば、
「岩のような体躯」という身体的情報から邪推すると、
もしかしたら、彼女は
「女」ではなく
「男」だったのでは……?
とさえ思うようになってしまいました。
つまり、
日本版「原初のツンデレ」は
さらに言えば
「原初の男の娘」
である可能性も出てきてしまい
さらなる妄想が一人勝手に暴走してしまうのでした。
とまあ……あまり言いすぎると罰が当たりそうなので、
ここらでまとめようと思うのですが、
つまるところ彼女は
「体は男だけれども心は女である」という、
いわゆるノンバイナリーか、もしくは
そういった枠すら超越する存在だった可能性があり、
そう考えたきっかけは、彼女の外見以外にもあって
それは、
イワナガヒメの「父親」とされる「オオヤマツミ」
原初の山神とされる彼は、
書物によっては「女」と解釈できるような記述もあり
また、そもそも山神は「女」とされることが多く、
「男なのか女なのか分からない……」
非常にあいまいで、
謎めいた存在であることが理由となります。
つまり「両性を司る神」とでも言うのでしょうか、
かつて
富士山頂上に大日堂を建立した「末代上人」(まつだいしょうにん)も
富士山の神の性別に悩みぬき、
100日間の断食修行の果てにたどり着いた答えとして、
「男でも女でもない性別を超えた仏」
であると説いており、
そもそも山の神様自体、そういった性質を持ち合わせているのか、
それについては分かりませんが、
親であるオオヤマツミの特性を受け継いだ子が
一人くらいいてもいいんじゃないか……!?
とも思えるような気がして、
「男だけども、女でもある」
見た目は男、心は女、
もしくは、
訳あって女でいることを強いられた神様……
または、
心身ともに女性だけれどもガッシリした体格の持ち主、か
そのどちらでもない存在……。
それが私の妄想上のイワナガヒメであって、
本心を言えず、ストレスを貯め込み、
呪いという形で吐き出すほかなかった
「心優しい弱き神」
だったのではないかと、
そんな風に思うようになっていました。
そして、
思いついてしまった後の創作欲はいかんともしがたく、
どうしても彼女を
「呪い続ける神」
ではなく、
「救いの手も差し伸べていたであろう神」
として描きたいと思い、
彼女をベースとして、他にも様々な要素を織り交ぜて制作したものが
今回の神様
「回峯院弥雲」(えほういんみくも)となるわけです。
【 二つの浅間神社 】
現在のイワナガヒメは
「長寿」と「縁結び」という御神徳を以(も)って
全国各地の浅間神社などに、お祀りされている姿を見かけることがありますが、
「福慈(ふじ)周辺」にある「伊豆の地」においては、
通常の浅間神社とは異なり、
非常に珍しい祀られ方をされている場所があり、
次はこの神社について紹介したいと思います。
その神社というのは二つあり、
「雲見浅間神社」(くもみせんげんじんじゃ)と
「大室山浅間神社」(おおむろやませんげんじんじゃ)
と言うのですが、
標準的な浅間神社であれば、主祭神として祀るのは美しい富士の神
「コノハナサクヤヒメ」であって、
それに関連する神々を勧請するパターンが多いと思われるのですが、
しかし、
この二つの浅間神社においては全くもって違っており、
ここでは、
「醜いという理由で、嫁入り直前で突き返されたイワナガヒメ」
彼女
「だけ」をお祀りするという、
とても珍しい神社になります。
全国8万社以上ある神社のうち、
こういった神社はたったの三社しかないそうで、
しかも、そのうちの「二社」がここ伊豆の地にあるという、
際立った特殊性が見られる場所となります。
かつて伊豆は、
隠岐(おき)や佐渡(さど)同様、配流地とされ、
かの「源頼朝」(みなもとのよりとも)や、
修験道の開祖「役小角」(えんのおづぬ)が流された場所でもあるわけですが、
流罪になった人々というのは
すべからく悪人だったと言うわけでもなく、
政争に敗れたり、
時の権力者によって一方的に断罪されることとなってしまったり、
または
讒言(ざんげん)により濡れ衣を着せられる場合もあり、
流罪人を受け入れ、実際に流された人々を見てきたであろう土地の方々は、
もしかしたら
そういった事を肌で感じとっていたのかもしれません。
よって、
神話時代に冷遇された悲劇の女神を、この地で手厚く迎え入れたということは、
「見捨てられた人々を気の毒に思い、受け入れる」という
やさしい気質のようなものがこの地では育まれていて、
「それが大きく関わっていたのではないか……?」
と、個人的には妄想したわけではありますが、
事実かどうかは定かではありません。
そしてまた、
イワナガヒメを思うあまり……なのかは分かりませんが、
この地に住む人々は、
サクヤヒメを象徴とする富士山を褒めたたえることを忌み嫌ったり、
「富士」という言葉を禁句にするなど、
「見かけだけではなく、心まで寄り添っている」という点も、非常に興味深いところです。
そしてさらに言えば、
イワナガヒメ「だけ」しかお祀りしないという
言わば「ストイック」なこの姿勢も、
もしかすると、そういった理由に起因しているのかもしれません。
イワナガヒメは一地域に根付く土着神ではなく、
全国的に知られる
日本神話における有名な神様になるわけですが、
福慈(ふじ)周辺においての繋がりを、こういった所で強く感じることができたため、
天地神名シリーズとして創作する理由としては十二分であると確信し、
今作の要素として取り入れさせていただいた次第です。
【 雲見浅間神社 と 大室山浅間神社 】
「天地神名シリーズ」を始めてからというのも、
幾度となくロケハンを重ね、
福慈(ふじ)周辺の気になる場所をあちこちと訪れ、取材してきたわけですが、
ここ「雲見浅間神社」については
その中においても、一番「衝撃的」で、かつ
「最も印象に残っている場所」である、
と言っても過言はありません。
というのも、ここは
「気を抜いたら普通に命を落とす」
レベルの険しい場所で、
参拝というか……ある種、山登りのような感じで、
ハイヒールなどの軽装で登るのはもっての外、
途中ですれ違った人も登山用の格好できちんと準備して参拝されており、
崖の際(きわ)を通るような場所もあり非常に危険で、
足を滑らしたら普通に滑落死するような場所もあったりします。
雲見浅間神社は伊豆の南西側、
賀茂郡松崎町雲見にある162Mの烏帽子山(えぼしやま)にある神社で、
静岡に伝わる伝承としては、
富士山頂に登ったコノハナサクヤヒメに対して、
イワナガヒメが手を振り返した場所だと思われる地になります。
この神社は、
かつては富士山同様、「女人禁制の地」として、
中腹以上は女性が登ることができなかったと言われており、
その昔は、多くの修験者が訪れた霊地ともされています。
駿河湾に面した場所にあり、
登拝中に見える眺望は圧巻の一言ですが、非常に風が強く、
山頂にある見晴らし台的な場所においては
大人2~3人くらいしか留まれないスペースになっていて、
そこから見える景色は本当に素晴らしいの一言に尽きます。
しかし同時に、
圧倒的な「恐怖」がそこにはあり、
自然に対する畏怖というものを、存分に味わえる空間……と言ってもいいのかもしれません。
私が山頂に登拝した際も猛烈な風が吹きつけていて、
立っていられず、
見晴らし台へ至る階段を上る際は、
階段に腰を下ろしながら、一段ずつズリズリと……
這うように、慎重に上って行った事を思い出します。
そして、
やっとのことで頂上にたどり着いたわけですが、
そこで立ち上がろうものなら、風で一気に煽られて
そのまま崖下へと落ちて行きそうな気がしたので、
案の定、立ち上がれず、
見晴らし台に座ったまま
数枚写真を撮るのがやっとでした。
この地は非常に険しく、かつ猛烈な風が吹きつけていて危険であり、
まさに、
「荒々らしい」という言葉がぴったりの地であると言えます。
そしてなんと言うか、
非常に「男性的」なイメージを帯びた場所だとも言え
イワナガヒメが
ミコトに拒絶され、呪いの言葉を発した際の
「荒ぶる魂」のようなものが顕(あらわ)れているような気がして、
拒絶され、なにもかにも嫌になり、
心を閉ざして人を寄せ付けないような、
そんな悲しみと畏怖、
そして神性を織り交ぜたようなものが感じられる地……
それがここ、
「雲見浅間神社」ではないのかな、と思ったりもしました。
そして、もう一方の浅間神社、
「大室山浅間神社」については、
「大室山」という非常に穏やかな外見の山の中腹にある神社で、
先ほどとは一変して、こちらは
「優しさ」や「母性」のようなものを感じさせる場所となっています。
「大室山浅間神社」は
静岡県伊豆の東側に位置する伊東市にある火山、
「伊豆東部火山群」の一つとなり、
標高は580M。
国指定の天然記念物でもあり伊豆半島ジオパークの一つでもある観光地です。
頂上へ登るためには専用のリフトを使用しなければならず、
徒歩では登れません。
また、天気がいい日は頂上から、
富士山はもとより、箱根山や海を隔てた伊豆大島などの島々を一望することができ、
全方位において壮観な景色を堪能することができる絶景ポイントでもあります。
大室山の真横には「伊豆シャボテン動物公園」があり、
人気スポットの為、
時期によっては人でごった返しており、
人気アニメ「ゆるきゃん」に登場していた場所でもあります。
頂上から見える富士山の美しさを褒めると、
「良くないことが起こる……」と言われており、
イワナガヒメの呪いが、現代においてもなお恐れられる、いわば
証左のような場所となっています。
イワナガヒメは、
容姿が「醜い」ことで結婚直前に突き返されてしまう悲劇の女神となるわけですが、
彼女のご神体とも言える「大室山」自体に目を向けると、
富士山に負けず劣らずの
非常に形の整った美しい独立峰であり、
そこには
上述したような「母性」を感じさせる穏やかさがあり、
「女性的」で、「堂々とした威厳」すら感じられる山です。
そこには神話で語られたイワナガヒメの
「醜さ」のようなものは微塵も感じられず、
ひょっとしたら「本来のイワナガヒメとは……」
「それほど酷い容姿ではなかったのでは……?」
とすら思えるほどです。
つまり
「美醜」という価値観は、
比較における相対的なものになりますので、
「美の頂点」を妹のコノハナサクヤヒメとした場合、
それと比較して見劣りするものはすべて
「醜」という価値を付されてしまったのかもしれません。
「大室山」から先ほど紹介した「烏帽子山」の方へ目をやると
遠笠山や矢筈山などの数々の険しい山峰が視界を埋め尽くし、
山という自然への畏怖が感じられる場所となっています。
【 荒魂と和魂 】
「イワナガヒメ」にまつわる諸々のインパクトに心奪われ、
何とかしてこれを基に神様を創作することは出来ないだろうか……?
という思いに駆られたわけですが、
上述した「烏帽子山」、「大室山」という
非常に対照的な両山をあれこれ見比べ妄想していると、
なにやら見えてくるものがあり、
次はそのことについて紹介したいと思います。
「雲見浅間神社」が建立された「烏帽子山」(えぼしやま)という場所は
非常に荒々しく「男性的」であり、
反面、「大室山浅間神社」のある「大室山」(おおむろやま)は
非常に穏やかで美しく、「女性的」な印象の山となります。
神道の概念に
「荒魂」(あらみたま)と「和魂」(にぎみたま)というものがあるのですが、
これは、
同じ神様であっても「異なる2つの側面がある」という意味らしく、
同一の神であってもまったくの別人に見えることから、
「荒魂」バージョンと「和魂」バージョンで
異なる神名が付いている場合もあるのだそうです。
荒魂(あらみたま)というのは、
文字通り荒々しく勇猛で、時には災いをもたらす側面であり、
和魂(にぎみたま)は、
平和的で優しい、愛の側面であるとのこと。
この考えを「烏帽子山」「大室山」という、相反する二つの山に当てはめてみると、
荒々しい「烏帽子山」は
イワナガヒメの「荒魂」を表し、
一方、穏やかな「大室山」は
イワナガヒメの「和魂」を表している……
そんな風に捉えることができます。
人間基準で「荒魂」「和魂」を捉えてみた場合、
嫌なことがあって気分が落ち込み、イライラする状態が「荒魂」
良いことがあって気分が晴れやかになり、穏やかな状態が「和魂」
となり、
この例が正しいかは分かりませんが、
人間における感情や気分の振れ幅同様、神さまの魂も
そういった悲喜こもごもによる変化というものが
当然あったのではないかと妄想しています。
であるならば、
呪いの言葉を吐き、山に籠ってしまったイワナガヒメは、
当然「荒魂」(あらみたま)的状態にあったと言え、
逆に「和魂」(にぎみたま)状態のイワナガヒメについては、ほぼ記述がなく
どのようなものであったかを知る由はありませんが、
静岡に伝わる伝承には、
サクヤヒメが姉神を心配し、
はるばる九州の地から遠く静岡まで探しに来るといった描写があり、
そういった断片から推測すると、
イワナガヒメはきっと、
闇落ちする前は「優しい神様だったのではないか……」と
そんな風に思わずにはいられないのでした。
そして、なんとなしに「烏帽子山」と「大室山」を地図上で眺め続け、
気まぐれに線などを結んで見ていたところ、
とあることに気づいたのです。
【 くもを見つける神様 】
あれこれとたくましく妄想を働かせ地図を見ていると、
何となく、
烏帽子山と大室山を結ぶラインが気になったので、試しに一本の線を引いてみました。
すると
線の中央近くに、「浄蓮の滝」(じょうれんのたき)という
「日本の滝百選」にも数えられる名瀑(めいばく)があることに気づいたのです。
「浄蓮の滝」は「浄蓮寺」というまぼろしの寺や、
「女郎蜘蛛」にまつわる伝説が残る有名な観光地で、
#005
「荒雲ノ魅恋」(あらくものみれん)の題材となった場所でもあります。
「雲」見浅間神社と大室山浅間神社のほぼ中間の場所に「蜘蛛」と名の付く伝説の地があって、
ただの偶然とは思いますが、
「雲 / 蜘蛛」という音(おん)が重なる言葉と、
荒魂(あらみたま)と和魂(にぎみたま)の中間、
いわゆるニュートラルな位置関係にそれが存在したことに、
強く興味を惹かれました。
そして、調べて行くと「蜘蛛」は、
毒性を持つ種もいますが、人間にとってはほぼ無毒なものもあり、
また、
ハエやダニ、Gなどの害虫を食べてくれる有益な側面を持つ傍ら、
見た目のグロテスクさから「悪者」として扱われることが多く、
「アラクノフォビア」という謎の恐怖症や、
「夜見かけた蜘蛛は親でも殺せ」などの強烈な迷信もあるせいか、
無慈悲極まりない扱いを受ける生物となります。
また、古代日本においては
時の王権に従わなかった者たちを
「土蜘蛛」(つちぐも)と呼称し、
蔑視(べっし)と畏怖をもってまみえ、
滅ぼすべき対象として扱っていたようで、
中世に至ると蜘蛛は、
英雄に退治される「化け物」として描かれ、
それが人々の間で広く受け入れられたことにより、
本来の価値とはそぐわぬ
「不遇な価値」を与えられ続けることとなってしまった
ある種、悲劇の生物であるとも言えます。
#005「荒雲ノ魅恋」(あらくものみれん)は
「人半分、蜘蛛半分」という性質を持つ「半人半妖」で
人でも蜘蛛でもなく、
「どちらとも言えない」異形の生物として生まれ育ちます。
魅恋(みれん)は、その見た目から人々に忌み嫌われ、迫害されることになるのですが
人間に恋をしたことで、自分の進むべき道を見いだし、
それを貫き通すも、
最期は報われずに死んでしまう……という
悲劇の結末を迎えます。
しかし、そんな彼女を見ていたとある神様は
憐れみ、
彼女を神として新しく転生させることになるのですが、
この時、彼女を助けた救いの神こそ、
今作の
「回峯院弥雲」(えほういんみくも)となるのです。
回峯院弥雲(えほういんみくも)は私が妄想した本来のイワナガヒメであろう姿を投影した神様ですが、
イワナガヒメは「美醜」という価値に苦しめられ、
また、性差における苦悩も
もしかすると持ち合わせていたかもしれない神様で、
正史においてはその悩みが一切解消されることなく、
拒絶され、救われぬまま
呪いの言葉を発し、歴史から姿を消すこととなってしまいます。
しかし、元々は優しい神であったろうと推察した時、
弥雲は
「荒雲ノ魅恋」の持つ同種の悩みを捨て置くことは出来ず、
見守り続け、
誰からも受け入れられず見捨てられた彼女を助け、
そして
すくい上げる神となった……
―そう妄想したところ、
この時初めて、
「零れ落ちてしまった者を救う神」
いわゆる
「拾う神」が誕生し、
「蜘蛛」のように不遇な扱いを受けて
救われずに見放されてしまった者たちを「見」つけ、
そして助ける神、
「蜘蛛(雲)見の神」
が、成立したのです。
また、先に紹介した「土蜘蛛」は
書物によっては「土雲」と称されることがあり、
蜘蛛と雲の関連性が垣間見え
また、
もともと「雲」と言う言葉は
「豊雲野神」(とよくものかみ)などの
神様の名前に使用されるなど、
良い意味を持つ言葉であることが推測でき、
「荒雲ノ魅恋」同様、今作の神さまにも「雲」の言葉を使用し、
その関連性を示すものとしています。
そしてまた、
蜘蛛(雲)を見つけ救うために、
「烏帽子山」と「大室山」の間にそびえ立つ険しい山々を
日々、回峰(かいほう)して過ごしていたであろう姿を想像すると、
その姿とはまさに、飛鳥時代に成立したとされる
「修験道」を想起させ、
これについても興味を持ち、色々と調べて行くと、
かつての栄枯盛衰の過程というものが、とても興味深く、
関連性を持っているような気がしたため、
今作を形成する要素の一つとして取り入れさせていただくことにしました。
そして次は、
そんな修験道にまつわるお話を紹介していきたと思います。
【 修験道 】
修験道とは、
日本各地にそびえ立つ山々、そして大自然を
神として崇め奉る「古神道」や「山岳信仰」が
外来の仏教や道教など、様々な要素と混ぜ合わさり発展した
「神仏習合の信仰」となります。
山自体をご神体と崇め、
幽玄なる峰々に入っては命がけの修行をし、
度重なる擬死再生(ぎしさいせい)を経て、
呪術的な霊力や験力(げんりき)を得ることを求め、
その目的は、
人が持つ仏性の発揮であり、
自他ともに一切の衆生を救うべく、
菩提心を成すための道となります。
修験道における修行の過酷さは有名ですが、
中には想像を絶しているものがあり、
その昔私は
「千日回峰行」(せんにちかいほうぎょう)という
修験道で最も厳しいと言われる荒行をテレビで見たことがあるのですが、
その内容があまりにも強烈で
今でもふと思い出すことがあります。
千日回峰行は「比叡山」や「大峯山」(おおみねやま)など、
行う宗派によって内容が異なるそうなのですが、
私が見た大峯山の千日回峰行は、
過去1300年の歴史の中で
たったの二人しか満行者がおられないという、とんでもない荒行で、
その内容は、
高低差1000M以上の険しい山道を往復48km、一日16時間掛けて歩き、
それを年間およそ4ヵ月、足掛け9年、トータル1000日間続けるというものです。
起床は深夜23時半、食べ物は少しのおにぎりと水だけ、
病気やケガ、体調不良に大嵐など、
一度始めたら、いかなる理由があっても途中で止めることはできず、
自らの判断で行を止める事は、それ即ち「死」であり、
満行するか、さもなくば
あらかじめ用意した短刀で腹を切り、自害して終えるしかないという、
まさに死と隣り合わせの、命掛けの修行です。
そして千日回峰行を満行した後も
四無行(しむぎょう)という
飲まず(断水)
食べず(断食)
寝ず(不眠)
横にならず(不臥)を
9日間行うという
さらなる苦行が待ち構えており、
「3日水を飲まないと人は死ぬ」
と言われることからも見て、
これがどれだけ「超人的」で「危険」なものかが分かります。
千日回峰行を成し終えて、体内を浄化し、
過酷な環境に順応した人だからこそ挑戦できる、
まさに荒行中の荒行といってもいいでしょう。
そして、
成し遂げるまでに最低3回は生死の際(きわ)を体験するとも言われており、
そういった究極の壁を超えた方が苦行の中で悟り、語る言葉というものはとても重く、
自然と聞き入ってしまうわけですが、
験力(げんりき)とはどういった力なのか非常に分かりにくいものですが、
こういった現象もその一つなのかもしれないなあ……
と思ったりするのでした。
そして「福慈周辺」とは直接的な関りはありませんが、
古くは富士周辺で修験道が隆盛したこともあり、
そんな「千日回峰行」から連想した修験者の方々が、
一切の衆生の幸せの為に山々を巡り、苦行を重ねるという姿が、
今作の神様の姿と私の中で一致したため、
「回峯」という言葉を名前に付けさせていただくことにしました。
【 役小角(えんのおづぬ) 】
想像を絶する修行を己に課す修験道の始まりは
今から1300年前の飛鳥時代と言われており、
「役小角(えんのおづぬ)」
または
「役行者(えんのぎょうじゃ)/ 役優婆塞(えんのうばそく)」
という伝説的な人物によって創始されたものだと言われています。
*優婆塞(うばそく):出家せず在家のままで仏教に帰依する人のこと。
634年、大和国葛木上(かつらぎのかみ)の郡、茅原(ちはら)村(今の奈良県)に生まれた役小角は、
実在の人物であるとされながらも、数多くの伝説が残る不思議な人で、
その謎めいた魅力は、小説やゲームなどで度々取り上げられ、
今でもたまに見かけることがあります。
役小角は「前鬼」「後鬼」という名の鬼を従えている姿が有名で、
彼らもまた強く、
甲州に巣くう魔人を討ち滅ぼす働きをしたともいわれています。
さらに役小角は鬼神を意のままに使役していたとされ、
日常的に薪集めや水汲みなどをさせ、
彼らが命令に従わない時は
「孔雀王呪経の呪法」という不思議な術により
その動きを縛り、懲らしめていたのだそうです。
日本霊異記(にほんりょういき)においては、
一言主(ひとことぬし)という神様でさえ小角(おづぬ)は呪縛してしまったと描写されており、
これら説話の信ぴょう性についてはさておき、
途轍(とてつ)もない力を持った人物として描かれていることが特徴です。
同書によれば、
役小角はかつて金峯山(きんぷせん)と葛木山(かつらぎやま)に橋を掛けようとして
鬼神達を使役し、これに当たらせようとしたのですが、
神々は困り果て、
葛木山の一言主(ひとことぬし)の大神が人に乗り移り
天皇に讒言(ざんげん)したことにより、やがて小角は捕縛され、
遠く伊豆の大島まで流刑されることとなります。
ここで役小角と福慈(ふじ)の繋がりが出てくるわけですが、
小角は伊豆大島の地でただじっと刑に服していたわけではなく、
昼間は大人しく大島の地にいて修行し、
夜になると
陸を駆けるように海上をとび渡っては、
一晩のうちに富士山に登り、そこで修業をして、
そして朝方にはまた大島へ帰って来る
という超人的な生活を送っていたようで、
伊豆大島から富士山頂までの直線距離は約100Km。
彼が「孔雀王呪経の呪法」を使い
高速で空を飛べば出来なくはない距離ではありますが、
さすがに、にわかには信じられない内容で、
これこそまさに伝説と言えるでしょう。
そして、時は西暦699年、
富士山はまだ気軽に人が登れるような場所ではなく、
このことから役小角は、
初めて富士登山を成した人、ともされています。
また役小角は富士山だけではなく、
伊豆熱海にある「伊豆山(いずさん) / 走湯山(そうとうざん)」にも立ち寄っていて、
その地で堂を建立し、
走り湯と呼ばれる温泉を見つけるなど、様々な足跡を残しています。
その後の走湯山は修験の地として、
修験道の開祖が訪れた縁もあってか隆盛し、
さらに時代は進んで平安時代、
この地で修業した「末代上人(まつだいしょうにん)」は
1149年、
富士南麓の村山口より富士山頂に登り、
そこに大日堂という仏閣を建てたことで、山岳仏教の礎を築きます。
そして、その後の末代上人は
村山の地に伽藍(がらん)を建て、
大棟梁(だいとうりょう)と号して富士山の守護神となり、
これが富士山信仰における村山修験の始まりともされるわけですが、
その後は様々な変遷を経て、
村山修験は衰退の一途を辿っていきます。
衰退に至った理由は様々なのですが、
村山修験が冷遇されることとなった原因の一つとして興味深かったのは、
彼らが今川家の「スパイ」として活動していたことが関与しているのではないかと思われ、
次はそのことについて紹介してきたいと思います。
【 山伏 と 忍者 】
戦国時代に入ると村山修験は今川家の庇護を受ける事となります。
各地に寺社を持つ彼らは自由に諸国を行き来できる特権を持っていて
今川家の密命を受けたであろう彼らは、その利点を最大限活用し
主家の為に様々な活動をしていたそうです。
今川家の他にも、武田家などもの諸大名も
山伏をスパイに活用していたらしく、
のちに駿河を納めた武田家は、
村山修験を冷遇することになるのですが、
山伏へ抱いていた武田方の「恐れ」がまさにこの時現れていた、
と言ってもいいのかもしれません。
その後天下統一を果たした徳川家康も、
山伏の自由な活動と勢力、全国各地を歩き回る機動性を危惧し、
山伏の行動を押さえつける法度などを制定していきます。
かつて山伏は通行税を免除されたり、関所を通過する際も詮索されにくいなど、
政治犯や犯罪者が逃亡する際の変装にはうってつけだったようで
かの源義経(みなもとのよしつね)も、
兄、頼朝(よりとも)に都を追われた際、
山伏の変装をして奥州平泉(おうしゅうひらいずみ)まで逃げ延びたとされています。
そして山伏は一説には忍者のルーツともされており、
先に紹介した諜報活動に始まり、
薬草の知識や、
山伏が唱えていた九字護身法(くじごしんぼう)という呪文
(臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、前、行)が忍者も使用していたりなど、
類似点が多く見られ、妄想がとどまることはありません。
戦国、江戸期に修験者である「長谷川角行」によって創始される富士講においても、
それら忍者の片鱗が見える要素があり、
富士講徒を支え、宿泊や潔斎(けっさい)の場を提供した「御師」(おし)と呼ばれる人たちは、
武田家の家臣団として合戦に参加したり、また透破侍(すっぱざむらい)として諜報活動に従事していたそうで、
その背景としてはやはり、
彼ら御師が檀家関係を結んだ各地へと
自由に往来できる特権が認められていたからであり、
先の山伏との類似性が感じられます。
そういった修験道や山伏について見ていくと、
神仏習合の教義や、在家のまま仏道に帰依した役優婆塞(えんのうばそく)による創始など、
なんというか
懐の広い、自由なイメージがあって、
良くも悪くも多くの人に関わり、利用され
そして、
どんどんと広がりを見せていく中、
その存在が有名となり、
関わる人が増えていくことによって
インチキしてお金儲けをする人が出てきたり、
それを揶揄するかのように狂言に取り上げられるなど、
まじめに自他救済の為に苦行に打ち込む修験者も多い中、
「広がりや、自由化、多様化における果て」
というか
「靴磨きの少年的な末期の天井感」
がそこには感じられました。
そして、様々な要因もあったとは思いますが
修験道のおおらかな教義が時代にそぐわなかったのか、
明治五年、神仏分離令の数年後に
「修験道は禁止」とされ、
その瞬間、
約17万人の山伏が職を失ったと言われています。
明治5年は、折しも富士登山の女人禁制が解かれた年でもあり、
解放と同時に、抑圧された年でもあって
これもある種の、
明治時代を象徴する出来事の一つだった……と言えるのかもしれません。
【 二つの富士講 】
次に、江戸時代に大流行した富士講に目をやると
富士講は、修験者である「長谷川角行」が創始したものになりますが、
やがてこの流れは、2つに分裂することになります。
角行から始まった仙元大菩薩(せんげんだいぼさつ)を富士の神とするこの教義は、
二代目、三代目と受け継がれ、指導者が移り変わっては1710年頃、
連綿と受け継がれた一つの流れが二つに分裂し、
袂(たもと)を分かつこととなってしまいました。
一方は「光清派」
もう一方は「身録派」として有名ですが、
光清は正統派の法灯を継ぐ者として傑出した人物だったそうで、
江戸の裕福な商人であったことから財力や人気があり、かつ有名で
「大名光清」などと呼ばれ慕われ、
私財を投じて「北口本宮冨士浅間神社」の大造営を行ったとされています。
光清は裕福な階層の人たちから支持を集めていて、
傍流先の「身録」のことなど、まったく気にも留めていなかったと言われています。
片や、
枝分かれした「身録派」の指導者「食行身録」(じきぎょうみろく)は
光清とは違い非常に貧乏で、
油の行商を行いながら、
ただひたすらに信仰の中に生きた人だと言われています。
「身録」の名は、「弥勒菩薩」(みろくぼさつ)から取ったとされ、
弥勒菩薩とは、釈迦の死後、56億7千万年後にこの世に顕れ、
釈迦に代わって人々を救う仏であり、
その生まれ変わりだと自負する身録の姿は、
売名ではなく、
ただひとえに傑出した信仰心の強さを物語っています。
その例として、
金銭に一切の執着を持たず修行に明け暮れた身録は
非常にとりつきにくい性格だったそうで、
祈祷や護符、呪術などの「商的」なものを酷く嫌い、
極貧で、身なりも怪しく、
道を外れた方法で得た供物などを心眼で見抜き、
受け付けなかったのだとか。
彼は、光清とは異なり、
世に見捨てられた貧しい庶民への救いに目を向けたことから
「乞〇身録」などとも呼ばれ、
その貧しさと、かたくなな人柄から
正統派で裕福な光清には一切及ばない傍流として、
いつしか嘲笑のネタにされていたそうです。
しかし、そんな身録こそ、のちに「富士講中興の祖」であると謳われるほど
富士講を発展させるきっかけを作った人であり、
今作の参考にさせていただいた要素の一つとなります。
今作の神様「弥雲」(みくも)の「弥」(み)の字はここから来ており、
弥勒菩薩の「弥」であり、食行身録の「身」でもあります。
弥勒菩薩は釈迦でも救えなかった人々を救うにはどうしたらよいかと思索するポーズが有名で、
「半跏思惟像」(はんかしゆいぞう)でその姿が見られますが、
今作の神様は「拾う神」
つまり、救われなかった人たちを救う神であることから
この類似点をもって制作の要素とした次第です。
【 食行身録(じきぎょうみろく) 】
なぜ、江戸の人たちに揶揄されていた食行身録が
「富士講中興の祖」として崇められるようになったのか、
それは、
身録が富士山中で
「入定」(にゅうじょう)したことが
最たる理由として挙げられるでしょう。
(入定:信仰心をもって時期を決めて入滅すること)
折しも1732年に起きた「享保の大飢饉」(きょうほうのだいききん)の年、
富士山で入定することを決めた身録は、
富士山頂の「釈迦の割石」をその場所と定めましたが、
大宮浅間より来た使いの者に断られ、
7合目まで下り、
「烏帽子岩」と言う場所で最終的には入定することとなったそうです。
身録が断食入定するまでの教えを説いた言葉は
「三十一日ノ巻」として残っており、
身録の死後、またたくまのうちにその話が拡がり、
「大名光清に乞〇身録」と揶揄されていた身録はもうそこにはなく、
「弥勒菩薩の権化」であると、神のように仰がれることになったと言います。
身録の死後、特に現行の世に不満を持つ人々から大きな支持を集め、
また、「枝講」を認めたことにより、
その後、富士講は爆発的に広まっていくこととなるのですが
この様相を現代に置き換えてみると、
二次創作を認めた作品の広がりのようなイメージがあり、
片や、光清派はそれを認めず、
厳粛に法灯を継いでいったことにより衰退の一途を辿ります。
また身録の教えは男女や身分の平等を説いたものだとされており、
現代においては当たり前の価値観ですが、
封建社会の当時においては珍しく
抑圧された人々から見れば、
まさに救いの神として崇めるには申し分ない存在だったのかもしれません。
食行身録に端を発した富士講は、
その後「江戸八百八講」と言われるまでに隆盛し、
増えすぎた講徒を危険視する江戸幕府によって度々禁令が出され、
こうした栄枯盛衰について考えてみると、
先に紹介した
「広がりにおける果て」と同一の何かを感じ取ることができ、
やがて富士山が誰でも気軽に上れる大衆化された場所になると、
そこに信仰を見いだしていた富士講は、
徐々に衰退の一途を辿ることとなっていきます。
【 天狗 】
修験道や富士山に関わる事跡を見ていくと、
そこには「天狗」が祀られている姿を見かけることがあり、
北口本宮冨士浅間神社の巨大なお面や、
村山浅間神社のカラス天狗など、
また、富士山五合目の冨士山小御嶽神社(ふじさんこみたけじんじゃ)には
「天狗の庭」と称される場所があり、
大天狗が用いたと言われる大斧があります。
かつて日本の天狗は
流星の音を天狗(あまつきつね)の吠え声であると、日本書紀に記されたことから始まり、
その後は、
山地で起こる怪現象に天狗を見いだしたり、
仏道修行を害する妖怪の一種になるなど、
様々な変遷を経て現代にその姿を残しています。
天狗は次第に山岳信仰や修験道と結びつき、
山伏の姿をして庶民を救済する、
いわゆる神としての一面を持ち始めたわけですが、
どちらかといえば日本神話に記されるような大神ではなく、
もっと人々に近しい神として、
ここ富士山の地に祀られるようになったと言います。
そして、
富士山の天狗は「太郎坊」という名前らしいのですが
元は京都の愛宕山におわす大天狗なのだそうで、
富士修験の始まりである村山修験は
後に「京都」の聖護院門跡に属するなど、
ここに「京都の繋がり」が見え、
なぜ京都の天狗様が富士山にやってきたのか?
もしかしたらこういった所に何かしらのルーツが潜んでいるのかもしれません。
今作の神様は、修験道の要素を取り入れたことから、
天狗様のモチーフをデザインに組み込んでいます。
また、神使が烏(からす)であるのは、
上述したカラス天狗から連想したことと、
富士講指導者が残された書に「3本足のカラス」が描かれているものがあり、
修験道、富士講にカラスの関連性が見え、また、
3本足のカラスと言えば八咫烏(やたがらす)が有名ですが、
八咫烏は神武天皇東征の折、大和国へと道案内した導きの神でもあり、
困窮した者を助けるという点や、いくつかの類似点が見られたことから
今作の神使として描かせていただいた次第です。
また、カラスのデザインやイメージというものがなんともカッコよく、
「どうしても描きたかった…!」
というのが大きな理由でもあります。
カラスに負けず劣らず天狗のデザインもとても秀逸であり、
描けるチャンスがあるならば、ぜひ描いてみたい……!
そう思わせる魅力にあふれた存在だと言ってもいいかもしれません。
【 回峯院弥雲(えほういんみくも)名前などの説明 】
名前の「回峯」(えほう)は「かいほう」であり、
修験道における最も厳しい修行、
「千日回峰行」(せんにちかいほうぎょう)から連想した言葉で、
イワナガヒメの魂が、
上述した伊豆西部にある「烏帽子山」(えぼしやま)と
東部の「大室山」(おおむろやま)とを行き来する様子からも着想を得ています。
また「回峯」の字を「介抱」(かいほう)とした場合、
それは、助ける者、
すなわち
見捨てられた者を救う「拾う神」の一面であり、
さらに「回峯」を「解放」(かいほう)とした場合、
抑圧された貧しい人々を救うべく、
信仰に身を窶(やつ)し富士山で入定した
「食行身録」(じきぎょうみろく)の姿となり、
後に発展する富士講の広がりもイメージしています。
「弥雲」(みくも)の「弥」の字は
かつて身録がその名に取り入れ、自らがその生まれ変わりであると称した
「弥勒菩薩」(みろくぼさつ)のことであり、
お釈迦様の手から零れ落ちた者すら救おうと思索する、
弥勒菩薩の慈悲深い姿から関連性を見いだし、付けた名前となります。
また弥雲は「見雲」であり、「蜘蛛」を「見」つける神、
すなわち
「蜘蛛」のように
「不遇な価値」を与えられてしまった者、そして
それ故に見捨てられてしまった者たちを「見」つけ、助ける神であり、
「(雲見)浅間神社」と「大室山浅間神社」の中間に位置する
浄蓮の滝の「女郎蜘蛛伝説」を題材とした、
#005「荒雲ノ魅恋」(あらくものみれん)を救った神である、と設定しています。
弥雲は日本神話に登場する「イワナガヒメ」の「本来の姿」を
私が自由な発想で妄想し、投影した神様でもあり、
醜さを受け入れてもらえず、突き返された苦しみや
性差による苦しみも、もしかしたらあったのかもしれない、という思いから、
今作の神様は性別(外見)を曖昧に描いています。
修験道の教義が調和を意味する「神仏習合」であるように、
おおらかで、懐広く、
しかし、衆生救済のためには
己が苦しむことを厭(いと)わない、
そんな優しい神様、
それが「回峯院弥雲」(えほういんみくも)となります。
弥雲(みくも)は常に険しい山々を巡り歩いては修行に勤(いそ)しみ、
その傍ら、困った人を探し救済することを本分としています。
しかし、誰でも彼でも救える万能の神かと言うとそうでもなく、
「弥雲」の眼鏡にかなう者、
つまり「見捨てられた者」だけに、ことのほか手を差し伸べる神であり、
その時発揮される力はとても強く、
対象を神へと転生させる事象もいくつか確認されています。
ただ、その性質は神の持つ本来の力ではなく、
過酷な修行の果てに自らが編み出した、
「呪術」的な力に近いものがあり、
衆生救済のためには手段を選ばない弥雲の性格が、ここに表れています。
弥雲はとても修業が好きな神様で、
あまりにも行き過ぎた荒行は、他者から見れば
もはや「自傷行為」にすら見え、
それを目の当たりにした諸神たちからは
心配されるか、
もしくは、
一歩距離を置かれるか、
そのどちらかの対応を取る姿が見られます。
弥雲は他者に邪険にされたり、無視されたりすると
なぜかとても喜び、
ありとあらゆる負のエネルギーを修行と捉え、
甘んじて受け入れてしまう性質があります。
そのため、怒りの沸点がとてもに分かりにくく、
良かれと思って言った言葉が、逆に
弥雲の逆鱗に触れてしまうことがあり、
円滑にコミュニケーションを取るのが難しい神様でもあります。
神出鬼没で、ひとところに定住する神ではなく、
しかし、
稀に人跡未踏の霊山などでその姿を見かけられることもあり、
または、
ごく稀に、
苦行を求めて人里に降りてくることもあると言われていますが、
基本的に各地を転々とする神であるため、
用があっても弥雲を探しだす事は難しく、
そのため諸神は、
「ありもしない未知の苦行があるという風説」を餌に撒き
それにおびき寄せられた弥雲がホイホイ現れたところを
捕まえられる……
そんな姿がたびたび見かけられています。
【 さいごに 】
思い起こせば1年と数か月……。
ようやく晴れて今回、
天地神名シリーズのラストを迎えることができました……!
これら制作に掛けた期間を長いと捉えるか、または短いと捉えるかは、様々な見方があると思いますが、
私的には本当に色んなことがあり、
とても長い時間に感じられました。
このシリーズは
「福慈(ふじ)周辺の神様」という括りで制作することを目標に始まったものですが、
創作した8柱の神様を見てみると、
8柱の内4柱が富士山の要素を含むという
非常に偏ったものとなっています。
しかしそれは、言わずもがな
富士山の存在がとてつもなく大きかったが故で、
「無視することの出来ない」
「不思議な魔力を持っていたから」と
言わざるをえません。
シリーズ当初は、
もっとローカルなネタで創作したいと考えていて、
その片鱗をうかがわせるのが、
#001の「小稲荷小石」(こいなりこいし)などに見られる最初期の作品になりますが、
気付いたら富士山の魅力に引き寄せられて、
気付いたらこうなっていた……―というのが顛末となります。
そして最初の想定は7柱だった神様も、
ロケハンを重ねていく上でどうしても描きたいものが見つかり、
最終的にはトータルで8柱となったわけですが、
「8」という数字も「7」に負けず劣らず「聖数」であり、
とても縁起のいい数字でもありますので、これを以って区切りとし、
今作で「天地神名シリーズ」を一先ずのラストとさせていただきます。
今後もこういった創作活動を続けていけるかは、
まさに「神のみぞ知る」であり、
続けたい気持ちはあるのですが、ここ一年で様々な出会いがあり、
思いがけない新しい繋がりが生まれるなど、
私からすればとても嬉しく、身に余るもので、
そういった縁により頂いたお仕事、本業などで手が回らず、
なかなか予定を組み立てられない状況となっています。
たかが8柱、されど8柱、
しかし私の人生の一部を費やした作品であることに間違いはなく、
全力をもって産みだした作品であると、胸を張って言うことができます。
日々情報が溢(あふ)れる時代にあり、
このような作品に目を留めてくださった事は、
もうすでにそれだけでありがたく、
さらには、
このような些末な雑記に時間を割いてくださったことは
ただただ、感謝しかありません。
#001~#008の雑記で書いた文字数を調べてみると
およそ15万文字以上あり、
「長編小説並み」のものとなってしまいましたが、
さすがに全部目を通してくださった方はあまりいないとは思いますが、
もしいてくださったならば、
さらなる深い感謝を申し上げる次第です。
―さて、
それでは今回の雑記もだいぶ長くなってしまったので
そろそろこの辺で幕を引きたいと思います。
私は絵を描くことを生業としていますので、
今回のシリーズが終わったとしても、おそらくはどこかで、
何かしらの活動を続けていくのだろうかと思いますが、
また何かのきっかけに、
偶然でも必然でも、もしかしたら案外すぐにお目に掛かることができるかもしれませんが、そのときまた見ていただけたらとても嬉しく思います。
それでは、今この時をもちまして
「天地神名シリーズ」を終了したいと思います。
ありがとうございました!!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?