見出し画像

ダディ。

僕は、ともだちのひとりの人から、こう呼ばれている。

基本、どこにでも単身飛び込む事が多いし、イベントやレセプション、飲みの会だけで会う人からすると、プライベートの僕の姿すら見えにくいかもしれない。

だが、僕はダディでもある。そう、父ちゃんでもあるのだ。

この言い方がしっくりくる。

川端寛之という命の中の、いくつかの役割の中のひとつにダディというものがある。

核に川端寛之がいて、僕と紐づいている、そのいくつかの役割という線の伸びた先が社会と繋がっている。そんなイメージ。

役割というのは、何かから、誰かから、何かを求められているという事だと言えるので、それは、自分の存在理由のひとつになり得る。

ありがたい事だよ。その役割が多ければ多いほど良いってわけでもないと思うんだけど、自分が生きるひとつの確かな理由ができるよね。自分がそこに存在させてもらうひとつの理由になる。

自分の価値なんて、一人でいたら、実にちっぽけじゃないか。

何かや誰かに求めてもらう事によって、その期待に応えたいとなる自分が生まれるわけだな。他者の関わりの中で初めて自分の輪郭が浮かびあがってくる。そんな感覚がある。

そして、そのために、自分じゃない誰かのために、日々の繰り返しのように見える積み重ね、そう日々の準備が何の苦もなくできるわけだ。誰かに求められる瞬間のために。

ひいては、自分は何のために生きるのか?自分は何のために存在するのか?とかが、何かや誰かに求めてもらえた時に、自分の目の前に、実感として、ぐっと立ち上がって来る。その理由が具現化される。

自分と自分以外の世界があるとして、その自分以外の世界との関わりしろというのかな。

さてさて、本題だよ。今回の写真は、去年の終わりの頃に息子の七五三(もう六歳だけど)のお参りに行こうとなり、その際に、よくある写真スタジオで写真を撮るという儀式みたいな感じよりも、意味のある形でお願いしたいなと思っていた。

というわけで「A HAMLET」のプロジェクトチームの仲間でもあり、入居者でもある「Eat,Play.Sleep inc」の岡安さんに依頼して「A HAMLET」と近くの田んぼと大井神社で撮ってもらった。

うふ、撮ってもらう理由しかないよね。

で、撮ってもらった写真がこちらだ。狭いスタジオで撮ってもらうより、息子の表情、動きが俄然ナチュラルで、実に生き生きとしている。

ここ数年で関わらせてもらう事が多くなった亀岡の並河というまち。

このまちで、集落再生プロジェクトを2つさせてもらっている。

そのひとつひとつが、かけがえのない、僕が存在させてもらえる役割のひとつになっているんだ。

ああ、しまった。今回はダディとしてだった。

おい、息子よ。

時に、俺は、俺の親父の息子として、この世に生を授かり、とても良かったと思っている。

そして、俺はお前の父ちゃんをさせてもらって、幸せだ。

だから、お前にも、俺の息子で良かったって思ってもらえるように、俺の命、しっかり燃やすから、その姿を息子の特権として一番いい席で見させてやるからさ、カッコ良いかカッコ悪いかはお前が判断したら良い。尊敬するも良し、反面教師にするも良し。どっちにしても良いから、とりあえず、一番近くの男の、そう父ちゃんの生き様をしっかり目に焼き付けておけよ。

たぶん、あんたが、俺といろいろ話したいなってなった時には父ちゃんはきっと、もう死んでるからさ。

だから、生きていて、生き様を見せてやれるうちに見てくれよって話。

幼き頃の俺を含めた子どもたちは、大きくなった時に、そういう幼き自分が見させてもらった景色を、過去の記憶を掻き集めて、良くも悪くも、自分の生きる指針にするんだよ。

知らんけど。

いいなと思ったら応援しよう!