日光道中・奥州道中 その1 南と北の分かれ道、さらなる北への分かれ道(日本橋~千住)
街道歩き、まずは、東京から近く、交通の便も良さそうな日光道中(日光街道)が最初に完歩した街道です。
日光道中のうち、日本橋から宇都宮までは、奥州道中とも重なる区間ですが、結果的に、日光道中と奥州道中の2回分歩いていました。
まずは2015年の4月から9月にかけて、このときは、初めての街道歩きでペースがつかめなかったり、半日単位で歩いたことも多かったため、1回あたり10キロ程度の歩きの日も多く、宇都宮まで10回程度と、かなり細切れに歩きました。
次は2017年の5月と6月、そして2019年の11月に、この3回で宇都宮まで、一度歩いたことがある道ならではの、ひたすらにスタスタと歩くペースでの歩きでした。
ご存じ、五街道の起点、さらには全国各地へと繋がる道の起点「日本橋」。
この橋から南へと向かう東海道には背を向けて、江戸よりも北の地方へと向かう日光・奥州の街道の旅、まずは、江戸時代から魚河岸や商家で賑わい、今も三越デパートや多くの老舗店が並ぶ賑やかな風景を眺めつつ歩きます。
そして、日本橋から歩き始めてすぐに、一緒に進んできた街道同士の最初の分かれ道、大宮・高崎を経て信濃へと向かう中山道とはお別れして、日光道中・奥州道中は右に曲がり、今の都心では少し細く感じる道(幅の広い国道6号ではなく、その2本ほど手前の道)へと入ります。
そして、江戸時代には幕府による最重要道路「五街道」の一つとして整備された日光道中・奥州道中の道筋も、その後の「東京」の歴史の中でつくられた「昭和通り(関東大震災の後、当時の「帝都」東京の復興計画に基づき、昭和初期につくられた)」には「道を譲った」ような形となり、昭和通りを横切ることはできず、ここは昭和通りの下を地下道で通り抜けて歩きます。
ちなみに、関東大震災からの「帝都復興」を主導して「昭和通り」の計画にも尽力した人物「後藤新平」は、奥州道中をはるばると歩いた先の「岩手県・水沢」うまれの人物です。
まだ街道を歩き始めたばかりのこのときは、「いきなり地下道か~、面倒くさいなぁ~」という感覚でしたが、その後、各地の街道を歩くにつれて、「旧街道のルートに、せめて地下道か歩道橋でもあればいいのに・・・。」とぼやきながら、バイパス道路を数百メートル単位で迂回して押しボタン信号を渡ることになるとは、このときは予想もしませんでした・・・。