日光道中・奥州道中 その6「千住の宿を結ぶ橋 (南千住~千住大橋)」
南千住駅への交差点を過ぎ、かつての千住宿へと入ります。
千住宿、本陣などは千住大橋の向こう側、今の北千住の界隈にありますが、千住大橋の南側にも宿場町が広がり、今の南千住から千住大橋にかけては「千住下宿(せんじゅしもじゅく)」と呼ばれていたそうです。
さらに歩き進むと「千住おおはし」が見えてきました。
ん?千住大橋・・・?(笑)
千住大橋の南側には寺社がいくつかあります。
その一つ、「素戔嗚(すさのお)神社」。
素戔嗚神社から千住大橋に向かい、千住大橋の南側に位置する「誓願寺」には、庚申塔も残されています。
そして、誓願寺には、「狸獣墓」と読める石造物があります。
荒川区の案内板では「親の仇討ちをした子狸の伝承を残す狸塚」とあります。
狸の仇討ち・・・???と検索すると、詳細は不明でしたが、「売り物の魚が姿を消すことに気づいた魚屋が、その犯人として古狸を撲殺したが、その後、物が宙に浮くなどの怪奇現象が相次ぐようになった。祈祷により、その怪奇現象は親を殺された子狸の仕業と判明し、狸の供養が行われた」という言い伝えがあるらしいです。
これ、「仇討ち」といえるのかな・・・?
(ひとまずは、世の中の怪奇現象といわれるものは狸の仕業です・・・という結論にしておきましょう・・・ポン! 笑)
誓願寺から隅田川へ、次は「熊野神社」が見えてきました。
熊野神社の案内板には、伊奈備前守(伊奈忠次。徳川家康の配下として、徳川領となった関東平野を中心に、各地の新田開発や水路工事などの内政、土木事業に尽力した)が千住大橋を架橋する際に奉行に任じられていたことが記されています。
(伊奈忠次も、この後歩くことになる、どこかの街道で、思いがけないところで名前が出てくる「横糸」の一つかもしれません)
そして、いよいよ隅田川・千住大橋を渡ります。
先ほどの熊野神社の案内板によると、徳川家康が江戸に入って間もない頃、戦国時代が終焉して間もない頃につくられた千住大橋ですが、現在の橋のうち、アーチが特徴的なこちら側(西側)の鉄橋は、昭和2年につくられたものです(別の案内板から)。
その後、通行量の増加に伴い、昭和48年、この鉄橋は下り車線(都心から北千住方面へ)用の橋となり、その東隣に上り車線のための新たな橋が作られたそうです(また別の案内板から)。
かつて、「荒川放水路」が存在しなかった頃の江戸の空の下では、今よりも多くの水が勢いよく流れ、さらに、今の利根川や荒川の水がまとめてこの地に流れ込んでいた家康の時代(千住大橋が最初に架けられた当時)は、もっと多くの水が更に勢いよく流れていたであろう「大川(隅田川)」を渡り、千住宿の中心地へと入ります。